第61話 溜め息の山
六メートルはあるであろう、巨大な影だった。
遠目にはただの巨大な岩脈かと思われた。
だがそれが蠢いた瞬間、無機物ではないと本能が理解する。
かろうじて人の輪郭を保ってはいるものの、決して人ではない。
「そんな化け物がいていいのかよ……」
ちゃんと「逃げろ」と体が言っている。
岩肌のようにひび割れた分厚い皮膚。
知性の欠片も伺えないひどく濁った眼球。
だらりと垂れ下がった丸太のような両腕。
それは容易く地面に届きそうなほどに長い。
その巨躯が一歩踏み出すたびに、大地が悲鳴のように重く鳴動した。
「カペー」
「シオン?」
シオンは、見上げるような巨体を前にして、静かに精霊へと語りかけた。
力を貸してくれますか、と。
精霊はすぐに応えてくれた。
風の気配と微かな感情の揺らぎをもって、共にあると伝えてくる。
「先にやることがあんだろ」
張り詰めた空気を割って、低く通る声が響いた。
元帝国兵の男だった。
冷静に全員の顔を見渡し、瞬時に盤面を構築する指揮官の顔つきになっている。
くやしいが、この歴戦の兵は本物の戦い方を熟知していた。
シオンは内心でそれを認める。
認めたくはなかったが、認めざるを得なかった。
「おい、エヴァン」
「な、なんだ」
「穴という穴に矢を放て。目、耳、鼻。どこでもいい。とにかく視界と感覚を奪え」
弓を構えた狩人が、鋭く頷く。
「速水」
「な……何?」
「逃げタンクっててめぇで言ってただろ。お前は陽動だ。小さい生き物が視界を横切るのは、俺らだってゾワッとするだろ。それをやれ」
「あー、なるほど」
「リーフ」
「はい」
「その馬鹿力が要だ。あの太いスネを丸太だと思え。とにかく叩け。屈んだら、上から俺が叩き潰す」
エインヘリヤルの少女が、大斧の柄を力強く握り直し、無言で深く頷いた。
男の視線が、シオンへと向けられる。
「シオンは」
「風の精霊に頼んで、周囲の熱を奪ってもらう」
先んじて、彼女は自身の役割を口にした。
「トロルは本来、寒冷地に棲む生き物。急激に体温を奪えば、感覚が鈍るはず」
男が、微かに目を細める。
「面白い。それでいくぞ」
「ヴァルシアの民を舐めないで」
男は面白そうに鼻を鳴らすと、最後に修道女の方を向いた。
男に目を合わせない修道女に、シオンの方から話しかける。
「フィオナさんは、戦えますか」
問われた少女は、微かに震える声で答える。
「か、回復の祈りなら……」
シオンは彼女を見た。
青い瞳は眼前の怪物に向けられ、明らかな恐怖に揺れている。
それでも、彼女は決して背を向けて逃げ出そうとはしなかった。
「助かります」
シオンは努めて柔らかい声をかけた。
「そこは私の上位互換ですから。誰かが怪我をしたら、どうかお願いします。それまでは、絶対に後ろにいてください」
修道女が、こくりと頷いた。
◇
死闘が幕を開け——
「いーや。ちょっと待て!」
初動は、完璧なまでに上手くいっていた。
エヴァンの放った矢が風を切り、巨人の左目に深く突き刺さる。
怪物が苦悶の声を上げて顔を覆った。
「なんだ、駆。今はトロル退治だろっ!」
その一瞬の隙を見逃さず、リーフが猛然と踏み込み、巨木のようなスネへと大斧を叩き込む。
硬い岩を砕くような鈍い音が響き、巨体が大きくバランスを崩した。
「オレ達、討伐しろって言われてないじゃん!」
そこへ、灰色のパーカーを翻してオレが駆け抜ける。
右から左へ走る。
「なんで戦う流れ?」
左から右へ。
「ヴォルフ、なんで仕切ってんだよっ」
六メートル? あぁ、そんなものか。
なんて思ってました! でもっ!
