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1、広明寺の僧、物の怪を従える

 もう、捕まった方が楽なんじゃないか。

 浮かんでは消えるその思いは、回数を重ねるほど魅力を増していった。


 二上焔(ふたがみほむら)は両側を田んぼに挟まれたあぜ道を必死に走っていた。暗い夜のことである。道に街灯はなく、遠く国道から差し込む光だけがぼんやりと道の輪郭を照らしていた。道を踏み外して田んぼに落ちないよう、焔はまっすぐ走ることだけに集中していた。

 後ろから迫る足音が焔の恐怖心を煽った。前を走る相棒との距離は少しずつ、だが確実に開きつつある。必死に片足ずつ前に繰り出しているのに、全然前に進んでいる気がしない。どんなに息をしても、酸素が頭の先までいっていない。

 もういっそ、捕まってしまいたい。

 浮かんでは消える願望は、どんどん強くなっていた。


「オン アボキャ ビシャヤ ウン ハッタ」

 焔を追い立てていた足音がふいに止み、澄んだ声が響き渡った。その瞬間、焔は右足首に蝋で固められたような違和感を感じ転倒した。


 ざりっと砂利を踏む音がして顔を上げると、そこには一人の僧が立っていた。僧のまとった木蘭色の素絹が夜闇にぼんやりと浮かんでいる。焔は立ち上がろうとしたが、右脚が思ったように動かず再び転倒してしまった。

 僧は腰を屈めると、焔の顔をじいっと覗き込んだ。国道の光を背に立つ僧の顔立ちは、逆光になっていて焔からはよく見えない。しばらくして、僧はパンっと両手を打ちならして明るい声で言った。

「ああ、やっぱり! 二上くんじゃないですか」

「……飛鳥野?」

 いぶかりながら、焔は脳裏に浮かんだ人物の名を口にした。その僧の声や体つきには覚えがあった。飛鳥野浄観(あすかのじょうかん)、焔の高校のクラスメイトである。

 浄観はまだ学生ではあるけれど、広明寺塔頭の清心院で僧侶として修行中だ。はじめて見る浄観の僧形は、焔に強烈な違和感を与えた。

 浄観は偶然街角で会ったかのような気安さで焔に話しかけた。

「じゃあ、前を走っているのは二上くんのお兄さんですか? えーと、(れん)くん、でしたっけ? ごめんなさい、まだちゃんと名前を覚えてなくって」

「……」

 そのごく普通な話し方が、逆に焔の恐怖を煽った。なぜなら、刻々と痛みを増していくこの右足首の締めつけもまた、この浄観の仕業に違いないのだから。焔は返事も出来ぬまま、ただ冷や汗を流していた。

「焔!」


 前を走っていた焔の双子の兄、二上錬が引き返してきて、焔を守るように浄観の前に立ちふさがった。

「やあ、こんにちは」

 愛想よく挨拶した浄観に錬は返事をせず、左手で焔をかばいながら、浄観に右アッパーを繰り出した。

「おや」

 落ち着いた態度で浄観はそれを避けた。

「びっくりするじゃないですか」

 ゆったりとした口調とは裏腹に浄観はガッと錬の右手首をつかみ、すばやく九字を切った。

「ぐっ」

 突然大きな力で全身を押さえ付けられたように感じて、錬はひざまずいた。指一本動かせず、呼吸もままならず、ただみっともなく喘ぐことしかできない。

「あっ、かはっ」

「錬!」

 錬の尋常ではない様子に焔が立ち上がろうとするが、右足首に激痛が走ってまた転倒した。

「てめぇ、錬に何をしやがった!」

「なにって。不動金縛りをかけました」

 たいしたことではない、とでもいいたげに浄観は肩をすくめた。

「不動金縛り? それが、坊主のすることかよ!」

 不動金縛りは人間相手にかけるには危険すぎる強力な法術だ。最悪、死に至る可能性もある。そんな術をかけておいて、この男は平然としている。

「僕だってもちろん、人間相手にこんなことしませんよ。でもあなたのお兄さんなら大丈夫でしょう? だってあなたたち、人間じゃないから」

 言われて、焔はハッと口を閉ざした。そんな焔の反応を、浄観は面白そうに眺めていた。

「バレてないと思ってました? 分かりますよ、それくらい。万福寺の檀家さんには妖怪が多いですし。でもその中でもあなたたちは特に分かりやすい、力の純度が違うから。純血の妖怪なんですね。なんの妖怪ですか?」

