第63話 世界が動くキッカケ
最初に異変に気づいたのは、早起きな羊飼いだった。
朝靄の中、オルカスの山裾に、巨大な何かが転がっている。
ただの岩ではない。
その輪郭は、あまりにも異様だった。
「なんだありゃ」
近くを歩いていた男が、怪訝そうに足を止める。
「でかいぞ」
「トロルだ!」
誰かの悲鳴が響いた。
ただそれだけで、恐怖を伝播させるには十分だった。
人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
子供が泣き叫び、女たちが顔を引きつらせて走る。
——しかし。
その巨大な影は、ピクリとも動かなかった。
羊飼いの男が、遠くから恐る恐る目を凝らす。
見上げるほどの背丈は、六メートルはあるだろうか。
岩のようにひび割れた皮膚に、異常なほど太く長い腕。
伝承に聞くトロルで間違いない。
それでもやはり、全く動く気配がなかった。
「おい」
村の屈強な男が一人、警戒しながら足を止める。
「早く、逃げろよ」
「でも、動いてないぞ」
しばらくの間、誰も動こうとはしなかった。
冷たい風が吹き抜け、朝靄がゆっくりと流れていく。
怪物は、相変わらず沈黙したままだった。
男が、意を決して一歩踏み出した。
「気をつけろよ」
「分かってるよ」
もう一人の男が、息を呑んでその後へ続く。
二人並んで、おそるおそる距離を詰めていった。
十歩。
五歩。
三歩。
そこで、完全に足が止まる。
「し、死んでる」
重苦しい静寂が落ちた。
「ってか、よく見ろよ」
男が、信じられないというように屈み込んだ。
「首のところ、すっぱり切られてる」
「誰かが討伐してくれたんだ」
「一体、誰がだよ」
「分からんな」
男は、立ち込める靄の先、険しい山の頂を見上げた。
途中の木々が無残にもへし折られている。
その順路を辿ると、どこでトロルが絶命したのか推測出来た。
「あの山の上で、一体誰かが」
「どうする」
「分かんねぇ」
膝についた土を払い、男はゆっくりと立ち上がった。
「とにかく、教会に報告だ」
◇
解放されたばかりのリュテアの街路を、舞たちは歩いていた。
「せっかくですから、教会に寄りましょう」
蹴鞠がそう提案したのは、陽が傾き始めた午後のことだった。
相変わらずピンと背筋を伸ばし、華やかなブロンドの巻き髪を優雅に揺らしている。
幾重にも重なったフリルとパニエで膨らんだドレスが、復興へ向かう石畳の上でひときわ強い存在感を放っていた。
「教会に? お祈り?」
「違います。金貨を預けに行くんですわ」
「教会に?」
「教会に、ですわ」
舞は、不思議そうに小首を傾げる。
それを見て、蹴鞠がやれやれと軽くため息をついた。
「説明しますわ。歩きながら聞いてくださいな」
舞はしぶしぶついていくことにした。
「そもそも、なぜ教会が銀行の役割を兼ねているか、ご存知ですか」
「知らない」
舞は素直に答えた。
「かつて、聖地を巡礼するための大きな争いがありました」
蹴鞠は、手にした扇子を僅かに動かしながら滔々と語り続ける。
「長い旅になります。大量の金貨を持ち歩けば、当然野盗に狙われる。では、どうするか」
「怖いじゃん。で、どうするの?」
「出発前に、地元の教会へ金貨を預けるのです。そして目的地の教会で、同額を引き出す」
「教会同士は、同じ信仰の繋がりで広く結ばれています。だから遠く離れた土地であっても、同じ神を祀る場所へ赴けば、預けた金貨が引き出せるというわけですわ」
それを聞き、舞は歩きながら、少しだけ思考を巡らせた。
「それって、今で言うと」
「そうです。銀行ですわね」
蹴鞠が、誇らしげに微笑む。
「正確には為替手形と呼ばれる仕組みですが、本質は全く同じですわ。教会のネットワークが、資金の安全な移動を可能にした。争いの歴史が、金融の仕組みを生み出したんです」
「蹴鞠って、そういうの詳しいよね」
「わたくしたちは衣装の時代考証を徹底しますので。中世の歴史など、基礎教養ですわ」
涼しい顔で言い切る彼女に、舞は感心するしかなかった。
ただ着飾るだけでなく、コスプレイヤーというのは思ったよりもずっと深いところまで、世界を掘り下げる生き物らしい。
「で、今回はなんで預けに行くの」
「これから、残る大都市の解放が続きます」
「移動のたびに重い金貨を持ち歩くのは非効率ですし、何より危険ですわ。ここの教会に預けておけば、次の街の教会で引き出せる。荷物も減りますし、盗賊に狙われるリスクもぐっと下がります」