目障りな羽虫のように視界を横切るその姿を、怪物の濁った眼球が苛立たしげに追った。
「うっせぇ!」
その間隙を縫って、男が動く。
険しい山の斜面を利用して、高く跳躍した。
大木の幹を蹴って、さらに上空へ。
落下の勢いを乗せた重い一撃が、無防備な巨人の肩口へと容赦なく振り下ろされた。
「怖すぎるんだよっ!」
シオンは、ひたすらに精霊へ祈りを捧げ続ける。
この山の冷気を、全てあの怪物へと集めてほしい、と。
精霊たちは健気に応えてくれた。
巨人の周囲だけ急速に大気が冷え込み、白く凍りついた呼気と共に、その動きが目に見えて鈍重になっていく。
「くやしいけど、うまく行きそう」
あの男の立てた作戦は見事に機能していた。
だが。
埋めようのない絶対的な力の差が、そこにはあった。
「ひ……」
トロルが、苛立ち紛れに丸太のような腕を振り払う。
たった、それだけで、
先制攻撃のアドバンテージが失われる。
元帝国兵の巨体が枯れ葉のように弾き飛ばされた。
「ヴォルフ!」
背中から固い岩肌に激突し、血を吐きながらもなんとか立ち上がる。
「ちっ……この程度」
「リーフが止めるっ!」
大斧の少女が踏ん張るが、圧倒的な質量に押し負け、その足が数センチほど後退する。
エヴァンの放つ矢も、分厚い岩のような皮膚に弾かれ、虚しく地に落ちた。
「あれ……」
じわじわと、着実に。
前衛の戦線が、後ろへと押し込まれていく。
「なんか、おかしくね?」
◇
フィオナは、最後尾でただ立ち尽くしていた。
仲間たちの死闘を見つめている。
「……っ!」
誰かが致命傷を負えば、すぐに駆け寄って祈りを捧げる。
それが今の自分に与えられた、唯一の役目だった。
「私は……」
今はまだ、誰も完全に倒れてはいない。
だから、彼女にはやることがなかった。
何もできないまま、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
巨人の無慈悲な一撃が、大斧の少女を押し込む。
「っ!」
足元の岩盤が耐えきれずに砕け散った。
その凄まじい破壊音が、険しい山々に木霊する。
ッドンツ!!
その音が、記憶の底にある何かと重なった。
気がついた時、フィオナは全く別の場所にいた。
とても、温かかった。
誰かの太い腕に抱かれ、激しく揺れている。
その誰かが、走っている。
誰かが、誰かの為に、必死に走っているのだ。
「うぇぇええええええん」
紛れもなく、自分の父だった。
大きな、頼もしい背中だった。
三歳だった彼女は、父の腕の中にすっぽりと収まっていた。
何が起きているのか、幼い頭では何も理解できなかった。
ただ、大好きな父が走っている。
息を乱し、なりふり構わず、必死に前へ前へと走っていた。
背後から、恐ろしい音が迫ってくる。
大地そのものを叩き割るような、重く絶望的な地鳴り。
父が大きくつまずき、転倒する。
「走れっ」
その直前、彼女の小さな体は母の腕へとパスされた。
「……っ!」
今度は、母が走る。
そしてまた転び、再び立ち上がった父へと彼女を託す。
交互に。
「アナタっ!」
何度も交互に。
抱き抱えられ、空を舞い、受け止められ、そしてまた走る──
おぞましい記憶だった。
三歳の記憶の中で、彼女はただ抱かれているだけだった。
状況の残酷さなど、何も分からなかった。
ただ、背後に迫る死の気配が恐ろしかった。
「山さえ……」
父と母の呼吸が、限界を超えてどんどん荒くなっていくのが分かった。
温かかった二人の体が、少しずつ、少しずつ冷たくなっていくのが分かった。
「越えれば……」
それでも、二人は走ることをやめなかった。
最後の最後まで、愛する娘を決して手放そうとはしなかった。
◇
「——さん!」
「フィオナさん!」
はっと我に返った時、目の前に巨大な絶望が迫っていた。
後退を余儀なくされた戦線が、いつの間にか彼女の立つ場所まで押し込まれていたのだ。