 どこかうれしそうに言う浄観は、目の前でもがく錬の苦しみをなんとも思っていない。こいつはきっと、妖怪を人間と同等の存在だとは思っていないのだ。焔は本能的にそれを察した。

「馬鹿にするのもいい加減にしろ」

 妖怪だとバレているのなら、遠慮は要らない。人間相手に妖怪としての力を使うのは禁じられていたが、そんなことを言っている場合じゃない。

焔はその手を垂直に伸ばし、浄観に向かって炎を放った。ごおっと音を立てながら浄観に迫った炎は、しかしその直前で見えないなにかに阻まれたように勢いを失くし、しゅうと音を立てて消えていった。

「二上くん。ちょっと、オイタが過ぎますよ」

 わずかに眉をひそめて浄観がそう言った瞬間、焔の足首の痛みがさらに増し、焔は声もなくのた打ち回った。

「分かったでしょう? あなたじゃ僕に、かないっこない」

「くっ」

 地べたに這いつくばったまま、焔は怒りの表情で浄観を見上げた。

「そもそも、広明寺に無断で侵入してきたあなたたちが悪いんですから、悪く思わないでください」

 近づいてくる浄観から逃れようと、焔は足を引きずりながら砂利の上を四つんばいで進むが、後ろから浄観に頭をつかまれ、砂利の上に引き倒された。

「命乞い、しなくていいんですか?」

 笑顔で言われて、焔は怒りで視界が狭まったような気がした。

「錬にかけてる術を解いてくれ」

 怒りと悔しさで声を震わせながら、焔は言った。命乞いなどしたくはない。だが、隣でもがく錬をこれ以上見ていることはできなかった。このことばだけでは命乞いとして不十分だろう、とは思ったが、こう言って頭を下げるのが焔のプライドが許すぎりぎりの限界だった。

「ええ、いいですよ」

 意外にもあっさり浄観は承諾した。

「そのかわり条件があります」

「条件?」

 焔を見下ろしたまま、浄観は言い放った。

「ねえ、二上くん。あなた、僕の眷属になってくださいよ」

「……なに言ってんだ、てめぇ。ふざけんな!」

 焔は怒りのあまり全身を震わせた。俺に飼い犬のように人間に尻尾を振る奴隷になれというのか。冗談じゃない!

「イヤかも知れませんが、ほかに道はないんじゃないですか? だってこのままじゃ、あなたのお兄さんは死んでしまう。あなたが僕を倒すのは無理でしょうし」

 頭の悪い駄々っ子に言い聞かせるように優しい口調で浄観は言った。

「ねぇ、承諾してください。ほら、君のお兄さんもそれを望んでいます」

 苦しむ錬の襟首をつかんで焔に引きずり寄せ、その顔をよく見せようとする。錬は顔に脂汗を浮かべて、ひゅう、ひゅう、と細い息をしていた。

「あれ、思ったよりも結構ヤバそうですね」

 意外そうに錬の顔をのぞき込み、浄観が言った。

「もうあんまり持たないかもしれません。どうしよう。二上くんが承諾する前に死んじゃったら他の手を考えなければ」

 焔はたまらず叫んだ。

「わかった! もうやめろ!」

 確かに焔が浄観に勝てる見込みはほとんどない。錬を見殺しにするわけにはいかなかった。

「俺は、お前の、眷属になる」

 焔がそう言った瞬間、浄観は錬の襟首を離して投げ捨て、真言を唱えた。それに伴い、焔の右足首の周りに輝く光が出現する。その光はゆっくりと収束していき、たしかな質量を持った物質になって固まった。

「……なんだこれ」

「うん、なかなかかわいくできました」

 浄観は満足げだ。それは一見シルバーでできたアンクレットに見えたし、シンプルながら繊細なデザインはかわいいと言えなくもなかった。

「それは二上くんが僕の所有物だという証です」

「なに?」

「あなたが僕の命令に背くと、そのアンクレットは収縮して、あなたの足首を圧迫します。さらに僕の意思でも収縮させられますから、つまり、僕はその気になればいつでもあなたの足首を縊り落とせるということです」

