第23話 夜の森を逃げるが吉
オレの頭は真っ白だった。
親友の言葉に揺さぶられ過ぎて、何も考えられなくなっていた。
「早くしろ」
イネスが、オレの前に歩み出た。
周囲に民の目が届かない真夜中の呼び出しは、騎士団長としての彼女なりの最後の優しさだったのかもしれない。
「今から国を出ろ。街道は使うな」
そして、森を抜けろ、と。
いや、優しさなんてなかった。
そもそも真夜中の森は、あの勇者たちでさえ避けていたことだ。
しかも、あの理不尽な巨狼、スヴァントウルフが巣食う森だ。
「……」
異邦人館の個室に戻り、少ない荷物をまとめさせてもらった。
大した荷物じゃなかった。
召喚された時の服と背伸びをして買ったリュック。
それと、支給された短剣くらいだ。
「必ず森を抜けろ。戻ることは許さぬ。戻れば……分かっているな」
「分かってます……たぶん」
オレは絶望的な追放の意味を理解した。
魔物が巣食う森に、戦う術を持たない人間がたった一人で投げ出される。
これだって、立派な処刑だ。
勇者として国民の前に出した以上、間違っていました、処刑しますはありえない。
密かに殺すにしたって、死体は残る。
森で死にました、死体は狼が持って帰りました。
これほど都合の良い処分はない。
でも、あの場で首を刎ねられるよりは、遥かにマシだった。
やがて、国をぐるりと囲む城壁の北の門を抜け、森の入り口まで辿り着いた。
木々の間には、深く濃い靄が溜まっていた。
あの絶望的な魔獣が潜む森。あの時と、まったく同じ靄だった。
「逃げるが吉、か」
◇
北の城門が閉まった。
重い城門の扉が開く直前、オレは一度だけ振り返った。
雄大が、数日ぶりにオレの顔を見た。
ほんの一瞬だった。
その震える目に、どんな感情が浮かんでいたのかはわからなかった。
すぐに逸らされてしまったから。
ズゥン、と。
石と巨大な鉄が噛み合う、鈍くて重い絶望の音だった。
オレはしばらく、その音が完全に消えるのを待った。
やがて、消えた。
「……」
目の前には、ただ暗い北の森が広がっていた。
朝靄が木々の間に濃く溜まっていて、五十メートル先すらまともに見通せない。
昨日とまったく同じ靄だった。
昨日は、第一隊の四人で、チートスキル持ち勇者に囲まれた安全そうな森だった。
だが今は、たった一人だ。
何か言おうと思った。
でも、喉の奥からは何も出てこなかった。
ゆっくりと、一歩を踏み出した。
硬い石畳が終わって、柔らかい土の感触に変わる。
この辺りはまだ、城門の篝火で視界が利く。
だが、先は暗闇。
湿った落ち葉が深く積もっていた。
踏み込むたびに、カサッ、カサッと孤独な音がした。
十歩。二十歩。
振り返ると、王都の城門はすでに木々と靄の向こうに完全に消えていた。
流石はノワルヴァルト。瞬間だった。
そして、見えなくなった途端
「……コミケでパーカーを見た?」
ポツリと、声が出た。
紛れもない、オレ自身の乾いた声だった。
「いやいやいやいや。待って待って待って」
歩みを止める。
「この中世ファンタジーな国に、合成繊維のパーカー着てる奴いる? いる? いないよな? 絶対にいるわけないよな?」
鬱蒼とした木々は、何も答えてくれなかった。
「帝国様はご丁寧にも同人イベントのノベルティグッズまで作って持ってるんですかね! どこのサークルのグッズですか! コミケで売ってたんですか! それとも会場限定の非売品ですか!」
闇に向かって叫んだ。
オレの声が、深い森の空気にただ虚しく吸い込まれていく。
