第67話 溜め息の山2
誇り高き令嬢の声が、わずかに震えていた。
土の盛り上がりは、既に人の背丈を超えている。
「なん……です……の」
太い木の根がへし折られ、無数の小石が滝のように転がり落ちた。
巨大な土の塊が崩れ落ち、その中から──途方もない何かが、立ち上がる。
それは、あまりにも大きかった。
先ほどの野犬や猪のアンデッドとは、生き物としての格が違う。
土と腐葉に半ば埋まった状態でも、その頭部は大木の枝に届かんばかりだった。
振り上げられた腕は、大木そのもののように太く悍ましい。
「トロル……」
栞が、無意識にその名を口にしていた。
声がひどく平坦なのは、冷徹な頭脳が状況に追いついていない証拠だった。
次の瞬間、左手側の枝が大きく揺れた。
右手側からも。
正面の木々の間にも、巨大な影が立っている。
「嘘……」
そして、一体ではなかった。
鬱蒼とした木立の間に、それぞれが静かに立っている。
どれが木々の幹で、どれが巨怪なのか、一瞬では判断ができない。
それほどまでに自然に、その途方もない巨体が森の中に溶け込んでいたのだ。
二体。
三体。
四体──。
絶望的な数を数えながら、栞の思考が極限の一点へと収束していく。
発生源を断つどころの話ではない。
完全に、囲まれていた。
蹴鞠が、ひどく静かな声で言った。
「栞さま……」
「分かってる……」
「分かっていらっしゃるなら、次の手を」
栞は、三秒だけ黙り込んだ。
チームの全員が、指揮を執る彼女を見つめている。
絶望的な巨怪を視界に収めながらも、彼女の指示を待っていた。
「──後退する」
「正面はどうする?」
凛が、無機質に問う。
「一枚、割って出る。蹴鞠、正面の一体を弾いて。凛が隙間を作って、誠司が先頭で守りを固めて押し込む。奏は後ろの警戒を──」
栞がまた止まった。
さっきまで、少年がいた。
「えっと、ペトの逃げた方向はどっちだっけ?」
奏の確認に、栞は即座に答える。
「北に、……まっすぐ」
「了解だよ」
蹴鞠が、豪奢なドレスの裾をふわりと持ち上げた。
深く、静かに息を吸い込む。
栞は視線を上げ、正面に立ちはだかる絶望的な巨体を冷徹に見据えた。
あまりにも、巨大すぎる。
──だが、この分厚い壁は割らなければ、生き残る道にならない。
「行くわよ」
爆発的な跳躍。
木を敢えて薙ぎ倒さずに、更に跳ねる。
共に放たれた蹴鞠の一撃が、正面のトロルの肩口に炸裂した。
恐ろしい衝撃波がドレスの裾から放たれ、巨怪の体が半歩だけよろめく。
だが、半歩。
ただ、それだけだった。
倒れることもなく、弾き飛ぶこともない。
ほんのわずかに、体勢を崩しただけだった。
「──崩れない」
着地と同時に、蹴鞠が短く吐き捨てた。
声に驚きの色はなかったが、続く言葉が出てこない。
それが、彼女なりの精一杯の驚愕だった。
「蹴鞠、まだ行ける?」
栞が鋭く問う。
「もう一度だけなら。でも、すぐに二体目が来ますわ」
言葉の通り、左に控えていたトロルが動いた。
丸太のような腕を持ち上げる動作はひどくゆっくりだっ。
だからこそ途中で止める間が一切ない。
大木が根こそぎ引き抜かれるような重い音が鳴り、地面が大きく揺らいだ。
「誠司、左カバー!」
「もう行ってるよっ」
凛の警告より早く、誠司が盾を真横へと向けていた。
味方を庇って盾を掲げたその瞬間、彼に宿る強固な守りの理が発動する。
圧倒的な質量による衝撃が、トロルに叩きつけられたはず。
その反動で、踏ん張った誠司の両足が、地面を深くえぐった。
「押し戻される……っ」
強固なはずの盾が悲鳴を上げて歪む。
増幅された防御力によって、彼の身体にダメージはない。
だが、トロルはその場を退かなかった。
「──重いな」
誠司もまた、短い感想を漏らす。
すると右のトロルが、重々しく動き出した。
背後のトロルも、隆起した土の中から悍ましい腕を引き抜いている。
栞は、正面の壁を見据えた。
「どうする……」
突破する隙間がない。
蹴鞠の一撃でよろめいた一体目も、ゆっくりと立ち上がる。
ここは……どこ……
いつの間にか、神話の世界に迷い込んだのか。
いつの間にか、悪夢を見ていたのか。
四方に山のような人型のバケモノがいる。
完全な包囲ではないが、あと数秒で完全に退路が断たれる。
「栞さま!」
蹴鞠の声が響く。
栞は口を噤んだ。
どうすれば、この場を打開できる?
恐るべき速度で、頭の中の情報を並べ替える。
どうすれば、この状況を打破できる?
味方の体力。
どうすれば……戦える?
残された時間。
どうすれば……いい?
取り得る選択肢が、一つに収束していく。
どうすれば……
逃げ……られる……の……?
逃げる……スキル……?