 さらりと恐ろしいことを言われた。

「ほっ、ほむらっ」

 錬がやっと自由になった喉から声を絞り出して、焔を呼んだ。

「錬! 大丈夫か!?」

 慌てて焔は錬に駆け寄った。

「約束どおり、お兄さんにかけた術は解きましたから。じゃあ、二上くん。明日から僕が呼んだらいつでもすぐ駆けつけること。お願いしますよ」

「くっ」

 焔は拳を握って悔しさをにじませたが、何も言い返せない。立ち去る浄観をただ見送ることしかできなかった。

「焔、心配しないで」

 震える焔の拳をそっと包み込んで、錬が言った。

「大和さんに相談しよう」


「で、そもそもなんでお前らは広明寺に侵入したんだ?」

 二上兄弟の話が大方終わったところで、万福寺の一人息子、甘樫大和(あまがしやまと)は訊ねた。場所は万福寺の二階、大和の部屋である。

 この万福寺の創建ははっきりしないが、この地に移ってきたのは天正年間らしい。地元では「万福寺のたぬき小僧」という民話がよく知られており、たぬきの和尚を慕って妖怪が集まってくると言われ、別名「妖怪寺」と呼ばれている。ほとんどの人はそれをただの作り話だと思っているが、実はそうではない。

 古来、霊山を抱える葛城の地には多くの妖怪がいて、その中には人間に混じって共生してきた者もいた。特殊な能力を持つ妖怪たちは人間に重宝がられはしたが、同時に忌避されもした。平和な時代が続くと、異端なものに対する目は厳しくなる。時代が江戸に入ると、彼らの生きにくさは加速した。

 そんな時代に彼らの受け皿となったのが万福寺である。万福寺では妖怪も分け隔てなく檀家に迎え、寺請証文を出してやった。彼らが現在において戸籍を持ち、人間として暮らせているのも、この時代に万福寺が彼らを人間として扱ったがゆえである。妖怪の血を引く万福寺の檀家は、今どき珍しいほど菩提寺万福寺に対する帰属意識が高い。二上家もそういった檀家のひとつである。幼いときから万福寺に入り浸っていた二上兄弟にとって、一歳年上の大和はよき兄貴分である。

 大和に広明寺侵入の理由を聞かれて、焔は恐る恐る答えた。

「ほら、前に兄貴が言ってたじゃん。広明寺にすげぇいい石があるって!」

「ああ。確かに言ったけど」

 甘樫大和の数少ない趣味の一つに水石がある。自然石を飾って楽しむ、高校二年生にしては枯れた趣味だ。広明寺の庭には初瀬川から集めてきた名石が多く、大和が部屋に飾りたいと熱望している石が二つ三つある。

「あれ、盗ってきたら兄貴喜ぶかと思って」

 言われて、大和は大きくため息をついた。

「お前アホなの」

「もうすぐ兄貴の誕生日だしさ、なんか気の利いたプレゼントはないかと思ったんだよ」

「全然気が利いてないからね、そのプレゼント」

 大和の怒りは錬にも向く。

「錬、お前がついていながらなんでそんなことをさせたんだ」

 やんちゃな焔と違って、優等生な錬はあまり無茶な行動は取らない。

「まぁ、石ぐらいならいいかなと。一つ二つ減っても分かんないでしょう」

 悪びれた様子もなく錬は答えた。

 やはり根本的に二人は似ているのかもしれない。大和は太く長いため息を吐いた。どちらにも反省の色が見えない。なかなか腹の立つ状況である。しかし、焔が浄観の眷属として縛られている以上、放っておくわけにもいかなかった。

「しょうがない。謝りにいくしかないか」

 気は進まないが、それより他に方法はなかった。


 人間と妖怪の間で結ばれた契約は、双方の同意なくしては反故にはできない。それは長い諍いの日々を乗り越えて、二者が共存していくために編み出した唯一絶対の掟であった。一度決めた約束事を簡単に破っていてはいつまでも信頼関係は築けないからだ。

