第49話 アルン要塞陥落戦
シオンが静かに目を閉じ、大気に満ちる見えない精霊たちへと優しく語りかけた。
冷たくて、すべてを隠す濃い霧を、と。
すると要塞都市アルンの空気が、じわじわと不気味に変容し始めた。
リーフが大盾を強く握り直し、中央の畑の方角に向かって猛然と走り出した。
「魔物が出たぞ──っ!」
少女の張り裂けんばかりの声が、石造りの街全体に激しく響き渡った。
途端に、街の巡回兵たちが一斉に動き出した。
領主の館からも、武装した兵士たちが次々と血相を変えて飛び出してくる。
彼らは死に物狂いの形相で、重要拠点である畑の方へと一斉になだれ込んでいった。
その頃には城壁の内側に、不自然なほど濃い霧が立ち込めていた。
真っ白な精霊の霧が、アルンの冷たい石畳を這うようにして、またたく間に広がり始める。
建物の頑強な輪郭がみるみるうちに白く滲み、要塞都市のすべてが、深い霧の底へと静かに見えなくなっていった。
◇
霧が、ひどく白かった。
自分で精霊にお願いして出しておいて言うのもなんだが、本当に数メートル先も見えなかった。
シオンはアルンの砦の外壁から少し離れた深い茂みの中で、両膝をついて、両手を冷たい土に当てたまま静かに目を閉じていた。
無数の精霊たちが、白い霧をせっせと運んでいる。
薄く、広く、この堅牢な要塞都市の周囲をすっぽりと包むように。
視界を完全に奪う。
それだけで十分な陽動になる、と最初は思っていた。
思っていた、だけだった。
「……思ったより、慣れてる」
シオンは、誰にともなく小さく呟いた。
精霊越しに伝わってくる兵士たちの動きが、最初の想定と全く違った。
不気味な霧が出た時、確かに領主の館から数人の兵士が慌てて外に出てきた。
声を荒らげ、周囲を警戒して確認して。
でも、実害が何もなかった。
魔物が襲ってくる気配も、物理的な被害もなかった。ただ、鬱陶しい白い霧があるだけだった。
兵士たちは、すぐに館へ戻っていった。
外の持ち場に見張りを二人増やしただけで、あっさりと戻っていった。
(魔物の対応に、慣れてるんだ)
そうだ。ここはアルンだ。
王国の辺境でありながら、常にドミナス帝国の脅威に晒され続けている最前線の要塞都市だ。
魔物が森から出ることすら、彼らにとっては日常の延長線上にある些事なのだ。
決定的な実害が伴わなければ、正規の兵士は無闇に動かない。
考えてみれば、当たり前のことだった。
なのに、オオカミ少年作戦などと言って、それで兵士の目をすべて引きつけられると思っていた。
「私の見立てが、甘かった」
シオンは焦って精霊に問いかけた。
返ってきたのは、明確な言葉ではなかった。
重く、長く、ひどく淀んだ何かだった。
途方もない時間の重さのような感情。
シオンはそれを、「そうだ」と受け取った。
霧の向こうで、エヴァンとリーフが動いていた。
捕まった駆を助けるため、砦の地下へ近づいている。
精霊の感知を通じて、二人の熱を持つ輪郭がぼんやりと見えた。
慎重に、姿勢を低くして、外壁の影に沿って進む。
でも、要塞の守りが堅かった。
増やされた見張りが、すべての要所を完璧に押さえていた。
問題の畑が、砦の東側に大きく広がっている。
あそこに火をつければ、確かに兵士は血相を変えて動くはずだ。
でも、火をつけに行ける人間が、今の私たちにいる?