「なるほどねえ。蹴鞠がおると、ウチ、めっちゃ助かる!」
「当然ですわね。でも、舞様は人気がありますし。銀行など必要ないかもしれませんが」
「えー。そんなことないよー。蹴鞠も貴族受けいいんでしょ」
すると、蹴鞠は少し顔を曇らせた。
「貴族受けなら、あの男に負けておりますわ」
◇
リュテアの大教会は、とても壮麗だった。
石造りの重厚な建築で、高い尖塔が真っ直ぐに空へと向かって伸びている。
内部は静かで薄暗く、無数の蝋燭の光が厳かに揺れていた。
壁には、慈愛の女神エレインへの祈りの言葉が深く刻み込まれている。
その最奥に、受付のような窓口が設けられていた。
黒い法衣を纏った中年の神官が座っている。
分厚い帳簿を広げ、熱心に羽根ペンを走らせていた。
ドレスを揺らし、蹴鞠が優雅な足取りで前に出る。
「如月一行の口座を確認したいのですが」
神官が顔を上げる。
窓口に立つ舞たちを見て、彼らが噂の異邦人だと気づいたらしい。
その表情が、微かに緊張の色を帯びた。
「しょ、少々、お待ちください」
慌てた様子で彼は席を外した。
暫くすると別の者がそこに座った。そして帳簿をめくる。
別の棚から新しい帳簿を取り出し、また別のページを開く。
ふと、神官の手が止まった。
顔を上げ、まじまじとこちらを見つめてくる。
何事かと身構えたが、神官の表情は、どこか深い感動に打ち震えているような色へと変わっていた。
「獅子奮迅、縦横無尽の御活躍ですね」
舞は、愛想笑いを浮かべたままピタリと固まった。
「オルカスの地での、あのトロル討伐の報酬も、しっかりとこちらの記録に反映されておりますよ」
困惑の沈黙が落ちた。
舞は、どういうことかと引きつった笑みで口を開く。
「え? ウチたちは──」
「舞殿」
低く通る声だった。
振り返ると、漆黒のパーカーを着た村田が、その袖口を大仰に押さえながら、ひどく真剣な顔で舞を見つめている。
「僕たちは、やりましたぞ」
「え」
「あのトロール野郎の退治でござるよ」
舞は、眼前の青年をじっと見つめ返した。
村田は、一度もまばたきをしようとしない。
「……あ、そっか。うん、そうだね」
舞が無理やり話を合わせると、村田は満足げに頷き、神官へと向き直った。
「いやはや、かの巨躯には少々骨が折れましたが、僕たちの力を合わせれば恐るるに足らず、でしたぞ」
神官が、心底感動した様子で深く頷き返す。
「やはり勇者様方は格が違いますな。エレインの御名の下、末永いご活躍をお祈り申し上げます」
教会の外へ出た。
復興の進む石畳に、穏やかな午後の光が落ちている。
舞は、呆れたように隣の村田を見上げた。
「雄くん? 誰が倒したか、本当は分かってるのよね」
「舞殿。もしかして南部のオルカスの話でござるか。 多分、事故に御座る。 でも、トロルが足を踏み外したのは、紛れもなく事実に御座る」
「え、それって何も分からないってことじゃん」
「いやいや。 それにしても、祝賀会での舞殿は大変麗しく」
「村田。そこになおりなさい。 少し、調子に乗っているのではありませんこと?」
ひ……と小さな声を出し、村田は大人しくなった。
でも、と蹴鞠も言った。
「サムライ・ディメンション。全員レベル4。以前の解放戦も完璧でしたわ。 その噂は奏が各地に流しております。 此度の件もそのような勘違いの可能性は高いですわね」
「そ、そ、そうでござる。 ヴァルシア王国を解放したで御座るよ。 全て、僕たちのお陰なんです。 舞殿も大人気で……。ぐぬぬ。パトロンを狙っている輩かもしれませぬ」
村田は、悪びれもせずに胸を張った。
「それに、今はそのような考えは捨てた方が宜しくてよ」
「ん-。釈然としないけど、ま、いっか!」
「ふ、不快な厄介者を自分たちの手で追い出したのは、決して嘘ではござらん」
舞は、しばらくの間、自信満々な村田をじっと見つめていた。
やがて、小さく息を吐いて前を向く。
難しい理屈は、これ以上考えないことにした。
傍らで、蹴鞠が懐から小さな団扇を取り出し、上品に口元を覆う。
「買い物に行きますわよ。 奏もいいわね」
眩しい午後の日差しを受けながら、彼女の華やかなドレスの裾が石畳の上を揺れ進んでいった。
「……分かったよ。ボク、西洋コーデは苦手なんだけどね」
「嘘おっしゃい」
そして、晴れ渡るお洒落な街並みの戻ってきた店をはしごする。
その間、雄大の心は穏やかではなかった。