 今回も、一度焔が浄観の眷属となることを承諾した以上、こちらから勝手にその関係を断ち切ることはできない。浄観に謝って、この契約を破棄してもらうしか手はなかった。

「え、謝んの。そんな必要はないよ。みんなで飛鳥野を闇討ちにしようよ。そんで無理やり契約を破棄させればいいじゃん」

 心底驚いた、という顔をして焔が言った。

「そうですよ。大和さんが声を掛けてくれれば、みんな集まります」

 錬も同調する。大和は面倒見のよい性格と、万福寺の跡取り|(本人は継ぐつもりはないが)という立場から、瑞森の妖怪たちに慕われていた。

「お前ら、すこしは反省しろ」

 大和は思わず頭を抱えた。

「いいか、そういう話なら俺は乗らない。お前らが今回のことを反省して、飛鳥野に謝りに行くっていうなら、ついてって一緒に謝ってやる」

 えー? と焔が不服そうな声を上げた。

 えー? じゃないだろう。

 大和は折れる気はないぞ、と示すために腕を組んでふんぞり返った。

 二上兄弟は視線を交わして無言で相談していたが、やむなし、との結論を出したらしい。先輩でもあり、町の顔役でもある万福寺の息子が出てくれば、浄観の態度も軟化するかもしれない。プライドは傷つくが、もうこの際手段はどうでもいい。この契約を破棄さえできれば。

「分かったよ、謝ればいいんだろ」

 不服そうに焔が言った。

「ただ謝ればいいってものじゃない。ちゃんと反省して、心から謝るんだ」

「はーい」

 適当な返事を返す焔に不安を募らせる大和であった。

 

「昨夜はうちの檀家の者が大変なことをしでかしたようで、まことに申し訳ない」

 広明寺塔頭のひとつ、清心院の応接間に通された大和は、浄観にきっちりと頭を下げた。

「ほら、お前らも」

「「すみませんでした」」

 大和にうながされて、焔はやや不満げに、錬は形だけはきっちりと頭を下げた。

「わざわざ甘樫先輩がお詫びに来てくださるとは思いもしませんでした」

 浄観は笑顔で三人にお茶を勧める。

「本人たちも反省しているようだから、どうか許してやって欲しい」

「はぁ、そうですか」

 浄観は笑顔を崩さずに、茶を啜った。

「ですが、それはできない相談です」

「はぁ? なんだって? 謝っただろうが」

 いきり立つ焔を押さえて、大和が訊ねた。

「どうしたら誠意を伝えられるだろうか。許してもらえる方法を教えて欲しい」

「人間の生活を脅かすアヤカシの類を抑えるのは、法力を持つ者として当然の義務です。無断で寺の聖域に入り、荒らそうとする妖怪を野放しにしておくわけにはいきません」

 正論を上から言われるとすごい腹立つな、と錬はぼんやり考えていた。

「もちろんそうだろう。だが、飛鳥野。こいつらは人間だ。もちろん、妖怪としての力もあるが、人間相手にその力を使ったりはしない。だから飛鳥野、君もこいつらのことを人間として扱ってくれ」

 大和は強い口調で言い切った。

「あー……」

 焔は思わず唸った。怒られるのが嫌だったから、浄観に向かって火を放ったことを大和に報告していなかったのだ。人間相手に能力を使ったのはヤバかった。でも、あいつが先に術を使ってきたんだし。でもそんな言い訳ができる雰囲気ではなかった。なんて言おう。焔は必死で脳をフル回転させていた。

「そうでしょうか。そう思っているのは甘樫先輩だけなんじゃないですか? 現に僕は昨日、二上くんの妖怪としての能力の一端を見た気がしますが」

 大和がわずかに眉を上げた。

「お前、何かしたのか」

「えっと、そのぉ」

「錬」

 はっきり答えない焔に早々に見切りをつけて、大和は錬に聞いた。

「僕は飛鳥野くんに不動金縛りを掛けられていたので、何も見ていないし聞いてません」

 本当は見ていたし聞いていたが、錬は白を切った。さりげなく先に不動金縛りを掛けたのは浄観の方だということもアピールしておく。

 つんとあごをそらして大和と目をあわさない錬を見て、大和は察した。

 あ、これ焔のヤツ、結構派手にやったな。

「そうか。申し訳なかった」

 大和は座していた座布団を外し、畳に頭を擦り付けるようにして謝った。

「君の言っていることに理があることは俺にも良く分かる。しかし、どうかそこを曲げて、こいつらを許してやって欲しい。焔にも、焔自身の人生がある。誰かに縛られることなく、自分の道を行かせてやりたい。二度とこんなことは起こさせない。頼む。焔を離してやってくれ」

 真摯に謝る大和の姿に焔は感動した。幼い頃から親しくしていたとは言え、他人の自分のためにここまでしてくれるなんて。やっぱり兄貴って、めちゃくちゃかっこいい!