「知らないでござる、じゃねぇんだよ! 中学からの付き合いだろ! 教室の隅でアニメの話を何百時間したと思ってんだよ! 去年の夏コミで迷子になったのどっちだよ! オレだよ! お前が壊滅的に地図読めないせいだろ!」
近くにあった太い木の幹を、思い切り蹴り飛ばした。
ひどく痛かった。
「いったぁ……」
痺れる足を押さえて、その場にしゃがみ込む。
そのまま、冷たい落ち葉の上にへたり込んだ。
「パーカー男なんて、ゴロゴロいるし……って」
膝を抱えて、独り言のように呟いた。
「ゴロゴロいるかよ。この世界に何人いるんだよ。オレ一人だろ。オレしかいないだろ……」
森には風の音しか聞こえない。
誰も答えてはくれなかった。
「……」
座ってても仕方ないので、ゆっくりと立ち上がった。
進んでいるのは、北だった。
なんとなく、北の森の奥へ向かって歩いていた。
二か月くらい、第一隊の最後尾で毎日動き回っていた道だ。
見知った木々の配置。見知った獣道。
頭で考えるよりも先に、足が勝手に安全なルートを覚えていた。
歩きながら、また口が勝手に動いた。
「スキルを偽り──って、女王陛下。『逃げるが吉』ですって正直に言ったじゃないですか。初日から隠してたのはそうだけど、ちゃんと聞かれたから答えたじゃないですか」
姿なき誰かに向かって、ぶつぶつと言い訳を続ける。
「作戦を妨げ──妨げてないし! 恐怖で動けなかっただけだし! あの背後に回ってきた後方の二頭、どう考えても速度がおかしかったし!」
歩きながら、両手が大袈裟に動いた。
「身元の証明もできない──できないのはそうだけど! そもそも召喚の記録が伝承のみってどういうことですか! あの老宰相バルドさん、十年間も引きこもって一体何を調べてたんですか!」
怒りに任せて、足取りがどんどん速くなっていた。
「帝国様はノベルティグッズをボーナスで買っただけじゃなくて、わざわざ弱そうな密偵まで送り込んでるんですか! 至れり尽くせりですね! さすが世界中を支配しようと名乗るだけのことはありますね!」
声が、次第に大きくなっていた。
「イネスさんは悪くない。女王陛下も悪くない。バルドさんも悪くない。……栞さんも」
ピタリと、足が止まった。
「……栞さんも、悪くない」
木々の間を、冷たい風が通り抜けた。
「舞殿! 舞殿! ……って、そんなにギャルが好きか? オタクに優しいギャルが……オレも好きだっ!」
空に向かって呟いた。
風が止んだ。
「知ってたくせに」
それだけ言った。
それ以上の言葉は、もうオレの中からは出てこなかった。
その時。
すぐ傍の深い茂みが、バサッと大きく揺れた。
低く、地を這うような重い唸り音がした。
地面が、微かに軋むような感触が足元に伝わってくる。
オレはゆっくりと振り返った。
濃い靄の中から、濁った黄色い目が二つ、こちらをじっと見据えていた。
スヴァントウルフだった。
肩までの高さが、オレの頭あたりまである巨大な変異狼。
分厚い灰色の毛並みが、朝靄の中で不気味に揺れている。
一秒。二秒。三秒。
オレと巨狼は、完全に目が合ったまま見つめ合った。
「ヤベぇ!」
オレは、弾かれたように走り出した。
なんで走ったかって? 決まってる!
オレ、ずっと言ってたよな! オレの本能が逃げろって叫んでるって!
前に感じた、あの夢の中のような感覚はなかった。
思うように足が出て、思うように走れた。
「俺は、後退士! 逃げるが吉なんだよっ!」
脱兎のように逃げる。
狂ったように闇を抜ける。
抜けても抜けても闇だから、その闇も抜ける。
つまりこれが、おみくじの効果!
