第66話 栞たちは南を探索する。
オルカスを出たのは、まだ朝靄が色濃く残る時刻だった。
石畳が途切れ、踏み固められた土の街道が始まる地点で、栞の率いる五人は一度足を止める。
正確には、先頭を歩いていた蹴鞠が不意に歩みを止めたのだ。
「……臭いますわね」
彼女は形の良い鼻の頭に小さく皺を寄せ、街道の先。
──南に連なる山裾の方角を睨み据えた。
豪奢なベルサイユ風のドレスの裾が、冷たい朝風を受けてわずかに揺れる。
「トロルの残滓ですわ。腐敗が早い魔物ですけれど、あの規模ですもの。しばらくは残るでしょうね」
「蹴鞠ってさ、鼻いいよね」
奏が、飄々とした足取りで隣に並んだ。
背負ったリュートの位置を直す仕草がひどく自然で、どこかの吟遊詩人がそのまま抜け出してきたかのようだった。
「異能ではありませんわ。ドレスの手入れをしていれば、余分な匂いには敏感になるものです」
「それ、立派な異能では?」
奏がくすくすと笑う。
「うるさいですわよ」
蹴鞠は短く切り捨て、優雅な足取りでまた歩き出した。
後ろを歩いていた誠司が、その豪奢な背中へと視線をやる。
「あいつ、最近、機嫌悪くないか」
「悪くないと思うよ。あれが平常運転。ただ、考えてる」
奏が小声で返す。
「何をだよ」
「さあねぇ」
和装の青年は、それ以上何も言わなかった。
街道は南へ進むにつれて徐々に狭くなる。
やがて両側から鬱蒼とした木立が迫り始めた。
オルカスを中心に見れば、北には大きな幹線街道が通っている。
そのまま行けば、エルタに辿り着く。
だが、南はいわば袋小路に近い。
栞がその事実を説明したのは、出発前夜のことだった。
「なぜ、わざわざ袋小路に向かうんだ」
「袋小路の先に、山があるからよ」
誠司の疑問に対し、栞は淡々と答えていた。
「山に何がある」
「帝国へ抜ける裏道よ。現地の人間にしか知られていない獣道があるらしいわ。教会の情報網が掴んでいたの」
「それ、エルタの教会銀行のやつか」
「そう。お金と情報はセットで動くわ」
誠司が「なんだか商人みたいだな」と呆れ、栞が「商人は合理的よ」と返す。
会話は、そこで終わっていた。
──そのやりとりを歩きながら思い返していたのは、他でもない栞本人だった。
合理的、か。
自分で口にしておきながら、どこか空虚に響いている。
オルカスに入金された謎の討伐報酬。
村田の「トロール野郎の退治でござるよ」という不自然な一言。
奏の「それってトロール行為って言えるのかな」という指摘。
栞は、微かに唇の端を動かした。
笑ったのか、呆れたのか、自分でもよくわからなかった。
彼が動いたという確たる証拠は、どこにもない。
ない、のだけれど。
逃げるが吉。それが分からない。
灰色のフードを深く被り、気配を消し、誰にも気づかれないふりをして
──気づいたときには、もうそこにいない。
そんな能力だったとして、何が出来るというのか。
それから——
「栞様。 気にしても仕方りませんわよ」
「でもねぇ。騎士団長、おかしかったよねぇ」
「奏。お前は、そういう口をどうにか塞げないのか?」
「囀るが吉だから、さ。 でも、無理に決まってるよね。 ボクたちには異邦人かそうじゃないか、なんて分かる訳ないんだからさ」
——そう、実際に難しい。
村田雄大が否定をした。
アレも色々怪しいが、その後は口を噤んでいる。
そして、当時は何よりコレだった。
異邦人の特徴であるスキルを、アレはフィニス王国で一度も使わなかった。
「でも、それさえ怪しいとなれば」
栞は、青と黒の髪を揺らし、冷たい目を細めた。
◇
前方の山裾が、じわじわと近づいている。
木々の密度が増し、街道に落ちる影がひどく濃くなった。
最初に異質な気配を察知したのは、凛だった。
声を出さずに、すっと右手を上げる。
