第27話 カルネ村は不穏になる。
いつからだろう、と思った。
はっきりとは、わからなかった。
「パーカー修道院ってなんだよ。 カペーといい、パーカーといい。駆要素が足りてないじゃん」
急激に村の空気が変わったわけじゃなかった。
深呼吸をしてみても、いつもの潮の匂いがした。
森の匂いがした。穏やかなカルネの村の匂いだった。
「エヴァンといい、シオンといい。話を聞かないというか……」
でも、今日は何かが違った。
このモヤモヤを、うまく脳内補完することができなかった。
朝、井戸に向かう時。畑の横を通る時。夕方、三人で海を眺める時。
何かが、常に引っかかったっていた。
「オレに出来ることなんて限られてるし、何ならエヴァンの方が頼りになるし。シオンも精霊と話せるって、オレからしたらチートなんよ。 ま、何か出来るかは知らんけれど」
深く刺さった棘みたいに、目には見えない。
けれど、喉の奥に何かが刺さったような?
いや、もっと曖昧だった。
あれだ。なんか、やだな。
そんな、オカルトじみた感覚。
「カペー」
エラたちは、今日も朝早くから来た。
「カペー」「カペー」
三人が順番にオレを呼んだ。
「起きてるって」
「もう起きてたー!」
ガウが悔しそうな顔をした。いつも通りの平和な朝だ。
エラが井戸に向かって走り出し、ルンがその後ろをトコトコと追いかける。
ガウがオレのパーカーの袖を引っ張った。
「カペー、今日は何を教えてくれる? 海で石投げてたって」
「それはエヴァン」
「エヴァンは下手だから」
「子供は九九でも覚えろ」
「くくってなにー」
「くっくっくっくっくぅぅぅぅってこと?」
「そうだよ。お前らをどうやって食おうか……って違う!」
井戸の前で、四人で並んで手を合わせた。
水をありがとうございます。今日もよろしくお願いします。
大切な儀式だ。
この井戸の方が、オレよりもずっと人々を救っている。
その祈りを終えて目を開けた時、隣のルンがじっと空を見ていた。
「どうした」
「……なんか」
ルンが、不思議そうに小首を傾げた。
「今日、すごく静かだね」
「静か?」
「うん。鳥の声、しない」
オレはハッとして耳を澄ませた。
確かに、不自然なほど静かだった。
いつもなら朝は鳥がうるさいくらい鳴いていた。
森の方から、海の方から、色んな甲高い声が聞こえてきていた。
今日は、それが一切なかった。
「そういえば」
ぽつりと呟いた。
ガウがオレを見上げて首を傾げる。
「カペー、どうしたの?」
「なんでもない」
でも──。
(この感覚。 いや、まさか)
胸の奥で、さっきの棘が、チクリと少し深く刺さった気がした。
◇
午前中、いつも来るはずのエヴァンが来なかった。
現代じゃ、あるあるだけど、カルネでは珍しかった。
畑仕事が立て込んでいるのかもしれない。
そう思って、部屋で少し待った。
だが、昼になっても姿を見せなかった。
オレはドワンの家に顔を出した。
老いた村長は、家の前で村の入り口の方をじっと見ていた。
「エヴァンを見ませんでしたか」
ドワンが、ゆっくりと振り返った。
「東の畑に行ったと言っておったよ」
「東に畑?」
背中が少し寒くなる。
「一番、森に近い方の畑だ」
オレは東の方を見た。
相変わらず黒い森が、巨大な壁のように暗く広がっている。
いつもと同じ。ノワルシュバルトと呼ばれる森だった。
でも──いつもより、ずっと暗い気がした。
天気が曇っているわけじゃなかった。
空は高く、青かった。
それでも、あの森だけが、光を吸い込むように異様に暗かった。
「ドワンさん」
「なんだね」
「最近、森の様子はどうですか」
ドワンが、少しだけ重い間を置いた。
「……猟師たちが、森の奥に入りたがらなくなっている」
「いつから」
「十日ほど前、からだ」
オレは森を見たまま、思考を巡らせた。
十日前。流れてきた難民の新しい家族が三軒、この村に増えた頃だった。
パーカー修道会の教義を教えるとか、エヴァンが息巻いていた。
食べるものと寝る場所がある。
その噂で、人が増えた。
人が増えれば、当然目立つようになる。
村が豊かになって目立てば、確実に『誰か』が来る。それは野盗か、あるいは。
そもそも、オレは勘違いをしていた。
「でも、どうして東の森」
「廃れた畑があったんじゃ」
「そうか。人が増えたから」
人が増えたら畑を増やす。
畑がないなら、木を切り倒す。
オレは曖昧に、こんな発想していた。
エヴァンに鼻で笑われた。
あのノワルヴァルトを開墾するだって?