かも、しれない……
かなりの距離を走ったが、あのスヴァントウルフから逃げられるとは思わなかった。
──『逃げるが吉』。
それでもまだ止まらない。
オレの体がかつてない軽さで駆け抜けていた。
「……ってか。どこに行けばいいんだよ。森の先って魔物が跋扈するって」
どのくらい走ったか、もうわからなかった。
息が切れて肺が焼け焦げそうになっても、走った。
疲労で足がもつれても、転んで、起きて、また走った。
落ち葉を踏み散らし、棘のある枝を避け、斜面を駆け上がっては駆け下りた。
どこかで、背後を追ってくるあの重い足音が消えていた。
振り切ったのか、それとも別の魔物の縄張りに入ったから巨狼が諦めたのか。
オレはそれに気づかなかった。
いや、もし気づいていたとしても、止まることなんてできなかった。
ただひたすらに、森の奥深くへと走り続けた。
「ひ……死ぬ」
どれくらい走っただろうか。
途中で転びはしたが、殆ど止まらずに走った。
自分でも驚くほどの長さを、ある程度の速度を保ったまま走り抜けていた。
そして気づいたら、冷たい地面に倒れ伏していた。
湿った土の匂いがした。
カサカサの落ち葉が、汗まみれの顔にべったりと張り付いている。
重い瞼を少しだけ開けると、木々の隙間から空が見えた。
僅かな木漏れ日を感じる時間になっていた。
(晴れてる)
ぼんやりとした頭で、ただそれだけを思った。
限界を迎えた全身の熱が、冷たい土へと急速に吸い込まれていく。
オレの意識は、ゆっくりと暗い泥の底へ沈み込み始めていた。
その薄れゆくまどろみの中で、オレはあの日を思い出していた。
断片的な記憶が、走馬灯のように脳裏をよぎる。
◇
王城の大広間。
渡された、一枚の羊皮紙。
そこには、複雑な幾何学模様の魔法陣が紙いっぱいに描かれているだけだった。
だが、数秒と経たないうちにその模様が生き物のようにうごめき、溶けるように形を変えていく。
やがて、見慣れたゲームのステータス画面を思わせる、名前とスキルの欄が現れた。
「『切り裂くが吉』、ソードマスターだ!」
「『突き返すが吉』、タンカー」
「『読み解くが吉』、ソーサラー」
「『囀るが吉』……バード。ボク、歌えるのかな」
「『踊るが吉』、踊り子! 踊り子って響きよくない?」
「『跳ねるが吉』、モンク。……わたくし、格闘系ですわね」
「『清く守るが吉』、ナイト」
「『清く叩くが吉』、クレリック。叩く、か……」
「『唱えるが吉』、魔法使い! やった! 僕、魔法使いになれる!」
「わかったから声量下げろ」
「『祈るが吉』、ヒーラーです」
「『突き刺すが吉』、アタッカー」
玲が真っ先に声を張り上げ、それに続くように次々と自分のジョブとスキルが読み上げられた。
広間のあちこちで「ソードマスターって強そう」「魔法使い羨ましい」「タンカーって盾役?」と、ゲーマーとオタクたちの楽しげなざわめきが広がっていった。
それは希望に満ちた、新しいゲームの始まりの光景だった。
そんな中、オレは手の中の羊皮紙を見た。
【逃げるが吉 Lv.1 後退士】
最初に出たのはツッコみ。
「いや、吉ってなんだよ! おみくじか!」
「おみくじでもいいじゃんー」
「翻訳MODが古いんだろ。で、お前は?」
舞が能天気に笑い、玲が呆れたように尋ねてくる。
「オレは逃げるが吉。悪いけど、オレは勇者をやめるぞ」
なんてオレの口が言ったところで、これが夢だと気付いた。
もしもあの時、本当のことを言っていたら、みんなは笑って許してくれたのだろうか。
女王ルシアも、宰相バルドも笑ってくれただろうか。
騎士団長のイネスは……、いや。
国民の血税を簒奪していたんだ。
オレは異邦人館に連れていかれることもなく……
「国宝を使って呼び出されたクソスキル。 その場合のオレはどうなっていたんだろ……」