冷徹な計算がその結論を弾き出したとき。
栞は初めて、仲間に告げるべき、次の言葉を失った。
もう……ない
「アタシが……おい……だした……から」
その時、だった。
◇
不意に、笑い声が聞こえた。
地を這うような怪物の声ではない。
山のような魔物の者でもない。
だが、山の方から聞こえてくる。
柔らかく、とても人間的で、それゆえにこの絶望的な戦場にはあまりにも場違いな響きだった。
「あらあらぁ」
木々の奥から、楽しげな声が降ってくる。
その瞬間、トロルたちの動きがピタリと止まった。
四体の巨怪が、全て同時に停止した。
まるで、見えない糸で操られていた人形が機能を停止したかのように。
奏が、小さく息を呑む。
凛の構えた短剣が止まる。
誠司の足が、地面に根を張ったまま固まっていた。
木立の深い影から、ゆっくりと人影が現れる。
美しい、女だった。
白金の髪が朝の光を受けて、くすんだ銀色に妖しく光っている。
背が高く、その歩き方はひどくゆったりとしていた。
急ぐことなどない。滑らかな動き。
ただ事実を、完全に理解している者の歩き方だった。
女はトロルの一体に近づくと、巨人は手を差し出した。
──その上に、ゆらりと歩く。
そのまま上に上がり、怪物の巨大な肩に腰を下ろした。
まるで上質な椅子にでも腰掛けるように。
「それでぇ……本当に勇者様なのかしらぁ」
青灰色の瞳が、四人の顔を順番に眺め回す。
値踏みするわけでもなく、ただ面白そうに見つめている。
その瞳の奥は、どこまでも深く、底が見えなかった。
「……っ!」
栞は乱れた息を整えようとしたが、できなかった。
女から、一切の敵意が感じられない。
それが、かえって得体の知れない恐怖を煽り立てた。
また、考える。また、読み解く。
どう対処すべきか。
言葉を交わすか。
それとも、この隙に走るか。
必死に判断を下そうとした、──そのときだった。
「勇者様だよ」
声は、背後から聞こえた。
栞が、弾かれたように視線を向ける。
ペトが、そこにいた。
先ほど街道へ向けて走らせたはずの男の子が、女の隣に静かに立っている。
泥で汚れた顔のまま、大きな目で栞たちを見つめていた。
怯えの色は微塵もない。
それどころか、どこか誇らしげな顔つきだった。
「おいら、ちゃんと確認したもん」
誰も言葉を発することができなかった。
「ちゃんと魔物を倒してた。強かったよ。だから、勇者様だよ」
「まぁまあ、それは」
女が、ゆったりとした相槌を打つ。
驚いたような、そうでもないような、感情の読めない声だった。
「あなたが言うなら、きっとそうなのねぇ」
青灰色の瞳が、再び五人へと戻ってくる。
笑っていた。
だが、その目だけは全く笑っていなかった。
凜が、かすれるような声で漏らす。
「……なんで、ペトがここに」
誰も、答えることはできなかった。
街道まで走らせたはずだ。
絶対に振り返るなと、固く命じたはずだ。
それなのに──。
決定的な違和感に、一番早く気づいたのは蹴鞠だった。
「……待ちなさい」
彼女の声が、いつもとは決定的に違っていた。
必死に抑え込んではいるが、その下には明らかな戦慄が張り付いている。
「その子、さっきから、全く息をしていませんわ」
時間が凍りついた。
全員の視線が、ペトという名の子供に突き刺さる。
確かに、ピクリとも動いていない。
でも、立っている。
だが、目が開いている。
しかし、胸の起伏が全くない。
吹き抜ける風に、髪の毛一本揺れていなかった。
やがて、ペトの輪郭が、ぐにゃりとぼやけた。
ぼやけたのではない。
崩れていた。
頭から。
肩から。
腕から。
乾いた泥が落ちるように、ぽろぽろと、ペトの形が崩れ始めた。
土と腐葉、そして何か黒く悍ましいものが混ざり合った、ただの塊。
それが、精巧な子供の形を模していただけだったのだ。
崩れ落ちた土塊の向こうに、別の影が立っていた。
とても、小柄だった。
浅黒い肌に、艶やかな黒髪。
幼さの残る無邪気な顔立ちをしている。
だが、その両の目だけが、ひどく暗く据わっていた。
「えー、バレたぁ?」
無邪気な、子供のような声だった。
「もうちょっと引っ張れると思ったのになぁ」
ひどく残念そうだった。
心底、残念がっている響きだった。
そこには微塵の悪意もない。
それが何よりも、絶望的にタチが悪かった。
背後で、トロルの重い足音がした。
左から、右から。
正面に座る白金の髪の女は、全く動かない。
ただ、怪物の巨大な肩の上で軽く手を組み、静かに座っている。
栞は、ゆっくりと周囲の気配を確認した。
木々の間に潜む、巨大な影。
影の間に浮かび上がる、悍ましい輪郭。
更に一体、二体、三体──。
先ほど絶望の中で数え上げた数よりも、はるかに多かった。
「あら、そう?」
女が、くすくすと笑いながら言った。
「本当に勇者様なのかしらぁ」
もう一度、全く同じ言葉だった。
先ほどと、声の温度が少しも変わっていない。
最初から最後まで、この女にとっては何一つ変わっていないのだ。
驚きもしない。
焦りもしない。
ただ、遊戯のように確認作業を楽しんでいただけ。
蹴鞠が、栞の隣で静かに息を吐いた。
「……逃げ道が、ありませんわね」
栞は、何も答えられなかった。
逃げること……など




