第68話 山脈の東側
アタシは次の言葉を探していた。
必死に探して、見つからなかった。
これだけの絶望的な状況を前にして、「如月栞」が言葉を持てないというのは、そうそうあることではなかった。
少なくとも、アタシ自身はそう思っていた。
思っていたのに、今は、何も頭に浮かばなかった。
読み解ける筈なのに、答えが見つからない。
トロルが四方を塞いでいる。
白金の髪の女が、トロルの肩の上に座っている。
崩れたペトの残骸の向こうには、黒髪の無邪気な少年が立っている。
逃げ道がない。
打開策がない。
隣で、蹴鞠が息を殺している。
誠司が盾を構えたまま動かない。
凛が細身剣を握りしめている。
奏が──
奏がいない?
誠司が、飄々とした足取りで一歩前に出た。
「囲んで、俺たちをどうするつもりだ?」
アタシの思考が止まった。
蹴鞠が「誠司!」と声を上げる。
アタシより早かった。
女は動じなかった。
青灰色の瞳が奏に向いて、口元がわずかに動いた。
「あらあらぁ」
ゆったりとした声だった。
「完全に囲まれておいての一言が、それぇ?」
「当然だろっ」
誠司は引かなかった。
盾を構えたまま、剣をも構えて、栞と蹴鞠、そして凜の前に躍り出る。
そして、真っ直ぐに女を見つめていた。
「殺すつもりなら全力で戦う。でも、そうじゃないなら──話した方が早い」
「誠司! 何を言ってるの!」
今度は、アタシが怒鳴った。
アタシはその隙に振り返る。
そして、遠くの方から何かを聞いた。
楽し気な、悲し気な、そうでもないような、いつも通りのメロディにも思える。
「あれ。結構、真面目なつもりだぞ」
「勇敢なのね、貴方」
「うるさい。 お前らは何なんだよ」
女が、くすくすと笑った。
さっきとは違う笑い方だった。
目が、少しだけ動いている。
心底面白がっているのだ。
「殺すつもりなら全力で戦う、ねぇ」
女は、巨大な肩の上で足を組み直した。
「威勢がいいこと。でも──あなたたちには、もう少し値打ちがありそうだもの。捕まえて、上の判断を仰がないといけないわぁ」
「上?」
アタシは短く言った。
「あらぁ賢いこと。ヴコルも見習わないとねぇ」
褒めてはいなかった。
ただ、事実を確認しているだけだった。
ヴコルと呼ばれた黒髪の少年が、ヴァルラの隣で半分だけ笑った。
「勉強のことはいいだろ。さっさと捕まえちゃおうよ。ねえ姐さん」
「そうねぇ」
トロルが、重々しく一歩踏み出した。
そのとき、また奏の旋律が聞こえた気がした。
間違いなく、アタシにしか届いていない。
指向性の空気の振動だった。
いつの間にか、彼は姿を消していたのだ。
後退して逃げたのか、それとも立ち止まったのか。
そして、旋律が耳元で囁いた。
「じゃ、ボクは逃げるから。あとはよろしく」
アタシは目を剥いた。
信じられない、という顔をしていたと思う。
声が出なかった。
奏は続けた。
囁き声で、ひどく落ち着いたトーンで。
「助けを呼ばないとでしょ。それに──アレら、明らかに君に興味がある。直ぐには殺されないよ」
アタシは一秒、奏の表情を想像した。
そして、旋律に嘘はないとも思った。
ふざけてもいなかった。
実際、選択肢としての正解は逃げることだった。
でも、逃げるスキルをアタシたちは持っていない。
だからこそ、彼は出会うことをしなかったのだ。
「──わか……た」
アタシが言った。
奏が「うん」と頷いた気がした。
次の瞬間、メロディが消えた。
音が消えた。
木立の濃い影に溶け込むように、完全に全てが消え去った。
ヴコルが「あれ」と言った。
素直な響きだった。
「もう一人、いなかったぁ?」
「あらあらぁ」
ヴァルラは、ゆっくりと立ち上がった。
トロルの肩から降りて、草の上に足をつける。
誠司と同じくらいの背の高さ。
優雅に歩いて、四人を見やる。
「ヴコルがそういうんですもの。逃がしてしまったわねぇ」
それだけだった。
追えとも命じなかった。
その底知れぬ余裕が、一番怖かった。
青灰色の瞳が、アタシを真っ直ぐに捉える。
「──あなたが、まとめ役かしらぁ」
アタシは答えなかった。
「そう。じゃあ、あなたに聞くわぁ」
ゆったりと一歩、近づいてきた。
「勇者様はぁ、帝国にぃ。……何をしに来たの?」
アタシは前を向いたまま、奏を信じることにした。
奏が言っていたことが、事実なら
あとは──アタシがここで、時間を作る。
「答える義務はないわ」
アタシは冷たく言い放つ。
「でも、話くらいは聞いてあげる」
ヴァルラがまた笑った。
今度は、目もはっきりと笑っていた。
「あらあらぁ。やっぱり賢い子ねぇ」
トロルが四方に立っている。
逃げ道はない。
でも──奏が動いている。
その事実だけで、止まっていたアタシの頭は、また猛烈な勢いで動き始めていた。
◇
過酷な山を越えると、景色が劇的に変わった。
鬱蒼とした木立が途切れ、視界が開けた瞬間、アタシは思わず足を止めかけた。
でも、止めなかった。
歩みを止める理由を、今のアタシは持てなかったからだ。
知識としては知っていた、ドミナス帝国の広陵地帯だった。
なだらかな丘がどこまでも続き、その向こうに見知らぬ街が見える。