背後には、壁のようにそびえる大木。
もう、どこにも逃げ場はなかった。
「——っ!」
怪物が、足元の小さな修道女を見下ろす。
知性を感じさせない濁った眼球が、確かな殺意を持って彼女を捉えた。
「逃げなきゃ!」
誰かの金切り声に、腰が引けた。
自分の声だったかもしれない。
足の震えが止まらない。
ついに耐えきれず、その場にへたり込んでしまう。
「山を……下り……なきゃ……」
その瞬間が、記憶の中の最期の光景と完全に重なり合った。
父と母が、死の恐怖に追われて走っていた。
あの絶望的な足音。
あの激しい揺れ。
あの、逃げ場のない恐怖。
動けなかった。
指一本、動かすことができなかった。
トロルが、彼女を押し潰そうと巨大な腕を高く振り上げる。
その時だった。
「さっきから、無視してんなよっ!」
カチッ。
異質な音が、弾けた。
突風が、真横から吹き荒れる。
強引に体を引っ張られ、視界が激しく回転した。
「逃げタンクって言ってんだろうがっ!」
直後、彼女の背後にあった大木が、怪物の無慈悲な一撃によって木っ端微塵に粉砕される。
鋭い破片が、爆発したように四方へと飛び散った。
地面に転がりながら、フィオナは必死に目を開けた。
◇
鋭い破片が四方へと飛び散り、私は地面に転がった。
目の前に居たのは、駆さんだった。
異邦の灰色の衣が、降り注ぐ木の破片を背に受けている。
それでも彼は倒れることなく、へたり込む私の前に立ち塞がり、その身を挺して庇ってくれていた。
「大丈夫か?」
私は、何も答えることができなかった。
極度の恐怖で、膝の震えが止まらない。
「怖かったな」
駆さんは、眼前の巨大な怪物から目を逸らすことなく言った。
私の方を見てはいない。
それでも、その言葉は確かに私の心へと真っ直ぐに向けられていた。
「分かる! 逃げるのってさ、めっちゃ怖いよな」
私は、その飾らない言葉を呆然と聞いた。
逃げることは、惨めで恥ずかしいことだと思い込んでいた。
両親が魔物から逃げ惑い、無惨に力尽き、私だけが生き残ってしまった。
そんな自身の生い立ちを、ずっと心の奥底で恥じていたのだ。
「それから……。あと、逃げていいだろ!」
「え……?」
「逃げる戦いだってあるんだよっ!」
私の目から、抑えきれない熱い雫が溢れそうになる。
「やっと見てくれたな」
「あの……」
怪物が、再びその丸太のような腕を大きく振り上げた。
死闘は、まだ終わっていなかった。
「忘れられるのが、いっちゃん、響くんだわ……」
目を見開いた。
私のことを、分かっている……
「あー、久々に喋った……ってことで、行くぞ」
「……はい」
駆さんが首を傾げた。
何かをやるつもりらしい。
カチカチカチカチカチ……
そして、勇敢にトロルに向かって、飛び出した。
◇
怪物が、苦しげにもがいた。
巨大な両膝を地面についたまま、丸太のような腕を無茶苦茶に振り回す。
大斧の少女が、身を翻して一歩引いた。
私を庇ってくれた駆さんが、軽やかに横へと跳ぶ。
凄まじい風圧を伴った暴威が、虚しく空を切った。
「なんだ、その往復運動は!」
「いいだろ、別にっ!」
ふと見ると、あの元帝国兵の男が怪物の背に飛び乗っていた。
いつの間に、と私は目を疑う。
怪物が膝をついたあの一瞬の隙に、巨体を駆け上がったらしかった。
怪物がどれほど激しく腕を振り回して暴れても、彼は決して振り落とされない。
まるで険しい岩壁にしがみつくように、巨大な背中へぴたりと張り付いている。
そして、その死角から容赦のない打撃を幾度も叩き込み続けていた。
「リーフもいるからっ!」
怪物が地面に手をつき、再び立ち上がろうと力を込める。
そこへ、大斧の少女が動いた。
その足取りに、一切の迷いはなかった。
巨体を支える怪物の左腕へと向かって、一直線に疾走する。
振り上げられた戦斧が、恐ろしい風切り音を上げて唸った。