エヴァンとリーフは地下への潜入で完全に手が塞がっている。
シオンはこの広範囲の霧を維持するので精一杯だ。
そして、民だった。
これが一番の、最悪の誤算だった。
精霊越しに、街の民たちの顔が見えた。
リーフが、すれ違う大人たちに声をかけていた。必死に。
『一緒に動いてくれ、今が領主を倒すチャンスだ』、と。
だが、民の目が、一切動かなかった。
恐怖ではなかった。領主への怒りでも、現状への諦めでもなかった。
ただ、目に光がなかった。
あまりにも長い間、帝国と領主に理不尽に搾り取られ続けてきた人たちの目だった。
リーフの言葉がおかしいのではない。リーフは正しく戦おうとしている。
ただ、守られる側であるはずの大人が、もう戦うための「心」を完全に失っていた。
茂みのすぐ外で、枯れ枝を踏む乾いた音がした。
「シオン」
エヴァンだった。
低い声で、茂みの中に滑り込んできた。
その後ろに、大盾を抱えたリーフも続いた。
二人とも、息は乱れていなかった。
でも、その顔がかつてなく険しかった。
「どうだ」
「駄目だ」
シオンは目を開けた。
「作戦、半分失敗してる」
「半分は成功してるじゃないか」
「違うの」
シオンは、悔しそうに強く首を振った。
「見張りの兵士が問題じゃない。民の方が大問題だ。動かない。動けない、じゃなくて、最初から動こうとしていない」
リーフが、薄い唇をギュッと噛み締めた。
彼女は何も言わなかった。
でも、きっと最初から知っていたのだとシオンは思った。
大人が誰も立ち上がらないことを知っていて、それでも自分の故郷だから、一縷の望みをかけて来たのだと。
「東の畑に火をつければ、あいつらは確実に動く」
エヴァンが、冷静に言った。
「でも、誰がつける」
「……」
「お前は霧を維持してる。俺とリーフは潜入に失敗して今ここにいる」
重い沈黙が落ちた。
白い霧が、音もなく漂っていた。
砦の巨大な外壁が、霧の向こうで不気味に黒くそびえ立っている。
見張りが持つ松明の赤い光が、二つ、三つ、頼りなく揺れていた。
完全に詰んだ、とシオンは思った。
「民は誰も動かない。あたしが……リーフが行く」
「今からじゃ、無理だ。そもそも手が足りない」
手駒が足りない。民も動かない。要塞の守りは堅い。
自分の霧と、リーフの無謀な陽動だけでは、もうどうにもならない。
その時だった。
シオンの使役する精霊が、激しく揺れた。
言葉ではなかった。
ざわり、と背筋が凍るような冷たい何かが広がる感覚だった。
シオンの作った白い霧の中に、突如として別の「実体」が生まれていた。
凶悪な獣の影だった。しかも一つではない。
霧の中のあちこちで、複数の影が統率された動きで蠢いていた。
「シオン?」
エヴァンの声が、限界まで低くなった。
「今の、お前の精霊か」
「違う」
シオンは、弾かれたように立ち上がった。
精霊の感知が、警鐘を鳴らすように揺れ続けている。
獣だった。ただの幻じゃない。
この霧の中に、確かな重さと生温かい体温を持った獣の気配が、爆発的に増えていた。
一体どこから来たのか、全くわからなかった。
リーフが、短く息を呑んで大盾を構えた。
「場所を移動します」
三人が隠れていた茂みを出た瞬間、街の方から民の悲鳴が上がった。
完全に錯乱していた。
霧の中から突然現れた無数の獣の影に、大人たちが我先にと逃げ惑っていた。
老いた者が転んだ。小さな子供が泣き叫んだ。
でも、誰も助けようとしなかった。
皆が、ただ自分の命を守るために逃げた。
砦の中から、領主の怒鳴り声が響いた。
リーフが顔を上げた。
「一体、何があった!」
外の見張りに向けて、内側から誰かがヒステリックに叫んでいた。
「わ、分かりません! この霧の中から、多数の獣の影が今、確認されました!」
「この馬鹿野郎! 俺の窓からも見えてるんだよ! 貴様ら、見張りをサボりやがって!」
ドン、ドン、と重い足音が重なった。
砦の中にいた完全武装の兵士たちが、一斉に外の広場へと展開し始めた。
松明の光が、白い霧の中に次々と増えていく。
「リーフ、駄目」
「でも……」
シオンは、焦って精霊に問いかけた。
返ってきたのは、熱い何かだった。
激しく、鋭く、巨大な質量が一点に向かっていく異常な感覚。
言葉ではなかった。でも、シオンにはすぐにわかった。
「何かが……起きる」
その瞬間だった。
ズドォンッ!! と。
大砲でも撃ち込まれたような凄まじい衝撃音がした。
砦の分厚い木の扉が、内側から外側へ向かって粉々に弾き飛ばされた。
白い霧の中に、一人の男が立っていた。
月光を反射するような、ボサボサの灰色の髪。
極悪人のように目付きが悪かった。
腕を組み、周囲の兵士たちをゴミでも見るように一瞥した。
その後ろに、両手と両足が擦り切れて血だらけの駆がいた。
「カペー!」
シオンが、思わず駆け寄ろうとした。
だが、灰色の髪の男が、それを制するように一歩前に出た。
「てめぇが、あの逃げ足野郎の仲間の精霊術師か」
地を這うような、低い声だった。
「甘い。甘い。甘すぎんだよ、てめぇらの作戦は」
白い霧の中で、無数の獣の影がピタリと動きを止めて揺れた。
灰色の髪の男の背後で、彼の完全な支配下にあることを示すように、静かに。