「あなたにいくらお頼みいただいても、僕の気持ちは変わりません」

 しかし、その必死の頼みにも、浄観の心は全く揺らがなかったようだ。取り付く島もなかった。


「もう客人は帰ったんですか?」

 浄観が大和たちに出した茶を片付けていると、同じ清心院に勤める山城という少僧都が通りかかった。

「はい」

 浄観が立ち上がって返答すると、ああ、良かった、と胸をなでおろす。

「汚らわしい気が充満して、ケモノくさくてかないませんでした」

「申し訳ございませんでした」

「よくあんなのの相手が出来ますね」

 浄観は返答に困った。大和たちだけでなく、浄観を揶揄する意図があるのはよく分かっていた。高僧を父に持つ山城は、出自のよくない浄観をあまり良く思っていない。

「……管長猊下からいただいたお役目を全うするためには手駒も必要ですので、仕方がありません」

 思わず言い訳した。ちょっとした嫌味を言われる程度なら我慢できるけれど、妖怪たちと同一視されるのはとても耐えられなかった。

「そうですねぇ。ああ、その湯飲みは捨ててください。汚らわしくてとても使えません。気持ちの悪い」

「分かりました」

 妖怪の使った食器など使いたくない、という気持ちは浄観にも分からないでもない。素直にうなずいた。

「今後、この場所にあの者たちを出入りさせないでください」

 そう言うと山城は立ち去った。

 掃除、洗濯、使い走りにと、焔を日常の雑用にも便利に使おうと思っていた浄観は、居宅に呼び出せなくなってすこし当てが外れてしまった。


 浄観との眷属契約を解除できないことが決定的となって、焔がなによりも心配したのが学校生活である。クラスメイトの前で屈辱的な命令をされたりしたらどうしよう。とても生きていけない。

「明日、学校休むわ」

 闇討ちは禁止、謝っても許してもらえない、万策尽きた焔は深刻な顔をして錬に言った。

「別にいいけど、」

 錬は特に止めはしなかった。

「でも焔が心配してるようなことはないと思うよ。みんなの前で焔を奴隷のごとく扱ったら、飛鳥野くんの株が下がるじゃん。事情を知らない人からみたら、飛鳥野くんが最低な人間に見えるでしょう? あの陰険野郎は自分の評価が下がるようなことは絶対しないと思うよ」

「そうか、」

 錬のことばに、いくぶん焔の心は軽くなった。

「さすがに陰険同士だと相手の行動がよく分かるんだな」

「焔、シバくよ?」

 錬の目は笑っていなかった。

「すまんかった」

「心配すべきは学校生活なんかじゃなくて、むしろ個人的に飛鳥野くんに呼び出されたときだよ。なにをされるか分かったもんじゃない。いい? もし飛鳥野くんに呼ばれたら、絶対に一人で行ったりしないこと。必ず僕を連れて行って」

「なんじゃそれ。別にお前にお守りされなくたって」

 子どもを諭すような錬のものの言い方に、焔はカチンときた。まるで焔一人ではなにもできないかのように言わないでほしい。

「でも今の焔はあのクソ野郎に逆らえないんだよ? 全部あいつの言いなりになっちゃうんだよ! めっちゃ怖い! 絶対僕を連れて行け!」

 錬の必死さに焔はのけぞる。なんかそんなふうに煽られると、焔も恐ろしくなってくる。

「わ、分かった」

 焔は深くうなずいて言った。

「できるだけ大和の兄貴を連れて行くことにする。お前じゃなくて」

 錬ではいまいち頼りなかった。


 錬のことばを信じて焔は翌日もちゃんと学校に行った。朝、浄観に「おはようございます」と挨拶されただけでびっくりして飛び上がり、過剰に反応してしまったが、それ以外では特に浄観と話をする機会もなく、問題なく一日を過ごすことができた。活発で友達の多い焔と、どこか近寄りがたい雰囲気を持つ浄観は、同じクラスではあるけれど、もともとあまり接点は無い。

 昼休みも、浄観は一人で席に座って何か本を読んでいた。焔は浄観の様子が気になって、友達と話しながらも、ちらちらと浄観の方を見てしまう。一度だけ顔を上げた浄観と目が合った。浄観は焔が自分を見ていることに気付くと、小さく笑みを浮かべた。

