第50話 追放者の気楽な朝帰り
石が、悲鳴のように鳴いていた。
巨大な建造物が崩れる音というのは、こういうものなのかとオレは思った。
火薬を使った派手な轟音でも、爆発でもなかった。
大きくはあるが、ただ一つの支えを失っただけ。
そこに積み重なった長い長い時間が、少しずつ、少しずつ、自分自身の重さに耐えきれなくなって、無惨にずり落ちていくような鈍い音だった。
アルンの砦の一角が、白い砂煙を吐き出しながら沈んだ。
オレは血だらけの足でその場に立ったまま、ただそれを見つめていた。
領主の兵士たちの逃げ足は、驚くほど早かった。
要塞の砦が音を立てて崩れ始めたその瞬間には、もう半数以上が街の門へ向かって走り出していた。
まともな統率も、指揮官の怒号も、隊列を守る命令も一切なかった。
ただ、保身のために足が動いた。本当に、それだけだった。
重い鎧がぶつかる音が遠ざかり、馬の蹄の音が四方へ散って、やがて騒がしかった街からは何も聞こえなくなった。
あとに残されたのは、もうもうと舞う砂煙と、耳鳴りがするほどの静寂と
──アルンの民たちだった。
数十人。いや、もっといたかもしれない。
砦の影に押し込められるようにして生きていた者たち。
強固な壁が崩れたことで、ふらふらと外の広場へ出てきていた。
だが、誰一人として動かなかった。
領主から解放されて喜ぶでも、逃げ惑うでも、泣き叫ぶでもなく。
ただ、虚ろな目でその場に力なく膝をついたり、崩れた壁の残骸にもたれかかったり、足元の地面をぼんやりと見つめたりしている。
自ら考えて行動する力を、心のどこかに置き忘れてきてしまったような顔だった。
オレは、その空っぽの顔を見て、はじめて気がついた。
このアルンが、民を虐げる悪い領主の街だということは分かっていた。
だから、リーフの力を借りて砦を壊した。
その判断自体は、今でも正しかったと思っている。
でも。
あの巨大な壁を壊したあとのことなんて、オレはこれっぽっちも考えていなかったのだ。
「……で、アンタは何でしれっと一緒に出てきてんの」
シオンの冷たい声が、重い静寂を不意に破った。
鋭いジト目が向けられた先には、あの地下牢にいたヴォルフがいた。
灰色の髪をかき上げ、腕を組んで、崩れ落ちた砦の残骸を特に感慨もなさそうに眺めている。
「オレが出てきちゃ悪いかよ」
「悪くはないけど、なんか、腹立つ」
「けっ。随分と正直なやつだな」
「アンタが不正直なだけ」
ヴォルフが、小馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らした。
シオンは一歩も引かない強い目で、自分より背の高い帝国軍人を見上げている。
「シオン、今は少し落ち着け」
見かねたエヴァンが、横から小声で耳打ちした。
「私は完全に落ち着いてる」
シオンが、一切の表情を変えずに即答した。
どう見ても、全く落ち着いていなかった。
オレは、一触即発の二人を交互に見比べ、間に割って入って止めるべきか一瞬だけ考えた。
でも、すぐにやめた。
オレは異邦人だし、正直言って面倒くさかった。
それよりも、と一人の少女を探した。
少し離れた砦の外れに、リーフが一人で立っていた。
奇跡的に崩れずに残った石壁の際に、可憐な野の花が一本、そっと置かれていた。
この荒んだ街のどこで摘んできたのか。
それとも、あのヴェラの森からずっと大事に持っていたのか。
リーフは何も言わず、その小さな花を見つめて、しばらくその場に静かに立ち尽くしていた。
母の命を奪った忌まわしい壁。
それを自らの戦斧で打ち砕いた彼女の背中に、オレは声をかけることができなかった。
どんな言葉をかけるのが正解なのか、全く見つからなかった。
「……お前、とんでもないことをやらかしたな」
エヴァンがオレの隣にやって来たのは、それからしばらくしてのことだった。
砂煙がようやく薄れ、崩壊した砦の無惨な輪郭が、朝焼けの中にはっきりと見え始めてきた頃だ。
「やらかした、って?」
「魔物や獣を相手に戦うのは、まあ、自分の領分だから分かる。でも今回ばかりは違うぞ。同じ人間が作ったものを完全に壊したんだ」
エヴァンは、ひどく悩むように後頭部をガシガシと掻いた。
「ここの領主のロベールが、民を苦しめる悪いやつだってのは分かる。だから砦を壊すことも必要だったと、頭では理解してる。でも、ただの森の狩人が、国境の街でこんなことしてよかったのか、俺たち」
「それ、よりによって一番無責任なオレに聞く?」
「今のこの状況で、お前以外に誰に聞くんだよ」
