第65話 裏側で蠢く何か
カルネの村。
一人の男の額に汗がにじんでいた。
羊皮紙が足りない。
いや、決して足りなくはない。
手持ちの備えはあるにはあるのだが、彼自身が持ち込んだ分だけでは到底賄いきれそうになかった。
「はぁ……」
辺境の村における識字率というものを、ひどく甘く見積もっていたのだ。
署名が必要な公的な書類が七枚。
そのうち、代筆を要する村人が五人分もいる。
巡回修道士の青年は、頭痛を堪えるように額に手を当てた。
「駆殿。少し手伝ってもらえますか」
「いいけど」
頼まれた灰色の衣の青年が羊皮紙を受け取り、不慣れな葦ペンを握る。
構えは決して悪くない。
文字もすらすらと書けるようだ。
修道士は、その様子にひとまず胸を撫で下ろした。
ほんの一瞬だけ。
綴られた文字の羅列を見た瞬間、彼の思考は完全に固まってしまった。
正確ではあった。
一言一句、事実だけが正確に記されている。
ただ、あまりにも言葉が直接的すぎた。
「……駆殿」
「うん。字が下手なのは言うなよ」
「これは、教会本部への陳情書です」
「分かってるけど?」
「『魔物が出て困っています。助けてください』とは、書かないんです」
「え、でも事実じゃん」
紛れもない事実ではある。
修道士はため息と共に、静かに羊皮紙を回収した。
宗教的な公文書というものは、言いたいことを直接的に言わない高度な技術によって成り立っているのだ。
主の慈悲を仰々しく称えながら辺境の現状を嘆き、教会の偉大さを讃えながら暗に支援を引き出す。
そこには、長い年月をかけて磨き上げられた複雑な様式美が存在する。
異邦の青年の綴る素直な言葉は、その堅苦しい様式を根こそぎ飛び越えてしまっていた。
「ありがとうございます。あとは私がやります」
「そう? なんかごめん。役に立てなくてごめん」
決して謝るようなことではない。
そう思ったが、この世界の面倒な理屈を言葉で説明するのもひどく困難だった。
「お。駆、終ったか?」
部屋の隅では、元帝国兵の男が壁に背を預けている。
手持ち無沙汰なのか、腕を組んだまま鋭い視線だけを動かしていた。
その向かいには青い髪のシオンが座り、隣には弓使いの青年エヴァンが控えている。
筆を取り上げられた駆は、不思議そうに手元の書類を眺めていた。
修道士は葦ペンを走らせながら、彼らの様子を横目で窺う。
「あの婆さん、良い事言ってたな」
ヴォルフが、唐突に口を開いた。
「何がー」
シオンの返しは短い。
相槌でも否定でもない、ただ続きを要求するだけの静かな声だった。
「生まれは関係ねぇ、ってやつだ」
「だから、何? ヴォルフのことじゃないかも」
「イチイチうるせねぇ。帝国は、その身に宿した異能の質で絶対的な階級が決まる。野獣を操る程度の俺は、戦場ではただの使い捨ての攪乱役にすぎないってことだ」
「……はい?」
灰色の偽修道着の男が首を傾げた。
修道士はその間も、決して手元の筆を止めなかった。
ここで動きを止めれば、会話に聞き耳を立てていると気づかれてしまう。
「これは誉めてるわけじゃねぇが、シオン」
「急に何?」
「お前の扱う精霊の声を聞く力は、ひどく希少だ。もし帝国に連れ去られていたとしたら──恐らく、貴族と同等の破格の扱いを受けるだろうな」
修道士の筆先が、羊皮紙の上を微かに滑った。
シオンは、男の顔を真っ直ぐに見つめ返す。
怒りでも恐怖でもない、ただ事実を確認するようなひどく凪いだ瞳だった。
「そう。必要ない」
「……肝が据わってるな」
「精霊がそう言ってる。不必要に怖がるな、って」
ヴォルフは、それ以上何も言わなかった。
「ちなみに」
不意に、駆が口を挟む。
意味不明な書類から顔を上げ、少しだけ首を傾げていた。
「エヴァンは凄いだろ。あの怪物のトドメだって、エヴァンの弓だし」
「トドメは俺の剣だろ」
エヴァンが、即座に抗議の声を上げる。
「あ、そうだっけ」
「そうだ。 忘れてんじゃねぇぞ」
「駆の前後運動ばっか見てた
「……まあ、それは置いといて」
元の会話を引き継ぐように、ヴォルフが言葉を続ける。
「単純な戦闘力の強い弱いの話じゃねぇんだ。本人は一歩も動けなくても、例えば、無数の死霊を自在に操る術を持っていれば厄介極まりないだろ?」
シオンが、納得したように小さく手を打つ。
「宿した理が異質であるほど、重宝されるってことね。正面から戦えば、私はエヴァンに勝てないし」
「そういうことだ」
「で、何?」
「なら、ヴォルフは。お前もすげぇだろ」
「だから言ったろ。俺くらいはゴロゴロいる。それにな」
男の顔つきが、微かに変わった。
さっきまでの、どこか自嘲気味な投げやりな空気が完全に消え去る。
「帝国には、もっとおぞましい異能を持った奴らがゴロゴロいるってことだ」
部屋全体が、水を打ったように静まり返る。
修道士は、たまらず筆を止めてしまった。
自身の動きが止まったことに、ほんの少し遅れてから気がつく。
「ってことは、あれか? あの雪山の巨怪も、帝国の誰かに操られてたのか」
重い空気を振り払うように、エヴァンが顔を上げた。
努めて明るくした声だった。
張り詰めた場を、どうにか動かそうとする気遣いの響き。
ヴォルフは、小さく肩をすくめた。
「本気で操られていたら、あんなにあっさり倒せてねぇよ」
「……そうか」
「マジ……? オレの考える最強パーティだったんだぞ」
「カペー、それ。子供の思考。エラとルンとガウも、卒業した」
「年齢とか関係ない。最強パーティ思想を舐めるな!」
一人だけ、重くない空気があるが、ヴォルフは肩をすくめて続けた。
「あの巨人はマスターの管理を逃げ出したか、出来が悪くて捨てられたかだ。まあ、あの程度だから、出来損って方だろう……。だってよ」
男が、言葉を継ぐ。
その声が、地を這うように一段と低くなった。
「あの場に、巨怪を完璧に統率する理を持った、アイツがいたら──」
言いかけて、口を閉ざす。
深く、重々しい息を吐き出した。
「ゾッとしねぇ……」
部屋にいる誰も、笑うことはできなかった。
エヴァンが何か反論しようと口を開きかけ、そして静かに閉じる。
「なぁ、ヴォルフ。 その言い方だとまるで……」
修道士は、震える指で筆を持ち直した。
羊皮紙の余白に、気づけば無意識のうちに走り書きをしている。
巨怪を統率する理。
書き付けたその不吉な文字を一度だけ見つめ、すぐに黒く塗りつぶして線を引いた。
そして、その横に新しく書き直す。
人に宿る異能とは?