根を掘り起こすのに、どれだけの労力が必要か分かっているのか?
発想が違っていたのだ。
耕せそうな土地を探す為に、人は危険な森に入るしかない。
「カペー殿」
ドワンが、静かに言った。
「備え、とおっしゃっていましたな」
オレは黙って頷いた。
エヴァンとシオンのみが加入する、パーカー修道院の教義に入れてしまった。
何かに備えて、食糧を蓄えていくこと。
単に、異世界モノの定番を優先しただけ。
とりあえず、食べ物があれば解決する。
最初にその甘さを知ってしまった。
これもまた同じ、現代病だった。
備蓄は、簡単に生まれない。
泰平しかない世の中にするか、重機どころか、ありとあらゆるものをチートで作るしかないのだ。
◇
昼過ぎ、シオンがオレの部屋に来た。
いつものように、ちょこんと隣に座った。
でも今日は、彼女は海を見なかった。
ずっと、東の森を見ていた。
「シオン」
「うん」
「精霊の声、どうだ」
シオンが、少し間を置いた。
「最近……静かだよ」
「静か……か。それは?」
「怖い時、精霊はすごく静かになるの」
オレはシオンの横顔を見た。
シオンは森を見たまま、ぽつりぽつりと続けた。
「追い出されてるみたいな感じ。あの森の中から、何か大きな力に」
「何かに」
「わからない。でも──」
シオンが、初めてオレの顔を見た。
いつものふわっとした、焦点を結ばない目じゃなかった。
現実を真っ直ぐに捉える、真剣な目だった。
「カペー、最近ちゃんと寝てる?」
「……まあ」
「嘘だ」
図星だった。
「なんで分かるんだよ」
「カペーの目が、ずっと落ち着いてないから」
シオンが、また東の森を見つめた。
「カペーも感じてるんだよ。精霊が感じてる恐怖と、同じものを」
オレは釣られて森を見た。
(そうだよ。 分かってるんだよ。 オレのチートスキルが、逃げろって言ってんだよ!)
◇
夕方になってようやく、エヴァンが戻ってきた。
ひどく顔色が悪かった。
「どうした」
「東の畑で……」
エヴァンが、震える瞳でオレを見た。
「獣の足跡があった」
「獣……か」
「でかい。犬じゃない。ただのオオカミでもない。見たこともないくらい、巨大な足跡だ」
オレは、完全に黙り込んだ。
「カペー」
エヴァンが、低い、縋るような声で言った。
「お前、知ってるか。あれが何か」
──知っていた。
あの分厚い灰色の毛並みを。
狡猾な黄色い目を。
巨体が擦れて地面が低く軋む、あの絶望的な音を。
エヴァンが、オレの絶望に染まった顔を見た。
それ以上は、何も聞かなかった。
◇
夜が深くなった。
部屋に戻っても、まったく眠れなかった。
エヴァンの怯えた顔が頭から離れなかった。
でかい足跡。犬じゃない。ただのオオカミじゃない。
「知ってる。あれが何か、オレは誰よりも知ってる」
オレは粗末なベッドに座ったまま、窓の外を見た。
「何とかしなきゃ」
理性的にはそう思った。
でも、本能がそれを笑った。
「何とかって、オレが?」
『逃げるが吉』という無能スキルのオレが。
後方をあっさりと崩壊させたオレが。
親友の雄大にすら見捨てられた、ただの一般人のオレが。
「でも、さ」
追放されて、一人で森を抜けて、生き倒れて、カルネに流れ着いた。
カペーになって、子供たちと井戸に祈って、ドワンの話を聞いて、エヴァンとシオンが慕ってきた。
ずっと、逃げていた。
逃げながら、生きて、ここまで来たのだ。
「これでも、オレは異邦人の端くれだろ」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
嘘だと、自分で分かってしまったから、驚いた。
「第一隊で、オレは一番後ろからずっと彼らの動きを見ていた」
玲の神速の剣を見ていた。
剛の鉄壁の盾を見ていた。
蹴鞠の軽やかな蹴りを見ていた。
プロゲーマーたちの完璧な戦い方を、ずっと一番特等席で見ていた。
だから、何?