 あまり性質のよい笑顔ではなかった。


 問題なく一日を終えて、あとは家に帰るだけだと焔が内心喜んでいたときに、突然浄観はつかつかと焔に近づいてきた。

「二上くん」

「え! な、なに?」

 平常心で、と思うのだが、ついつい緊張して焔は思わず裏返った声で返事してしまう。

「二上くん。今日、一緒に帰りませんか?」

「え? ご、ごめん。俺、今日は用事があって」

「用事なんて、ないですよね?」

 浄観はそう言いながら右足首をキリキリと締め付けてきた。

「わ、分かった分かった! 一緒に帰ろう」

 焔がそう答えると、浄観は形だけの笑みを浮かべてすたすたと教室を出て行く。焔はあわてて荷物をまとめてその後について行った。


 まずいことになった。あんなに錬に釘を刺されていたのに、さっそく二人きりになってしまった。

 二人は無言のまま電車に乗り、広明寺の最寄り駅まで来た。焔の最寄り駅は一駅先なのでぼうっと席に座ったままでいると、立ち上がった浄観に「降りますよ」と声をかけられる。

 やばい。自分のテリトリーに引きずり込むつもりだコイツ。本当に何されるか分からない!

「い、いやちょっと。俺、広明寺には入れないよ。だって万福寺の檀家だし」

 今さらどの口が言うか、と自分でも思うが、ともかく広明寺へ連れ込まれるのだけは回避したい。もっと部外者のいるところでないと、本当に怖い。

「誰が広明寺に行くって言いました?」

「違うの?」

「違います。妖怪連れて行ったら嫌がられますし」

「……あ、そう」

 若干腹が立ったが、あえて文句は言わなかった。

「じゃあ、どこ行くんだよ」

「仕事です」

「仕事って?」

 浄観は何も返事せずに広明寺とは逆方向へ歩き出した。こっちの方にはほとんど来たことのない焔は、浄観がどこに向かっているのか見当もつかなかった。


 やがてたどり着いたのは保食神社だった。夏祭りの時には大勢の人でにぎわうこの神社も、普段はそれほど参拝者は多くない。人気のない境内を浄観は奥へと進み、拝殿まで来た。

 人影は少なかったが、賽銭箱の周りはにぎやかだった。酒にお菓子に油揚げ。果てはソーセージなんてものまで、さまざまなお供え物が山と積まれている。

「なんかすごいな。人気のある神様なんだな」

「もともと地元の崇敬を集める神様であることは間違いないですが、このお供え物の多さは別の理由によるものです。最近、この神社で神使の姿を見たという人が多くて」

「神使ってキツネか? 保食神社に住むとは頭のいいキツネだな」

 お稲荷さんにキツネが居ついたら、人間たちに大事にされそうだ。

「普通のキツネではなくて、なんでも白色に光り輝くキツネなのだそうです。そしてその神使が『お供え物をすれば願いをかなえてやる』と言うそうなんですが、お前は酒を持ってこい、お前はソーセージ、などとお供え物の品目を具体的に指定してくるそうで」

 なんだか急に話がせこくなった。

「なんだ? みみっちい神使だな」

「そんな神使がいるわけないでしょう。何者かが神使を騙っているのですよ」

「妖怪か」

 神使に化けて人間をたぶらかそうとは、近年まれに見る気骨のある妖怪である。

「あまりにお供え物が多くて処理しきれず、野良猫やカラスが荒らすので相談がありました」

「お前も大変だねえ。お前って、妖怪退治専門なの?」

「違います」

 思いのほか強い口調で否定されて、焔は少しひるんだ。

「あなた、お参りしてみてください」

「はい?」

「見た目だけでいいので、熱心に。手を合わせている時間は長いほうがいいです」

「そうすれば、その偽神使が出てくるってこと?」

「そうです。熱心に祈っている参拝者を狙うということなので」

 参ったなあ。焔は一人ごちる。確かに偽神使がやっていることはあまり褒められたことではないけれど、誰かを傷つけたわけでもなく、騙し取っているのはせいぜいお菓子やソーセージ程度のものである。基本的に他の妖怪のやっているシノギの邪魔をしない、というのが妖怪界のルールだった。