その問いに対する答えは、まだ書くことができなかった。
◇
精緻な大陸地図が机の上に広げられた瞬間、ウチはなんとなく察していた。
この作戦会議は、始まる前からとうに終わっているのだと。
「次の目標はピカルナとレムスよ」
栞が、地図上の二つの都市を細い指先でとんとんと叩いた。
「今回は、連続進行の形をとるわ」
「連続進行? 前みたいに同時じゃなくて」
それだけ告げて、彼女は冷たく口を閉ざす。
続きの言葉を待つ重苦しい空気の中、腕を組んでいた玲が静かに口を開いた。
「舞。前回の戦い、楽勝だったと考えているだろう?」
「え? あれ、楽勝じゃないの?」
「楽勝だ」
「だったらいいじゃん!」
「あと、二十秒は縮められる」
「二十秒とか別にいいし」
玲は広げられた地図を一瞥した。
それだけで、すべてを完全に把握したような顔つきになる。
「ピカルナとレムスは帝国に近い。あちらは街道が整備されていて、軍の進軍速度が速い。 人数で速やかに押し切る。 故に剛を要とする」
「あーね。 また、ゲームか」
「そう言うな、どちらも由緒ある街であり、市街地だ」
「そっか。ウチらの得意な、都市攻略の型がそのまま使える」
「舞たちの得意な形だな」
誠司が、深く納得したように頷いた。
ウチも、それを否定することはできなかった。
実際に、これまでもそのやり方で上手くやってきたのだから。
「対して、南は帝国の領域との境界に近い。斥候からの報告が極端に薄い空白区間がある。あそこに何が潜んでいるか、全く分からない」
玲は、地図の下半分を一度だけすっと指でなぞり、それきり触れようとはしなかった。
「未知の不確定要素が多い場所は、状況に応じて判断を柔軟に変えられるチームが向いている」
判断を柔軟に変えられるチーム。
ウチは、淡々と語る玲の横顔を見た。
玲の視線は、とうに地図など見てはいなかった。
「栞のチームが適任だな。ただ、剛は目立ちすぎる」
「うるっせぇ」
「なので、市街地側にあてる」
誰も、反論しようとはしなかった。
ウチも、何も言わなかった。
彼女の立てた理屈は、全部正しいからだ。
正しいんだけれど、どこか釈然としない。
「……決まりね」
栞が、ひどく静かな声で言った。
異論がないかを聞いているのか、それともただの確認なのか、感情の読めない声だった。
傍らで、蹴鞠が小さく鼻を鳴らす。
不満を抱いているのか、それとも満足しているのか、彼女の真意もまたよくわからなかった。
◇
重苦しい広間を出て、ひんやりとした石畳の廊下を歩く。
ウチは歩きながら、さっきの地図を頭の中で広げ直していた。
北へ向かい、ピカルナとレムスを落とす。
やるべきことは、もう完全に見えている。
それなのに、なんだかひどく負けたような気がしてならなかった。
「舞殿」
ふいに、村田が隣に並びかけてきた。
少し遅れてから、慌てて小走りで追いついてきたような、妙な間があった。
「先ほどの、オルカスのことですが」
「うん」
「余計なことを言いました。申し訳ありません」
トロール野郎の退治でござる、ね。
ウチは内心で呆れながらそう思ったけれど、あえて口には出さなかった。
「村田はさ」
石畳の継ぎ目を踏まないように視線を落として歩きながら、ウチは問いかける。
「あれ、ほんとは誰がやったか、知ってるよね?」
一拍の、短い沈黙があった。
「……知りません」
また、そっちの答えを選ぶんだ。
ウチは、それ以上何も言わなかった。
これ以上問い詰めても、今の村田が本当のことを話す顔じゃないのはよくわかる。
彼が今、自分の中に抱え込んで、必死に守ろうとしているものが何なのか。
北へ向かう道中、ウチはたぶんそのことばかりをずっと考えてしまうのだろう。
冷たい石畳の継ぎ目は、窓から差し込む光を受けて、どこまでも長く続いていた。
「なんか、嫌な予感がするんだけど。それってウチだけってこと?」