「そういうことにしとけって」
戦術の知識だけは、頭の中に確実に入っていた。
でも、違う。そっちじゃない。
オレの本質は、結局、雄大と同じだ。
「はぁ……。分かったよ。こういえば満足か、オレ?」
逃げるが吉。後退士なオレを納得させる言葉が必要だった。
荷物の底から、革の鞘に入った短剣を取り出して、自嘲気味に笑う。
召喚された日に異邦人ギルドで支給された、一番安物の短剣にも聞いてもらう。
手に持った。
ひどく重かった。
でも──
「オレだってさ。異世界楽しみたいんだよっ!」
エラの無邪気な顔が浮かんだ。
ガウの顔が浮かんだ。
ルンの顔が浮かんだ。
カペー、カペー、カペーと呼ぶ声が、頭の中で何度も響いた。
「皆を安心させたいんじゃない。 アイツらは異世界ライフを楽しんでたんだ。 だったら、オレにもくれよ」
追い払うだけでいい。
村まで群れが下りてくる前に、森の境界で追い払うだけでいい。
「エゴってなんぼの異世界だろ?」
オレは、短剣を腰に固く差した。
部屋の扉を開けた。
エヴァンが巨大な足跡を見つけたという、東の畑の方へ。
畑の境界の端まで来た。
真っ暗な森が、目の前に迫っていた。
「捻じ曲げてくれ。 オレののんのん異世界ライフの為に」
深く、深呼吸をした。
潮の匂いがした。肥えた土の匂いがした。
でもその奥に、明確な別の匂いが混じっていた。
獣の、生臭い匂いだった。
目の前の深い茂みが、バサッと揺れた。
濃い夜靄の中から、あの濁った黄色い目が次々と現れた。
三頭の巨大狼。
分厚い灰色の毛並みが、冷たい月明かりにヌラリと浮かび上がる。
「スヴァントウルフが何の用だよ」
オレは、腰の短剣を震える手で抜いた。
情けないほど手が震えていた。
でも、足は不思議と動いた。
「こっち……来いよ」
オレの声は、思ったよりずっと低く、落ち着いていた。
スヴァントウルフたちが、一斉にオレを視認した。
残酷な黄色い目が、オレの全身を値踏みするように舐め回す。
三秒。
スヴァントウルフたちが、一斉に動いた。
だが、オレの目論見は余裕で外れる。
放った牽制の斬撃を完全に無視して、オレの横を風のようにすり抜けた。
「は?」
弾かれたように振り返った。
スヴァントウルフたちは、オレに一切の目もくれず、真っ直ぐに村の居住区に向かった。
「いや、ちょっと待てって!」
スヴァントウルフは、オレなんかを見ていなかった。
『逃げるが吉』という無害なスキルしか持たないオレのことなど、最初から一切眼中になかったのだ。
狙いは──
「オレじゃなく、村そのもの……」
遠くの居住区から、悲鳴に近い声がした。
「カペーは!?」
「カペー様はどこだ!?」
エヴァンたちの声だった。
ドワンの声だった。
オレは絶望的な気持ちで村を見つめた。
暗闇の中で影が激しく動いていた。
松明の火が乱用して揺れていた。
パニックになった声が飛び交っていた。
オレの足が、無意識に動いた。
村へ戻るためじゃない。恐怖で、後ろに。
一歩、後退した。
——カチッ。