横凪ぎの一閃。
硬い岩盤を砕くような、ひどく鈍い音が響く。
怪物の分厚い左腕が、完全にその力を失った。
支えを失った巨大な上半身が、大きくバランスを崩して傾く。
ズドォンという地鳴りと共に、怪物は醜く地面に頬を擦りつけた。
そこへ、弓を構えたエヴァンさんが猛然と走り込んでいた。
弓兵でありながら、放つのは至近距離からの射撃。
地面に倒れ伏した怪物の顔の真横まで肉薄し、ピタリと足を止める。
弦をつがえ、限界まで引き絞る。
そして、放った。
「さっきの坂道のやつか。 結構キモいな」
無慈悲な矢が、怪物の濁った眼球へと深々と突き刺さる。
怪物が、絶叫した。
山そのものが激しく揺れるような、鼓膜を裂く咆哮だった。
私は思わず、両手で耳を塞いでうずくまる。
シオンさんが、すぐさま精霊へ何かを強く祈った。
「うん。なんか、カペーが三人いるように見える」
吹き荒れる風が防壁となり、暴力的な絶叫を押さえ込むように周囲を包み込んでくれる。
痛みを訴える怪物の動きが、さらに鈍く、散漫になった。
「これが異邦人のスキルか」
その隙に、背に張り付いていた男が動いた。
滑るように背中から太い首元へと移動する。
片手で怪物のうなじをがっしりと掴み、もう片方の手で抜き放った短刀を光らせた。
「……ってか! 誰か止めて!」
「は? ……ったく」
一切の迷いもない、冷徹な動き。
刃が、岩のような皮膚の隙間を縫い、太い首の血管を容赦なく抉り取った。
「リーフ」
「うんっ!」
戦いの音が、ふっと消えた。
怪物が、ゆっくりと崩れ落ちていく。
六メートルはあろうかという絶望的な巨体が、ついに険しい山道へと横たわった。
地響きが鈍く揺れ、やがて、山に静寂が舞い戻る。
「嵌ったんだって! 永久に下がって、登ってを繰り返してたって!」
「駆。ちゃんと立って。リーフが手を放したら、またその連鎖が始まる」
「ひ……」
男が怪物の背から静かに降り立ち、汚れた短刀を血抜きして拭う。
ただ、それだけだった。
エヴァンさんが、張り詰めていた息を大きく吐き出す。
「まぁ、見た目はアレだが。やったな」
大斧の少女が無言で、駆さんを放り投げた。
言葉こそ発しないが、その静かな瞳には確かな達成感が滲んでいた。
駆さんが、動かなくなった亡骸を見下ろしている。
「壁嵌めバグで昇天しそうだった」
「そうね。バターになるかと思った」
シオンさんが、ふっと肩の力を抜いて同意した。
「やめて? 結構、気持ち悪いからっ!」
私は、その光景を呆然と見つめていた。
私の頬には、未だに涙が残っている。
乾く間もないほどの、一瞬の死闘だったのだ。
見ると、元帝国兵の男が倒れた怪物の死骸を念入りに検分していた。
「戦利品のつもりか」
呆れたような、低い呟きが聞こえる。
怪物の太い腰回りに、何かが無造作にぶら下がっていた。
それは間違いなく、人間の持ち物だった。
古い革袋、血に汚れた布の切れ端、赤茶けた錆びた金具。
それら色々な品々が、戦利品のように一つにまとめられている。
怪物の習性によるものなのか、それとも別の悍ましい理由があるのか、私には到底理解できなかった。
私は、ゆっくりとそこへ近づいた。
膝の震えは、まだ完全に収まってはいない。
それでも、見えない糸に引かれるように足が動いた。
ぶら下がった遺留品の中に、微かに光を反射するものがある。
——見覚えのある首飾りだった。
華奢な細い鎖の先に、小さな青い石が埋め込まれている。
私は、その澄んだ青色をよく知っていた。
物心つく前に両親と死別した私が、知っているはずなどないのに。
なぜか、私の魂がその輝きを強烈に記憶していたのだ。
両手が、小刻みに震えた。
恐る恐る、手を伸ばす。
震える指先が、その青い石にそっと触れた。
ひどく冷たかった。
でも、それは幻想ではなく、確かにそこに存在していた。
「忘れもの……見つけた」




