第70話 どの面を下げて
リュテアの宿屋の大広間は、重苦しい空気に包まれていた。
暖炉の火が、豪奢な絨毯の上に落ちる影を揺らす。
「舞殿。お水をお持ちしましたぞ」
「……ありがと」
水瀬舞は柔らかな部屋着を着て、長めのソファに沈み込む。
上目遣いとも、三白眼とも取れる目の中で、男を見つめる。
天野奏は、淡々と事態を説明していた。
「運が……、いや場所が悪かったね」
十一人の勇者の拠点になる場所は、限られている。
水と食べ物があるのは勿論。
大事なのは、そこが高級宿屋か高位向けの教会施設か。
マジッククローゼットがある場所が、彼らのホームとなる。
「運? ば、場所?」
村田は、焦燥に駆られるように視線を動かしていた。
日向はソファの隅で両手をきつく組み、ただじっと下を向いていた。
美咲は、ずっと青ざめた顔をしていた。
奏の報告が全て終わっても、その顔色は血の気を失ったままだった。
誰も、美咲に声をかけなかった。
かけられなかった、というより
──今彼女にかけるべき慰めの言葉を、誰も持っていなかった。
美咲の最愛の男、誠司が捕まっている。
美咲の絶望的な顔色の理由は、それで十分すぎた。
玲が、重い空気を切り裂くように口を開く。
「連れられた要塞の中の扱いはどうなっている。牢屋か?」
「ボクは捕まる前に離脱したから、わからないよ」
奏は、静かに首を振った。
「外から様子を窺っただけだからね」
「外から?」
「そう」
「ならば、最悪の想定で──」
「ただ」
奏が言葉を継ぐ。
「特別な異能を持つ者を、優遇しているのは間違いないよね。こっち側も」
村田が「たしかに」と短く同意する。
「だから、すぐに殺される、なんてことはないと思う。それに帝国は選帝侯が仕切っているからね」
「選帝侯? 何故、そんなことを知っている」
玲が、鋭い視線を向ける。
奏は笑みを浮かべた。
「逆に、どうして知らないんだい? ボクたちが戦っている相手だよ」
「う……それは」
「し、栞は知っていたのか?」
長い髪を垂らして、和装の青年は首肯する。
「帝国の絶対的な階級制度だよ。宿した異能の質で全てが決まる世界。希少な理を持つ者を粗雑に扱う理由がない」
玲は一秒だけ、奏の底知れない青い瞳を見た。
「……まあ、そうだな」
「信じるよ。というか、もうそれしかないじゃん」
舞が、自身に言い聞かせるように呟いた。
それから、しばらく重苦しい沈黙があった。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、広い部屋に響く。
「要塞の形、覚えているか」
「ソスピロ。溜め息という意味らしいよ。本当にそんな気分だよね」
「何の話をしている」
剛が机を叩く。
「山の名前だよ。山の上から見たんだよ。確か……」
奏は卓上の羊皮紙に羽根ペンを走らせ、迷いなく図を描き出した。
分厚い外壁の形。
限られた入り口の位置。
窓の少なさ。
丘の上に孤立して建っているという、絶望的な立地。
「正門は一つか」
「見えた範囲ではね」
「裏は?」
「さぁ、こっち側しか分からない」
「兵の数は」
「ヴァルラとヴコル以外は、外からは見えなかった。でも軍事拠点の要塞だ、兵がいないはずがない」
玲は、深く腕を組んだ。
「その強固な巨怪が四体に、死霊を操る術士、さらには巨怪を完璧に統率する理を持つ者か。正面から当たってどうにかなる相手じゃないな」
「うん」
「少人数での潜入か、大規模な陽動か」
「どっちにしても」
舞が、厳しい顔で指摘する。
既に立ち直っているのが、舞の強さだった。
「連携できないと、栞たちも動けないんじゃない?」
「そう……なるな」
「敵地での潜入……か」
また、沈黙が落ちた。
今度は長かった。
落ち込んでいるというよりも、考えている。
読み解くが吉、がないから、時間が掛かる。
ずっと、彼女に頼っていたからとも言える。
「あの……」
暫くして、美咲が顔を上げた。
顔色は青いままだった。
それでも、震える口元が微かに動く。
「……お金なら、あるから」
全員の視線が、美咲へと集まった。
「使い道、ないし。ロベールって人。身代金目当て……なんでしょう? だったら誠司を──」
「誠司だけじゃないよね?」
舞が、あえて感情を込めずにさらりと言い放った。