「本当の陽動ってのはな。『ほんの少しでも隙を見せたら、一瞬で全員噛み殺すぞ』っていう圧倒的な恐怖があって、初めて成立すんだよ」
◇
シオンは、その灰色の髪の男を鋭く睨みつけた。
男の目が、面白そうに三日月型に細くなった。
「何? こいつがこの街を支配してる悪い伯爵?」
「あ? 俺がそんなクソ野郎なわけねえだろ。やんのか? あ? やんのかコラ?」
男は一歩も引かなかった。
シオンも、負けじと一歩も引かなかった。
霧の中で、魔物の獣の影が威嚇するように揺れていた。遠くで、兵士たちの松明の光が慌ただしく揺れていた。
混乱する兵士たちの怒号が、霧の向こうで未だに続いていた。
そこに、エヴァンが二人の間に割って入った。
「お前の、その服の紋章」
エヴァンが、男の胸元を厳しい目で見ていた。
狩人の、獲物を見極める鋭い目だった。
「神聖ドミナス帝国軍の人間か」
「……だったらどうした」
男が、ふんと鼻を鳴らした。
「テメェらはあれか? 民間人のフリして奇襲をかける、便衣兵かなんかか?」
今にもバチバチと火花が散りそうだった。
シオンとエヴァンが並んで、敵国の男を強い警戒心で見ていた。
男は二人を交互に見比べ、どこかこの状況を楽しんでいるようだった。
その時、後ろから情けない大声がした。
「お前ら、今はそれどころじゃないだろ!」
手足が血だらけの駆だった。
「シオンも、エヴァンも、それからヴォルフも!」
名前を呼ばれて、三人が同時に振り返った。
駆は、崩れた砦の壁に手をついて必死に立っていた。
牢獄の重い枷を力技で砕いたせいで、両手が血で赤く染まっていた。裸足の足首も赤かった。
でも、その顔は痛みに歪むのではなく、妙に険しく、何かに怒っていた。
霧の中で、兵士たちの足音がこちらへ確実に向かってきている。
「リーフも! こっちへ来い!」
駆の叫びに、霧の中からリーフが走ってきた。
小柄な体が、白い霧を割って駆の元へ現れた。
「え、でも、リーフは行かなきゃ。お母さんの仇──」
「オレも、ヴォルフの境遇の話、牢屋の中で何となく分かったから」
駆が、早口で言った。
エヴァンが、灰色の髪のヴォルフを指さして駆に抗議した。
「ちょっと待て、カペー。そいつは正真正銘の帝国軍人だぞ」
「今はそんなの関係ない!」
駆はヴォルフを見なかった。
目の前にいる、故郷を奪われた小さなリーフだけを見ていた。
「エヴァンだって、自分の都合で動く貴族ばかりを助ける王国の勇者を嫌ってるだけだろ。それと全く同じ構図だよ。帝国軍でも、フィニス王国軍でも、オレたちを虐げる奴は等しく敵だ!」
「同じじゃない……だろ」
エヴァンが、複雑な顔をして口を噤んだ。
霧の中で、足音がもうすぐそこまで近づいていた。
複数の松明の光が、オレたちを完全に捉えようとしている。
ヴォルフは、何も言わずに黙っていた。
腕を組んだまま、どこか遠くを見るような冷めた目で、駆の行動を観察していた。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
駆が、その場で小刻みに後ろへステップを踏み始めた。
「まあ、敵だしキモいけど」
シオンが、ため息をついて言った。
「でも、無事に助かって本当に良かった。カペー、後で牢屋の中で何があったか全部説明──って、え?」
駆が、すでに動いていた。
「リーフ、行くぞ」
「うんっ!」
小柄なリーフの体を、ヒョイと担ぎ上げていた。
華奢な体が、駆の肩の上に横抱きになって乗っている。リーフの背負う大盾がひどく邪魔そうだった。
それでも、駆は一切構わなかった。
「ちょっ、カペー!何するの」
「リーフのための戦いだろ?」
駆が、残った砦の壁に向かって爆発的な速度で走り出した。
血だらけの足が、石畳の地面を凄まじい力で蹴り飛ばす。
「このままの速度で思い切り、お前の武器をあそこにぶつけろ!」
担がれたリーフの薄い目が、ハッと見開かれた。
そして、戦士の目に変わった。
邪魔な大盾が、背中に回された。
代わりに、あの重い戦斧が右手に握り締められた。
「うんっ!」
駆の『逃げるが吉』Lv.3の異常な突進速度。
それに乗った巨大な戦斧が、空気を切り裂いて唸りを上げた。
前進する運動エネルギーが、すべてその一撃に乗った。
ドッゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォォンンンン!!
要塞の壁に、炸裂した。
鼓膜が破れるほどの轟音が、周囲の白い霧を完全に吹き飛ばした。
「マジ……かよ」
ヴォルフの口角が片方だけ上がった。
砦の一階の強固な石壁部分が、丸ごと消し飛んでいた。
分厚い石が、太い木材が、鉄の補強が、四方八方へと無惨に散り散りになる。
その衝撃で、アルンの街の地面が大きく揺れた。
一瞬の、耳鳴りがするほどの静寂。
それから、要塞の砦が悲鳴のように鳴いた。
そこからはあっという間だった。
支えを失い、自重に耐えきれなくなったのだ。
地下の牢獄へ続く空洞が、大きく口を開けた。
凄まじい土煙が噴き出す。
石の粉塵が、白い霧に混じって空高く舞い上がる。
圧倒的な質量を伴って、アルンの象徴であった要塞の砦が、完全に崩れ落ちた。