西側の王国とは全く違っていた。
石畳の街並みでも、尖塔の教会でも、重厚な城壁でもない。
屋根の形が違う。
建物の色が違う。
街の輪郭が、どこか丸みを帯びて柔らかかった。
遠くて細部は見えないが、それでもはっきりとわかった。
ここは、もう向こう側だ。
山脈の、東側。帝国の領域。
「きれいね」
凛が言った。
感嘆の感想ではない。
ただ、見たものをそのまま言葉にしただけだった。
凛はいつも、そういう言い方をする。
蹴鞠は何も言わなかった。
汚れたドレスの裾を片手で持ち、足元の石を確かめながら黙々と歩いていた。
誠司は、頼みの盾を取り上げられていた。
それでも誠司は誠司で、一切の弱音を吐かずに前を向いていた。
「悪い……美咲……」
四人は、大人しく従っていた。
今は、従うしかなかった。
全員が奏がいないことを知っているからだ。
その背後には無言のトロルがつき従い、ヴァルラが優雅に先を歩いている。
ヴコルは気まぐれに左右をふらつきながら歩いていた。
見えないアンデッドの気配が、未だに周囲を取り巻いている。
「……栞さま、そろそろ教えなさい」
走れない。戦えない。
今は、ただ歩くしかない。
アタシは歩きながら、頭の中を絶え間なく整理し続けた。
奏はどこまで行ったか。
イネスに届くか。
駆──いや、それは違う。駆は指名手配中の身だ。表立っては動けない。
では、誰が来る。
どのくらい時間がかかる。
それまで、アタシたちは何をすべきか。
「帝国は……スキルを持ってる」
「な……んですって……」
「アタシも直接知ったわけじゃない。でも、……アレが言っていた」
情報を集める。
生き延びる隙を探す。
最低でも、全員生きている状態を保つ。
できる。やる。やるしかない。
目的の要塞が見えてきたのは、それからしばらく歩いた後だった。
西にある砦のどれよりも、大きかった。
街とは完全に切り離され、丘の上に単独でそびえ立っている。
無骨な石造りで、窓が極端に少なく、どこから見ても入り口が限られていた。
高い塔には旗がはためいている。
当然、帝国の紋章だった。
人影が、要塞の入り口の前に立っていた。
アタシは目を細めた。
逆光だったが、そのシルエットだけで十分だった。
背の高い男。
立ち方に、独特の癖がある。
重心が常に前にかかっていて、人を見下すように顎がわずかに上がっている。
──知っている。
舌が、口の中で無意識に動いた。
音にはならなかったが、確かに舌打ちを打った。
チッ、と。
近づくにつれて、その顔がはっきりと見えた。
アタシの隣で、誠司が鋭く息を呑む。
「……あいつ」
声が出ていた。
本人は抑えたつもりだろうが、明らかな怒りが漏れていた。
アタシも全く同じ気持ちだったから、何も言わなかった。
ロベールだった。
女王の前で、決して膝をつかなかった男。
大破門の準備がすでに整っていると、バルドが言っていた。
一切の心配はないという報告を受けていたはずだ。
なのに、なぜここにいる。
帝国側に、立っている。
ロベールは、アタシたちが近づくのを余裕を持って待っていた。
急ぐ素振りもない。
腕を組み、要塞の冷たい壁を背にして、ただ待っていた。
目が合った。
アタシは、絶対に視線を逸らさなかった。
ロベールも逸らさなかった。
そして──舐めた。
視線が、アタシの頭からつま先までを嘗め回す。
品定めするように、値踏みするように、そして底意地悪く勝ち誇ったように。
アタシの全身の温度が、一気に下がった。
わかっ……た。
歩きながら、すべてのピースが完璧に繋がった。
奇妙な入金。
エルタからオルカスへの、不自然な送金。
トロル討伐の報酬として、わざわざ勇者一行宛に届いた金。
あの金を受け取れば、アタシたちが次の行動を起こすはずだと
追放した男を意識して動く筈だと
──完全に読まれていたのだ。
チッ
南へ向かえば、険しい山があり、帝国へと抜ける獣道がある。
あとは、帝国のスキル使いに任せて、生け捕りにする。
アタシは奥歯を強く噛み締めた。
ロベールが、ゆっくりと口を開いた。
「よく来てくれた、勇者様」
声が、広陵地帯に朗々と響いた。
芝居がかった、ひどく耳障りな声だった。
彼は、この状況を心底、愉しんでいた。
「遠路はるばる、わざわざ罠にかかりに来てくれるとはな」
誠司が、怒りに任せて前に出かけた。
アタシは腕を伸ばして、それを強引に止める。
「やめて」
「でも──」
「今は駄目」
誠司が、ギリリと歯を食いしばって止まった。
アタシはロベールを睨んだ。
強烈な怒りはあった。
でも、その怒りより先に、とても冷たい感情が思考を支配していた。
この男は、アタシたちの行動パターンを知っている。
独自の裏の情報網を持っている。
帝国と深く繋がっている。
アタシは、努めて平坦な声で口を開いた。
「一つだけ聞かせて」
ロベールが、面白そうに片方の眉を上げた。
「あの口座への入金、あなたが仕掛けたの?」
男はニヤリと笑った。
それが、何よりの明確な答えだった。
アタシは、ゆっくりと息を吐き出した。
「──なるほどね。それ……なら……」
要塞の重厚な門が、地響きのような音を立てて開いた。




