第20話 ファンタジーな世界と現実と
城壁の上は、いつも風が強い。
イネスは冷たい石の欄干に手をついて、眼下に広がる王都を見下ろしていた。
隣には、珍しく女王ルシアが立っていた。
二人とも、同じ方向をじっと見つめている。
王都の外縁をぐるりと囲む、険しい『カルディス山脈』。
あの切り立った山々が、今はかろうじてフィニス王国を守っている。
帝国の強大な手が直接届かないのは、あの天然の城壁があるからだ。
険しく、狭く、大軍が通るには不向きな地形。
小さなこの国が長く生き延びてきた理由の、最後の一つだった。
目を転じて、城塞の西側。
そこには、どこまでも続く青い海が広がっている。
だが、そこは決して豊かな恵みの海ではない。
沖合には、帆船を丸ごと一呑みにするほど巨大な海洋魔生物がうようよと生息している。
屈強な海の男たちでさえ、海岸沿いの浅瀬で細々と小魚を獲ることしかできない。
当然、海路を使って他国へ逃げ出すことも、他国から物資を輸入することも不可能だった。
そしてカルディス山脈を越えれば、またしても広大な森林地帯が広がっている。
深く、暗く、強力な魔物が潜む森だ。
その森を抜けた先に、さらに巨大な山脈と谷が待ち構えている。
切り立った崖と、細い山道と、容赦なく吹き付ける強風。
それを全部越えて、やっと帝国の端に触れることができる。
遥か遠い。
そして、
この国にはもう、逃げ場などどこにも残されていない。
古の禁忌の術を使った。
国宝である魔法水晶を失った。
国庫を完全に空にした。
冬を越すための食料備蓄を削り、民に血を吐くような重税を課した。
老宰相バルドが十年かけて探し出した召喚の術で、異邦人を呼び出した。
現れたのは十二人の異邦人。
彼らは今、王都近郊の異邦人館で、温かい食事をしている。
イネスは、石の欄干を握る手にギリッと力を込めた。
民の顔が、変わり始めている。
最初は、純粋な期待だった。
異人が来た。伝説の勇者が来た。これで帝国を退けられる。
そういう希望の目だった。
でも数日が経ち、成果の上がらない膠着状態が続く中で、その目に少しずつ黒い影が差し始めている。
不安だ。
イネスには痛いほどわかる。
騎士団長として、毎日王都を見回り、民の顔を見ているからだ。
純粋な期待が、どろりとした不安と不信に変わる瞬間を、肌で感じ取っているからだ。
「焦らせてごめんなさい」
ルシアが、静かに口を開いた。
イネスはハッとして女王の方を見た。
ルシアは王都を見たまま、その真っ直ぐな瞳が、遠くの暗い山を映している。
王族としての豪奢な装飾もなく、ただ真っ直ぐに、過酷な現実の前を見据えていた。
この人は、いつもそうだ。とイネスは思った。
謝る時も、耐える時も、迷う時も、絶対に逃げずに真っ直ぐ前を見ている。
だから民がついてくる。
だから、あの地獄のような重税に耐えられる。
この人が女王だから、まだこの王国が王国でいられるのだ。
イネスは欄干から手を離し、深く頭を下げた。
「すべては、私の指導不足です」
言葉は短かった。それだけで十分だった。
顔を上げて、イネスは踵を返した。
城壁を下りる暗い石段に向かいながら、一度だけ深く、冷たい空気を肺に吸い込む。
「陛下にあんなお顔は似合わない」
馬を走らせて、異邦人の館に向かう。
異邦人館の食堂は、いつもと変わらない風景に見えた。
三つの隊が同じ空間で食事をしている。
くだらない声が飛び交っている。
緊張感もなく笑っている者すらいる。
彼らが生きて馴染み始めている証拠だ。悪い光景じゃない。
イネスは入り口に立った一瞬だけ、そう思った。
思った、のに。
ポロッと、白いパンが皿から落ちた。
速水駆という青年が、手からパンを滑り落とした。
ただ、それだけのことだった。
たぶん、平和な世界から来た本人にとっては、何でもないただの日常のワンシーンだったのだろう。
だが、イネスの中で、何かが決定的に音を立てて千切れた。
「貴様らに命令だ。——三日以内に、山頂から狼煙を上げろ」
氷のように冷たい声で、先ずはソレを言い放った。
そして、一切の弁明を聞かずに踵を返した。
扉のところで立ち止まり、こう付け加えた。
「そのパンに、どれだけの希望が託されていると思っている」
そして、食堂の扉が、静かに閉まった。
誰も、何も言えなかった。
風の音だけが、開いた窓の外から虚しく聞こえていた。
◇
三秒。四秒、五秒。
「怖っ! ちょっとパン落としたくらいいいじゃんねー!」
場の張り詰めた空気を読まない、というより、すべて読んだ上で強引に割ったような、真っ直ぐで底抜けに明るい声だった。
その声に救われ、何人かの肩から強張った力が抜けた。
オレも抜けた。抜けかけた。
だが、その瞬間。
「それは違いますよ、舞ちゃん」
文科系女子、美咲だった。
いつもの柔らかく優しい声だった。
けれど、今は明確に違う、ひどくシビアな温度が混じっていた。
舞が不思議そうに首を傾げる。
「え、何が? 美咲?」
美咲は、オレの足元に落ちて、拾い上げた白いパンを見た。
それからゆっくりと、食堂にいる全員を見回した。
「もっと考えるべきだった。……私たちの認識が、迂闊でした」
静かで、重い声だった。
だが、それでもオレたちはピンと来ていない。
「ずっと思ってたんです。ここって中世かなって」