異邦人だから関係ない。
だけど、手を出した以上は面倒くさくても、何かをしないといけない。
頭では分かってるが、オレの出した答えは——
「責任は上司に言って!」
エヴァンが、驚いたように横目でオレを見た。
オレは、まっすぐに崩れた砦の瓦礫の山を見た。
「オレたちはアルンに行けと言われた。 で、捕まった。 なんか、悪い奴らが屯してたから、セルヌンティウス司祭の名の下で、エレイン様の名の下で、ぶっ壊したんだよ」
エヴァンは、頭を掻いて、呆れた顔をした。
二人で並んで、しばらくの間、ただ静かに砦の残骸を見つめていた。
「ま、それしかないか」
因みに、領主であるロベールの姿は、崩れた砦のどこを探しても見当たらなかった。
だが、その事実を誰も気にかけてはいなかった。
武装した兵士たちが逃げ去り、象徴である砦が崩れ落ちた。今のオレたちは、目の前の現実を処理するだけで手一杯だった。
だから、ロベールが明確な意思と狡猾な計算を持って、ひっそりと南の方角──フィニス王国側へ向かって逃亡していることを、この時の誰も知る由がなかった。
◇
空が赤く染まり、夕暮れが近づいていた。
崩れた砦の歪な影が長く伸びて、呆然と座り込んでいる民たちの上に暗く落ちている。
シオンが、そのうちの一人の傍にしゃがみ込んでいた。
何かを優しく話しかけている。
返事は全くなかったが、シオンは気にせず根気よく言葉を紡ぎ続けていた。
(もしここに、あのセルノがいたら)
オレは、ふとそんなことを思った。
もしあの修道士がここにいれば、民のあいだを静かに歩き回り、泥だらけの地面に跪いて目線を合わせただろう。
そして、冷え切った彼らの手を両手で強く握り、地母神エレインへの祈りの言葉を短く、力強く口にしたはずだ。
そうすれば、空っぽになった民の目にも、ほんの少しだけ生きた光が戻ったかもしれない。
「ここでセルヌンティウスの手紙って駄目なのか?」
「ん-? どうなんだろうな」
ふと、ヴォルフがオレの隣に並んで立った。
「駄目に決まってるだろ」
「お前……。なんで、お前が決めるんだよ」
今度はエヴァンとヴォルフの口喧嘩
と思ったが。
「ヴァルシア王国は領主と教区が大体、重なってる」
「そうなのか? なんで、帝国人が詳しいんだ?」
「帝国だからだろ。 他所の方が詳しいなんてことはざらにある」
難しい話を始めた。
オレは純粋に、もう一度聞いた。
「重なってたら、どうなんだ?」
「はぁ……。あれだろ? お前らは領主が逃げた場所で生きてんだろ? 領主がいたら、そもそも動けねぇんだからな」
つまりカルネ、それ以外の領主が逃げた地域と、領主が存在するアルンとでは、システムが違うらしい。
「ムズイな」
「わざと難しくしてんだろうが」
「なるほど。で、ヴォルフはこれから」
「オレは、てめぇについて行く」
オレは驚いて、一瞬だけヴォルフの顔を見た。
冗談を言っているような顔ではなかった。
ただ、自分の中で損得勘定を終えて『そう決めた』というスッキリした顔だった。
「……なんでオレについてくるんだよ」
「てめぇのその間抜けなスキルが、最高に面白いからだ」
オレは思わず脱力した。
「それだけの理由かよ」
オレは、ヴォルフの胸元に刻まれた帝国軍の冷たい紋章を、一秒だけ見た。
それから、何も言わずにすっと目を逸らした。
難しい理屈や、帝国のスパイがどうとかいう厄介な政治の話は、全部オレたちの司祭様に丸投げして聞けばいい。
「リーフも駆についてく」
「リーフは最初からそのつもりだぞ。 カルネでのんのんと気ままに暮らすんだ」
ふわりと、冷たい風が吹いた。
空気中に漂っていた砂煙の名残が、風に乗ってゆっくりと流れていく。
崩れたアルンの砦は、もう悲鳴を上げていなかった。
「でも、ヴォルフ。 オレの一存じゃ決められないぞ」
するとヴォルフは僅かに思案顔になった。
でも、三秒くらい。
「カルネならいいぜ」
「ん? どういう意味だよ」
「別にいいだろ。 そのセルヌンティウス様ってのに判断してもらうとするわ」
「ああ、うん。それが一番いいよ。 こきを使ってもらう」
「んだと。俺様がこきを使うんだ」
リーフが、野の花を置いた崩れかけの壁を、最後に一度だけ振り返った。
それから、しっかりと前を向いてオレたちの元へ歩み寄ってきた。
そして、オレたちはカルネの村へ向かって、歩き出した。
「セルノ……。絶対に泡吹いて倒れるぞ」
と、エヴァンが言っていたが、聞いていないフリをした。
(第二章完)