「申し訳ないけど、ちょっとこのお仕事はお手伝いできかね……イテテテ!」

 浄観に思いっきり右足首を締めつけられ、最後まで言うことができなかった。

「いい加減、自分の立場を理解してください。あなたには拒否権はないんですよ」

「もう勘弁して。まじで右足ちぎれそう」

「やるんですか、やらないんですか」

「や、やります」

 そのことばを聞いて、やっと浄観は焔の右足首を解放した。ひどすぎる。

 焔は拝殿の前に立ち、熱心なフリではなく、心底熱心にお参りをした。

「こいつの眷属契約から一日も早く自由になれますように!」

 焔が長い間一心不乱に拝んでいると、突然声を掛けられた。

「恵まれし者よ。おめでとう」

 焔が目を上げると、そこには巻物を咥えたキツネがいた。白い毛は夕陽を受けて光り輝き、澄み切った切れ長の目は全てを見通すように冴え渡っている。

「我がアルジは必ずお前の願いを聞き届けてくださるだろう。ただし、これから言うことをお前がちゃんと実行すればだが」

「おお」

 焔は感心した。威厳ある態度、光り輝く姿。これでは人々が本物と思い込むのも仕方がない。妖怪としての力がどうこうというより、化ける姿にセンスがある。

 焔とてむじなの妖怪。化ける力には自信があった。しかし、それは既に在るものを観察し、コピーする力であって、ゼロから創造する力ではない。一度観たことのある動物に変化することは焔にもできる。しかし、この偽神使は実際には存在しないものをクリエイトしている。人々が神使のキツネに期待するものを理解したうえで、理想の神使の形を体現していた。