栞を含めた五人の足が、同時にピタリと止まった。
蹴鞠がドレスの裾の位置を確認し、誠司が流麗な装飾の施された盾を構え、奏がリュートに指を添える。
静止。
名も知らぬ鳥の声。
葉を揺らす風。
──ただ、それだけだった。
「……気のせいか?」
誠司が小声で尋ねる。
「違う。まだいる。ただ、動いていないだけ」
漆黒のゴシックロリータを纏う凛が、短く返した。
「魔物か?」
「わからない。魔物にしては、微かな息が聞こえる」
蹴鞠が、毅然と一歩前に出た。
ドレスの裾がかすかに持ち上がり、細い踵が静かに地面を捉える。
「──出てきなさい」
凛とした声は穏やかだった。
絶対的な命令というよりは、相手を促す響きに近い。
すると、木立の濃い影が、わずかに動いた。
「あら?」
姿を現したのは、一人の子供だった。
十三歳前後だろうか。
ひどく痩せた男の子で、着ている服は街の子供のものではなく、山仕事で使うような厚手の布だった。
泥で汚れた顔に、怯えたような目がやたらと大きく見えた。
五人の姿をぐるりと見回して、男の子は震える唇を開く。
「あの……勇者様、ですか。サムラヒ……なんとかっていう」
誠司が盾を下ろしかけ、そして止めた。
栞が、迷いなく一歩前に出る。
「そうよ」
即答した。
誠司がわずかに眉を動かしたが、口を挟むことはなかった。
「サムラヒの勇者様が南に行くって、お父さんが言ってた。だから待ってたんです」
「お父さんは、今どこにいるの」
「山の中です。帝国の人たちが……来てるので」
栞の目が、鋭く細くなった。
奏がリュートから指を離し、男の子の目線に合わせて優しくしゃがみ込む。
「帝国の人、何人いた?」
「わかんない。でも、旗があった。白い旗に、黒い鳥みたいなの」
蹴鞠と栞の視線が、空中で交錯した。
一秒間。
状況を理解するには、それで十分だった。
「案内できる?」
奏が穏やかに続ける。
男の子は少し迷った。
しかし、長くは迷わなかった。
「……できます」
栞は振り返り、チームの面々を見た。
誠司が無言で静かにうなずく。
凛はすでに冷徹な視線を前方へ向けている。
蹴鞠はドレスの裾をわずかに持ち上げ、いつでも山道へ踏み出せる姿勢を作っていた。
奏が立ち上がり、男の子の隣に並ぶ。
「名前、教えてもらえる?」
「ペト」
「ペトか。じゃあ、よろしく頼むね」
ペトと名乗った男の子は、また大きな目で五人を見上げた。
それから、暗い山の方へ体を向ける。
「こっちです」
ペトの背中を追って木立の中に入り、数分も経たないうちだった。
最初に異変に気づいたのは、またしても凛だった。
「足元……」
短く鋭い警告に、全員の視線が地面へと落ちる。
土が、動いていた。
盛り上がるというより、下から力強く押し上げられている──そんなおぞましい動き方だった。
根を張った大木の間から。
草に覆われた急斜面から。
まるで土そのものが不気味な呼吸を始めたかのように、あちこちが同時に膨れ上がった。
「うーん。また、汚れちゃうね」
最初に出てきたのは、腐肉の削げ落ちた爪だった。
次に、毛のないまだらな脚。
そして、醜く腐り果てた胴体が這い出してくる。
「言ってる場合じゃありませんわ」
「こいつは、アンデッドだな」
誠司が盾を前に構えながら言った。
端正な顔立ちの青年の声に、動揺はない。
ただ事実を確認するように、平坦に告げた。
「問題ない。 聖騎士の装備と相性がいいし」
這い出たのは野犬だった。
かつて野犬だったもの。
皮膚は半ば土に還り、目のあった空洞には何もない。
それでも四本の脚で立ち上がり、確かな殺意を持ってこちらを向いた。
隣では、巨大な猪が這い出ている。
牙が一本折れ、無惨に裂けた腹からは内臓が見えていた。
それでも、それは生者のように蠢いた。
「ペト、逃げなさい」