美咲の言葉が、ピタリと止まる。
「栞も、凛も、蹴鞠も捕まってる。誠司一人だけじゃないよ」
決して責めているわけではなかった。
ただ、彼女の狭まっていた視野を、強制的に広げただけだ。
美咲は一度だけ、強く自身の唇を噛み締めた。
「……全員を、取り戻したい……です」
「うん。だから、ウチたちと一緒に考えよう?」
舞の力強い言葉に、美咲は小さく、しかし確かな意志を持って頷いた。
「女王に頼むべきじゃないか?」
玲が、冷徹な思考の末に口を開いた。
「フィニス王国の正規軍が動けば、根本から話が変わる。帝国との国境付近で、主の加護を受けた勇者の一団が不当に捕らえられた。それは重大な外交問題になる——」
「時間がかかるよ。それに帝国とは敵対しているんだよ」
奏が即座に難色を示す。
「それに速さを求めるなら、ボクたち自身で動く方が圧倒的に早い。でも」
玲は、テーブルの上の大雑把な図を見下ろした。
「決定的に地の利がない。帝国側の複雑な地形も、要塞の正確な内部構造も、兵の巡回経路も、何一つわからない。その状態で無理に動いて、万が一失敗すれば。……取り返しがつかなくなる」
誰も、奏に反論ができなかった。
その理屈は思いつく限りで、正しかった。
正しいと思うからこそ、返す言葉が浮かばなかった。
「あ……あの」
不意に、村田が声を上げた。
「女王に頼む……のに賛成です。 と、ところで、どうやって急ぎの連絡をするんですか。ぼ、僕に出来ることなら……と思って」
「イネス殿が動けば早い」
「あ……そうですよね」
「だが、イネス殿が都合よく近くにいる保証はないぞ」
「いなくても、王国の騎士団と上手く繋がれれば──」
「繋がれなかったら、どうするんですか?」
議論が、迷路の中でぐるぐると回り始めた。
女王の権力に頼むか、それとも自分たちの力だけで動くか。
どちらの選択肢にも、致命的な穴があった。
確実性を取るか、時間を取るか。
どちらを取っても、仲間の命を天秤にかける恐ろしいリスクが残る。
「え、えと……」
日向が、おずおずと小さな声を上げた。
「どちらにしても、今すぐには動けないですよね」
「そうなるな」
「なら、今できることから。か、考えた方がいいんじゃない……かな」
玲が「それはそうだが」と重々しく頷く。
完全に煮詰まっていた。
その場にいる全員が、それを痛いほどわかっていた。
そして、栞がいない現実が、事実が、ウロボロスのように思考を蝕んでいた。
「中と連携……外から連携……」
舞は、暖炉で揺らめく炎をじっと見つめていた。
一人だけ、少し前の議論のところを彷徨っていた。
「外から中に話を……中に入って」
「舞殿。今は出来ることから……と」
でも
──あれ?
舞の頭の中で、ふと何かが強烈に引っかかった。
どうにかして、あそこから逃げられないのか。
逃げる。
逃げ出す。
逃げ切る。
逃げ──。
「……あれ」
舞が、ポツリと漏らした。
全員の視線が、一斉に舞へと向く。
「逃げるが……吉じゃん」
誰も、すぐには何も言わなかった。
「そうじゃん! 逃げるが吉じゃん!」
舞が、弾かれたように顔を上げた。
「速水に頼めばいいじゃん!」
一秒の、完全な静止があった。
奏が
「ボクもそう思ってた」
と、悪戯っぽく笑った。
まるで、最初からそこに辿り着くのを待っていたような顔だった。
だが村田が、激しい勢いで立ち上がった。
「なりません」
声は静かだった。
静かだったが、その奥には強固な拒絶が張り付いていた。
「僕たちの力で取り戻すんです。速水に──あいつなんかに頼る必要はない」
「村田……」
「僕が、僕たちが、自分たちでちゃんとやります。だから──」
「村田っ!」
もう一度、舞が制止するように言った。
今度は少し、声のトーンが低かった。
村田が、ビクリと口を噤んだ。
玲が、重々しく口を開いた。
静かな声だった。
爆ぜる暖炉の音より、ほんの少し大きいくらいの、冷徹な声だった。
「そもそも、どの面を下げて頼むんだ」
全員が、眉を顰めた。
「俺たちが奴を追放した。非情に追放しておきながら、都合が悪くなったから助けてくれ、と。──そんな虫のいい話が、通ると思うか」
村田が、糸が切れたようにゆっくりとソファへ座り込む。
「で、ですよねぇ。ぼ、ぼ、僕もそんな気がしてたんです」
