第26話 なんでもないことでも、ありがたい。
気づけば、森を抜けてから二か月が経っていた。
最初の頃は、南の空に見えるあの山の頂上を何度も不安げに眺めていた。
どこかで、仲間たちが上げた狼煙の煙が見えた気もする。
けれど、もう忘れることにした。
季節が、少しずつ変わっていた。
朝晩が冷え込むようになり、海からの風が一段と強くなってきた。
それでも、カルネの村に降り注ぐ日差しはまだ十分に温かかった。
オレはドワンの家のすぐ隣に、小さな空き部屋を借りていた。
大した部屋じゃなかった。
粗末なベッドと小卓と、海が見える小さな窓があるだけ。
でも、オレにとっては、それで十分だった。
朝は決まって、子供たちがやって来た。
「カペー」「カペー」「カペー」
エラ、ルン、ガウの三人が、順番に元気な声で呼ぶ。
三人の柔らかな髪には、朝日に透けると少しだけ赤みが入って見える。
この村の人間特有の、どこか遠い北国の民を思わせる不思議で綺麗な色だった。
「起きてる」
「起きてた!」
「もう起きてたー!」
ガウが悔しそうな顔をした。
寝坊しているオレを叩き起こすのが、彼らの毎日の密かな楽しみだったらしい。
「カペー、今日も井戸に祈る?」
エラがオレの手を引いた。
「おう。行こうぜ」
四人で、共同井戸へ向かった。
苔むした石の縁に向かって、静かに手を合わせた。
水をありがとうございます。今日もよろしくお願いします。
心の中で呟く言葉は、それだけだった。
隣ではルンが、小さな両手を組んでひどく真剣な顔で祈っていた。
何をそんなに祈っているのか、聞いたことはない。
聞かなくてもいいような気がした。
そもそも、地母神信仰というのが、オレにとって余りにも分かりやすかった。
午前中になると、青年のエヴァンがやって来る。
突然現れた、地母神エレインの恐らくは「垢」の栽培で忙しいのだろう。
彼は畑仕事の合間に、オレの部屋に顔を出す。
「カペー、昨日寝る前に考えたんだけど」
「なに」
「土を休ませる時期を作れって言ったじゃないか。じゃあ、休ませてる間、その土地で何か別のことができないかなって」
「何かって」
「例えば、家畜を放して運動させるとか」
オレは少し考えた。
「家畜の糞が、そのまま土の肥料になるな」
「だろ?」
エヴァンが嬉しそうに前のめりになった。
「それ、昨日ドワンの爺さんに言ったらさ、昔そういうことをやっていた古老の話があるって言うんだよ。ただ忘れられてたんだ、そのやり方が」
素地がいくらでもある。
オレは首を傾げた。
「そんな大事なことが、忘れられてたのか」
「そういうもんだろ、昔の知恵って」
エヴァンが、日焼けした顔でカラリと笑った。
屈託のない、いい笑い方だった。
(こいつらって、本当に賢いな)
オレは彼らと話すたびにそう思った。
現代の知識の総量では、当然オレの方が多い。
でもエヴァンは、オレが少しの『考え方』を渡すだけで、オレよりもずっと速く、この土地に合った正確な答えに辿り着くのだ。
その度に、頭を揺さぶられる。
現代人は頭を使っていない。
ミッションとかいうのもなんか違う。
フィニス王国政府が用意したモノを、オレたちは鵜呑みにしていただけ、なんてちょっと思ったりする。
「カペーの元いた場所でも、そういうことやってたのか?」
「まあな。大昔の話だけど」
「どんなとこだよ、その場所って」
「その場所……すごく遠いとこだ」
エヴァンが、オレの目をじっと見た。
それ以上は、深く聞いてこなかった。
いつもそうだ。
踏み込んでいい心の領域と、そうじゃない領域の境界線を、なんとなく肌で知っている。
それから新キャラ登場。
昼過ぎになると、今度は不思議な雰囲気を持つ少女、シオンが来ることが多い。
シオンは、透き通るような白い肌をした、どこまでも素朴な少女だ。
長く伸ばした色素の薄い髪が、いつも柔らかな潮風に揺れている。
来ると言っても、何をするわけでもなかった。
オレの隣にちょこんと座って、一緒に海を眺めているだけだ。
「カペー」
「なに」
「今日、精霊たちの声がすごく賑やかだった」
「そう……なのか」
「カペーには聞こえる?」
オレは、窓から青い海を見た。
一定のリズムで波の音がした。
風が草を揺らす音がした。遠くの空で、白い鳥が鳴いていた。
「いつもと同じだな」
「そう?」
シオンが、海を見たまま静かに言った。
「でも、カペーの周り、いつもすごく賑やかだよ」
「は……オレの周りが?」
「うん。精霊がいっぱい寄ってくる。カペーが気づいてないだけでね」
オレには、まったく見えなかったし、わからなかった。
でも──何となく分かる。
八百万の神様みたいなもの。
彼女の言葉を否定する気には、到底なれなかった。
「シオンには、その精霊が何に見えてるんだ」
「目で見えるんじゃなくて、肌で感じるの」
シオンが、ふわっと柔らかく笑った。
「光みたいな感じ。カペーの周りはね、特にポカポカして温かいんだよ」
オレは照れくさくて、気の利いた返事に困ってしまった。
でもシオンは、それでいいらしかった。
また二人で並んで、黙って海を見た。
一応言っておこう。シオンは可愛い。
ただ、それ以上にオレは、メタ読みで忙しかった。
黙って海を眺めている間も、オレの高速メタGPUは演算をし続ける。