栞が鋭く命じた。
男の子は恐怖に一瞬固まる。
「今すぐ。街道まで走って、絶対に振り返るんじゃありませんわよ!」
弾かれたように、ペトが走り出した。
栞はその後ろ姿を確認してから、冷徹に前を向く。
「湧いている間に前へ。完全に湧き切る前に、潰しながら進むわよ」
「栞。アンデッドの数は」
「見える範囲で七。でも、土はまだ動いてる」
「了解」
凛が、風のように踏み出した。
愛用のレイピアが描く軌道には、一片の迷いもない。
最初の野犬の頭蓋を正確に打ち抜き、淀みなく次の動きへと移行する。
誠司が盾で猪の突進をいなし、洗練された動きで斬り捨てる。
蹴鞠のドレスの裾が鋭い弧を描き、木の根元から這い出たばかりの腐肉をまとめて吹き飛ばした。
「栞様。どうするおつもり?」
「異邦人が帝国と接触していたら、厄介よ」
奏から帝国の情報が入っているから。
だから、前へ。
潰しながら、進む。
栞の指示通りに、五人は圧倒的な力で前線へと押し込んだ。
アンデッドの動きは決して速くない。
生きていた頃の獣の動きを薄く残しているだけで、集団としての統率もなかった。
数が増えようと、各々が別の方向を向き、別の速度で散漫に動いている。
ばらけている間に各個撃破すれば、さほど脅威となる相手ではない。
──そのはずだった。
「後ろ、もう一度」
奏の涼やかな声が響く。
振り返った誠司の目に映ったのは、たった今自分が完全に切り伏せたはずの猪が、再び蠢き始めている姿だった。
「……は?」
胴は無惨に裂け、原形を留めていない。
それでも、残った前脚だけを引きずるようにして、執拗にこちらへ向かってくる。
「斬られても動くのか」
「首か、魔力の核を断たないと止まらないわ」
栞の冷たい視線が僅かに光る。
敵の情報を、冷静に分析する。
「アンデッドの基本よ。誠司、確実な止めを。貴方の神聖属性なら可能よ」
「了解した。清く守るが吉っ!」
淡く光る。
誠司が身を翻し、盾の縁で強烈な打撃を見舞って猪の首を的確に断ち切った。
ようやく、不気味な動きが完全に停止する。
しかし、そのわずかな間にも、前方の土は絶え間なく盛り上がり続けていた。
斜面の上、木々の根元。
踏み荒らしたはずの場所のすぐ隣。
見境なく、どこからでも新たな死霊が這い出してくる。
「キリがないじゃない」
凛が、感情を削ぎ落とした声で告げた。
「わかってる。でも止まれない。止まったら完全に囲まれるわ」
ひたすらに、前へ移動する。
誠司が盾で弾き、凛が急所を断ち、蹴鞠が衝撃波で吹き飛ばし、奏が不可思議な旋律を鳴らして敵の注意を引きつける。
何、これ
栞は戦場全体を俯瞰しながら、絶え間なく次の一手を思考し続けた。
一体、どこから湧いている。
これほどの死霊を生み出す、明確な発生源があるはずだ。
無秩序に湧き出ているように見えて、明らかに密度が高い方向がある。
南。 ソスピロの山頂から。
もっと奥、深い山の方からだった。
「奥に、何かいる」
栞は、看破した事実を告げた。
「大元の発生源を断てれば、止まるかもしれない」
「もしれない、か」
蹴鞠が、挑発するように微笑む。
「確証はないわ」
「正直で、宜しいですわね」
「読み解いた状況がそうなのよ」
蹴鞠は優雅に短く笑い、真っ直ぐに前を見据えた。
「では、参りましょう」
致命的な問題が起きたのは、さらに五十歩ほど山道を進んだときだった。
背後で、土が大きく盛り上がった。
すでに死霊を潰し終えたはずの場所だった。
いや、先ほどの獣たちのスケールとは比べ物にならない。
地面そのものが大きく息を吸い込んだかのように
ゆっくりと、そして巨大に隆起していく。
異常を察知した誠司が、警告の声を出しかけた。
だがそれよりも早く、蹴鞠が振り返っていた。
「……あれは」