玲は村田を無視し、事実を突きつける。
「俺たちの身勝手な頼みを拒絶する正当な権利がある。その事実だけは忘れるな」
「……わかってるよ。でも、だったら。他に手がある人いる?」
舞の問いに、玲は黙った。
押し黙ったことが、何よりの明確な答えだった。
重苦しい沈黙が、再び大広間に落ちる。
奏はリュートの細い弦にそっと指を触れながら、思考を並べた。
「ボクたちは、彼が追放されるところを黙ってみてた」
「……そうだ」
「沈黙は肯定……だからな」
「だけど、速水以外にいなくない?」
「お、お、落ち着いてください、舞殿」
すると、ソファから村田が立ち上がった。
捲し立てるように、話し始めた。
「それに、忘れておりませんか? 栞殿は彼奴が南にいるかもしれない、と偵察に出かけたんですぞ。どこにいるかも分からない相手に、どうやって連絡を」
ベン……
リュートの音が鳴った。
「女王……、教会……。そして速水駆」
「奏殿っ!その速水が」
奏はリュートの弦を止めた。
「今、思いついた。とっても良い方法かもしれない」
奏が、静かな沈黙を破った。
全員が、すがるように奏を見る。
「思いついた……って?」
「折衷案、あるかもしれない」
「折衷案?」
舞が聞き返す。
「セルノって修道士に相談するのはどうかな」
きょとんとした間があった。
「セルノ? 誰だっけ」
「王都の晩餐会で……冷笑の的にされていた人、だよね」
日向が、記憶を辿りながらおずおずと言った。
「そう」
奏は深く頷く。
「それがなぜ、折衷案になる」
玲が尋ねた。
感情の一切こもっていない、ただ純粋な理由を求める響きだった。
「あれ」
奏は、不思議そうに微笑んだ。
「気付いていない?」
「何をだ」
「嘲笑のネタにされたのって、勇者とは何かを聞いていたから、だったよね?」
玲が、微かに眉を動かした。
「王都の晩餐会で、司祭、それから司教が嬉しそうに、ボクたちの前で笑っていたよね」
奏は、確信を持って言葉を続ける。
「あの純粋な問いかけは、決して笑いのネタなんかじゃなかった。セルノって修道士は、真剣に教会の権威へ問いを投げていた。確たる証拠はないけれど──。ボクは確信してたよ。あの修道士は、間違いなく速水駆と深く関係している……って」
再び、場が静止する。
「え、なんで?」
「勇者とはどのような人間か、なんて根本的な問いを、あの絶妙なタイミングで本部に叩きつけてくる修道士だよ。あの速水と無関係だと思う? 彼は逃げるが吉。逃げた先で……誰かと繋がっている」
バードは瞑目した。
愛おしそうにリュートを抱えて、言い放った。
「ボクたちは見ないふりをしていただけ」
速水駆が生きている。
それは全員が心の中で考えていたことだった。
だから誰も、奏を否定は出来なかった。
「それが、なぜ折衷案だと聞いている」
勿論、辿り着いていない。
だが今度は、少しだけ声の温度が違う。
その先の答えを、皆が強く求めていた。
「ボクたちは修道士セルノに、勇者の姿を見せたいと、教会に頼むだけ、だよ」
奏は、穏やかな声で告げた。
「助けてほしい、とは一言も言わなくていい。帝国側に人質に取られていると弱みを報告する必要もない。ただ、教会を通じて『彼に、真の勇者の姿を見せたい』とだけ伝えるんだ」
「それで、あの速水が動くと?」
「速水駆、次第ではあるけれどね」
奏は、軽く肩をすくめた。
「でも──どの面を下げて助けを乞うのかは、分からない。ボクたちはあくまで、一人の修道士に頼むだけだからね。あとは、向こうにいる駆が、自分で判断して動く」
玲は、腕を組んだまましばらく黙り込んでいた。
テーブルの上の図を見る。
強固な要塞の形。
入り口の位置。
丘の稜線。
それから、自信ありげに微笑む奏の顔を見た。
「──栞のため……だ」
ただ、それだけだった。
舞が、張り詰めていた息を大きく吐き出す。
「じゃあ、これで決まりだね」
村田は黙っていた。
深く俯いたまま、何一つ言葉を発しなかった。
それでも、反論はしなかった。
それが、不器用な村田なりの譲歩の答えだった。
美咲が、膝の上でそっと手を開いた。
白くなるほどきつく握りしめていたその手が、ほんの少しだけ、安堵に緩む。
「逃げるの専門家に頼むしかないじゃん!」