(フィニス王国……。帝国はドミナス教で、フィニスはエレイン教。 それくらいちゃんと教えろ)
異邦人に関係のない話と言えばそれまでだし、宗教戦争と言われたら引かれるから、と言われても納得は出来る。
それでも、信仰を知っていれば、人々ともっと繋がれた。
そしたら、イネスもあんな風に急き立てられることもなかっただろう。
◇
その日の夕方。
エヴァンとシオンとオレの三人で、海辺に座っていた。
特に何をするわけでもなかった。
エヴァンが足元の平たい石を拾って、海に向かって力強く投げた。
水面で三回、綺麗に跳ねた。
ここにはノンノン日和がこんなにある。
「カペー」
「なに」
「最近、この村にやって来る人間が増えただろ」
「ん……そうなのか?」
ただ、そういうのも全部、幻想だったりもする。
「だー、知らないのかよ。 ドワン様はカペーを甘やかしすぎだ。中には、結構ひどい状態で来る奴もいる」
「ひどいって、どういう意味だ?」
「ガリガリに痩せてたり、顔色が土気色だったり」
オレは海を見たまま、小さく息を呑んだ。
無政府状態はここだけではない。
この村は海に面していたり、大陸の端だからまだマシなのだ。
「オレに何か出来ることあるのかな」
「その前に説明する」
そして、シオンから話を聞いた。
ヴァルシア王国は森ばかりの国。
かろうじて空いたスペースに小さな集落がある。
そして、近くの寂れた集落から人間が流れてくる。
その中に、明らかに慢性的な栄養失調の顔をした者もいる。
子供も、大人も。
「で、だ。何かできることがあればな、と思うんだけど」
エヴァンが、もう一つ手頃な石を拾った。
「前も言ったろ。オレは逃げる専門だ。剣も魔法も使えないオレにできることなんて──」
何も出来ないとちゃんと言える。
なんて素晴らしい環境にいるのだろうか。
言えていたら……
「何かないのか?」
「何かって。その」
(もっとちゃんとした知識とか、強い力とか持ってれば。例えば──)
「薬師の知識とかアレば……」
無意識に、呟いていた。
エヴァンが不思議そうに振り返った。
「薬だって?」
「口に出てた。 だって、定番だろ。 薬で怪我や病気を治せなくて、みんなが死んでいく。 そこに颯爽と登場して、あれやこれやと……って、オレは持ってないからね? き、期待するなよ。 フリじゃなくて、本当に……」
「カペー?」
シオンが、横から静かに遮った。
ふわっとした、でもどこか芯のある声だった。
「それ、もうカペーがやってるよ」
「は?」
オレは立ち上がったシオンを見上げた。
シオンは、夕暮れの海を見たまま続けた。
「カペーがもうやってる。だからみんな、この村に集まってるの」
「何を言ってるんだ? あれか? 誤訳か? オレはぁ、農業のノ、くらいしか話せてな──」
「ん? 違うよね。エヴァン」
シオンは長い金色の髪を振り、幼馴染へと視線を流した。
エヴァンも、そこはすんなりと頷いた。
「カルネの村に来る人たちね、来る前よりずっと顔色が良くなるんだよ。みんな」
「そうだな。畑の使い方が良くなって、エレイン様のアカを食べられるようになって、その為に家畜を殺さなくてもよくなって、冬の保存食も増えた」
オレは、言葉を失って二人の間に視線を泳がせた。
やはり誤訳か。なんて考えた。
「お腹いっぱい食べて、いっぱい寝たら、病気なんて吹き飛ぶよ」
「だな。 それが出来ないから、流行り病に罹るんだ」
ここで漸く、オレの脳内パズルが当てはまる。
薬学は間違いなく、多くの人間を救う。
「その前段階か。 これも現代病だな」
人を救う最初のステップは、薬じゃなかった。
日々の食事だった。
温かい睡眠。そして、井戸に手を合わせる清潔さ。
「だから、カペーのこと。みんな感謝してる」
「普通に食べて、普通に清潔にして、普通に寝る……か」
オレは、ぽつりと呟いた。
だが、そうなると奇妙な点が浮かんでくる。
「これだけで、十分平和なん……だけど」
エヴァンが、手の中の石を軽く弄った。
一体、いくつの石が海にダイブしたことだろう。
シオンも、何やらむず痒そうにしている。
「その当たり前のことが、当たり前にできていなかった。それは分かった。でも、そもそもカルネには素養があったんだ」
オレは何もしていない。
オレの特性は逃げること。
それも、変わらない。
「精霊たちも喜んでる」
「んで……?」
「優しくて温かい場所には、精霊も自然に集まる」
「じゃなくて!」
エヴァンが、思い切り石を投げた。
今度は水面で四回跳ねた。
「石も犠牲にしなくていいから!」
「えー、なんだよ」
「何が言いたいんだ。 そういう話だっただろ」
異邦人の仲間たちには、オレは結局何もできなかった。
ただ、アイツらはアイツらだけで、何でもできた。
そして、オレには何もできない。
「何でもするって言ったんだろ」
「何でもできないって、二人には言ってきたつもりだぞ」
「カペーは祈ってる。 私も精霊様に祈ってる。だから」
この良く分からない会合の正体。
それは
「俺を──」
「私を──」
カペーと名を変える前、そういえばそんな設定もあった。
速水駆と言えば、
「パーカー修道会に入れてください」
そう。
最初に話した大人の女がそんなことを言っていた。
このフード付きのパーカー。
合成繊維たっぷりに、オレは答えた。
「は?」