 焔はそのキツネをためつすがめつ眺めた。いつか小遣いに困ったら、俺もどこかの稲荷神社に行って、この姿になろう。こいつみたいに荒稼ぎしなければきっとバレないはずだ。

「なにをしておる」

 焔がキツネの真後ろを取ろうとしたところで、偽神使は不審げに声を掛けた。

「いや、後ろはどうなってるのかなー、と思って。尻尾の先が黄金色なのは、やっぱり稲穂を意識してるんですか」

「そうだ。毛がふさふさと垂れ下がったところなど、稲穂が実って頭を垂れているようで縁起がいいだろう」

「いや、趣味がいいなあ」

 尻尾の先だけグラデーションで黄金色になっていくなんて、芸が細かい。

「なにを楽しげに犯罪者と会話しているんですか」

 隣から浄観に声を掛けられ、焔は我に返った。

「いや、余りの出来栄えについ我を忘れてしまって」

「貴様、なんだ。犯罪者とは、失礼であろう」

 偽神使は威厳を持って浄観に言った。

「口だけは立派ですね。偽者のくせに」

「なんだと? もう一度言って見ろ」

 偽神使は声を荒げた。まあ、偽者だと認めるわけにはいかないだろうが、それにしてもこのあくまで強気な態度、今後小遣い稼ぎをする時のために参考にしたい。

「人間を騙したことを認めて、もう二度とこのようなことはしないと誓うなら、見逃してやってもいいです。今のうちに悔い改めなさい」

 浄観のことばに、偽神使は激怒した。

「愚かしい人間よ。保食の神の怒りの恐ろしさを思い知るがいい」

「そのことばをそっくりそのままお返ししますよ」

 偽神使は猛然と浄観に襲いかかった。浄観はそれを軽くかわし、真言を唱える。

「オン アボキャ ビシャヤ ウン ハッタ」

 偽神使は足を取られて転んだ。その細い胴の上に浄観は足を乗せ、ぐっと体重を掛けた。

「正体を現しなさい」

「ぐえ!」

 たまらず偽神使は変化を解いた。黄色い背中と、土汚れた白い腹毛。キツネはキツネに違いないが、神々しさのかけらもない、それはただの野ギツネだった。

「あ? なんかお前、どっかでみたことあるな」

 焔が小首をかしげながら考えていた。

「あ! 思い出した。お前、築山のところのキツネだろ」

「うるさい! この人間もどき」

 キツネは浄観の足から逃れ、焔の体によじ登ってその顔を引っ掻いた。

「うお! なにしやがんだ、コイツ!」

 焔は必死でキツネを引き剥がそうとしていた。

「お知り合いですか?」

「まあ、一応」

「黙れ! お前のような人間もどき、知らんわ!」

 フーッと威嚇されて、焔も気分を害した。

「なんだよ、お前は。さっきから人間もどき、人間もどきってうるせえな!」

「恥を知れ! こんな人間にいいように使われて、同族の邪魔をしやがって! ちくしょう! 二上山のヌシにチクッてやる!」

 キツネは捨て台詞を残して走って逃げた。

「知らん知らんと言いながら、最後に知り合いであることを暴露していきましたね」

 浄観の冷静な突込みも、焔の耳には入らない。

「あ、あいつ、チクるって。くそう、やばいよ」

 焔は頭を抱えた。

「これ完全にこじれるよ。完全に俺、あいつのシノギの邪魔しちゃったもん。どうしてくれるんだよ!」

 浄観は無視して、さっさと出口へ向かってしまう。

「ちょっと、まじで結構大問題なんだよ。聞いてくんない? 色々付き合いもあるし、こじれるとややこしいんだよ。なあ、飛鳥野。こういう妖怪がらみの仕事はさ、俺手伝えないよ」

「ふざけないでください。日常の雑用にも使えない、対妖怪にも使えないとなったら、あなた何にも役に立たないじゃないですか」

「仕方ないじゃん。俺には俺の事情があんだからさ」

 浄観はいらだちをじっと堪え、つとめて冷静に言った。

「あなたは僕の眷属なんです。僕の言うことには文句を言わず従いなさい。あなたの生殺与奪は僕が握っているということを忘れないように。付き合いだのなんだの、そんなことでいちいち騒がないでください。わずらわしい」

「でもさ」

「騒ぐなと言ったんです。締めますよ?」

 言われて焔は口を閉じた。これ以上やられたら右足首が壊死する。


「これは由々しき問題です」

 錬が白あんにチョコを混ぜた和菓子をほおばりながら言った。

「このままでは、っふ、飛鳥野ふぅんのせいで、焔の妖怪界での評判がどんどん落ちちゃいまふよ!」

「食うかしゃべるか、どっちかにしろ」

 大和が苦言を呈した。

「じゃあ、先に食べますね」

「お前、全然真剣に考えるつもりないだろ」

 焔が不平を鳴らした。

「ともかくだな。焔にシノギの邪魔をされたと狐がチクるんじゃないか、とお前たちは心配してるわけだな?」

 場所はおなじみ万福寺二階、大和の部屋だ。万福寺には檀家が持ってくる和菓子が常に大量にストックされているので、毎回選びたい放題で錬はホクホクだった。

「でも、向こうもやってたことがやってたことだから、それは心配しすぎなんじゃないかな」

 さすがに神使に化けるのは少しやりすぎである。向こうもやましいところがあるので訴え出られないのではないか、という大和の意見だった。

「今回は大丈夫だったとしても、これからもこういうことがあるかもしれないんだよ。いつかは俺が飛鳥野の眷属にされているってことが妖怪界にもバレちゃうよ!」

 大和たちは焔が浄観の眷属にされたことを、まだ誰にも言っていなかった。

「うーむ、そうか。もう、オヤジたちに内緒にするのは限界かもな」

「違うよ、兄貴! 俺が言ってるのはそうではなくて、そろそろ真剣に飛鳥野を闇討ちする作戦を立てるときだと言っているんだよ」

「お前、まだそんなこと言ってんのか」

 大和は呆れてため息をついた。

「だってもう、限界だよ! 俺これ以上、こんな生活耐えられない!」

「だからだよ。オヤジに言えばなんとかしてくれるかも知れんぞ」

 大和の父親は瑞森地区の妖怪を牛耳っているだけあって、いろんな方面に顔が利く。物腰柔らかに見えて押しが強く、交渉ごとがうまい。大和と二上兄弟は、影で彼のことを狸ジジイと呼んでいた。いろんな意味で狸ジジイ。

「でも、大和さん。他の人ならいざ知らず、相手はあの飛鳥野ですよ? 広明寺ですよ? おじさんの話に聞く耳持つとは思えないなあ」

 饅頭を食べきって、あらたな饅頭の包み紙を剥がしながら錬が言った。確かにそうかも知れない。

「そうだよ、兄貴! 狸ジジイに話をしても、この眷属契約が切れるかどうか分からないんだよ? そんなのリスク高すぎるよ! お願い! バレたらオヤジに勘当される!」

 それよりも、闇討ちの計画を! と迫る焔をみて、大和は思わずため息をついた。


 この問題はどうやら長引きそうだ。

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