「ファンタジーと言えば、中世。中世と言えばファンタジーだからね」
すると、ずっと喋らなかった奏が言った。
恐らく多分、いやきっと絶対。全員が思っていたこと。
特にゲームオタクや、アニメオタクなんかは。
だから、頭から抜け落ちていた。
「中世であれば、おそらく。農業革命が起きていません……」
「のうぎょう……かくめい……?」
「うーむ。 言われてみればぁぁ、その」
「言われなくても、です。どうして、何も考えなかったんでしょう……」
美咲の悔いたような表情。
完全な沈黙が落ちた。
オレの頭の中で、バラバラだったパズルのピースがカチリと噛み合い始めた。
農業革命が起きていない。
トラクターも化学肥料もない、機械化されていない原始的な農業。
すべて人の手だけで土を耕して、種を撒いて、天候に怯えながら育てて、手作業で刈り取る。
現代日本とは、一つの農地から得られる収穫量が根本的に違う。
国全体が抱える食料の絶対量が、絶望的に違うのだ。
この上等な白いパン一つの重さが、オレたちの常識とはまったく違う。
前に銀貨は日本円でいくらか、なんて計算したけれど、そんなの愚問でしかなかった。
食べるモノがなければ、銀貨なんて価値がない。
「あー、もう! こーゆー重い話は、頭のいいゲーマーに任せましょ! はい、解散、解散!」
舞が、わざとらしく明るい声を上げて立ち上がった。
第二隊「暁光の槍」のメンバーたちが、やれやれと苦笑いしながら立ち上がる。
第三隊「銀弦の星」の面々も同じだった。
でも、それは敢えてではない。
三日もあれば余裕でしょ、という顔だった。
確かな結果を出し続けている連中特有の、余裕の顔だった。
オレはそれを見ながら、椅子に座ったまま動けなかった。
そして、オレの近くでもそれは起きた。
向かいの席では、玲も、剛も、立ち上がるのが一拍遅れていた。
(玲も剛も蹴鞠でさえ……。あいつら、完全に余裕じゃねえか)
食堂が少しずつ空いていく。足音が自室へと遠ざかっていく。
オレは、一番最後に立ち上がった。
その時、視線が床に落ちた。
白いパンが、一つ。
オレは一瞬、迷った。
でも、イネスのあの氷のような声が頭の中で蘇った。
これは民が空腹を我慢して、血を吐く思いで納めた税で作られたパン。
オレは落ちたパンを、そっと自分のポケットに突っ込んだ。
誰にも見られていなかった。たぶん。
◇
自室の個室に戻ると、オレは冷たい机の前に座った。
ポケットから、少し潰れた白いパンを出した。
そのまま囓って、食べた。
ひどく美味かった。
「オレのせい……? 断じて違う。 だってゲームみたいだった。 異世界召喚モノみたい……それはあってるんだけどっ!」
先ず浮かんだのは、隣の部屋にいる野郎。
左手の疼きでテンションMAX。踊り子に夢中だった男。
次に奏、そして奏の行動に一喜一憂する女二人。
それから、ゲーム攻略のようにふるまい、戦略をぶつけていた男二人。
栞は栞で、チーム・ドラグノフとの比較でしか、その力を使っていない。
「マジでノイジー! 一人で召喚されたとかなら分かるけど、オレはオレで必死だったんだってっ!」
更に言えば、十二人もいたことだ。
留学先で日本人で集まって、結局母国語をマスターできないアレだ。
美咲が気付かなかったのだって、現地民との交流がなかったからだ。
「伝説の勇者と期待するから、命令もしにくかったのか?……だとしても、だ」
それはそれとして、
オレには真面目に考えなければならないことがある。
イネスの登場はある意味、夕食の雰囲気を凍らせたが、その前からオレは氷漬けにされていた。
逆に言うと、助かったまである。
オレは机の上にこぼれたパンくずを指先で集めながら、頭の中の情報を整理し始めた。
『三日以内に、山頂から狼煙を上げろ』
イネスの言葉だ。国民の期待に応えろという意味だから、絶対の命令だ。
あの巨大な変異狼が、山へ続く唯一の道を完全に塞いでいるのだ。
巨大狼は北と東と南に同時に出現した。
複数いると考えるべきで、それを束ねているヌシがいるというのが、食事前までの見立てだった。
どうする。どうやって倒す。
オレは、集めたパンくずを机の上に並べ始めた。
何となくだ。
戦術陣形のつもりなのか、ただの思考の整理のつもりなのか、自分でもよくわからなかった。
「玲は切り裂くが吉レベル2。単体への瞬間火力は文句なしの最高打点だ。でも、スヴァントウルフは無数の群れを統率している。雑魚が束になって押し寄せてくる。玲の神速の剣はスヴァントウルフには効かない。だから、重めの剣を振る。雑魚を処理しないと……」
パンくずで陣形を考える。
玲のあとは、剛。突き返すが吉レベル2。
蹴鞠も。跳ねるが吉レベル2。
彼女の場合は上も使えるから、歪な形のパンくずを選んだ。
「スヴァントウルフが複数現れたら、オレたち……オレは戦わないけど、黒焔の剣の戦力じゃ、足りない」
じゃあ暁光、第二隊は。
誠司の『守るが吉』、美咲の『叩くが吉』、雄大の『唱えるが吉』、舞の『踊るが吉』。
それなら銀弦、第三隊は。
栞の『読み解くが吉』、日向の『祈るが吉』、凛の『突き刺すが吉』、奏の『囀るが吉』。
一部はレベル3まで上がっている。
だからこそ余裕……
「あれ? 三日以内に、山頂から狼煙。 山頂……そうか」
オレの指先で、パンくずが机の上に十二個、綺麗に並んだ。
じわじわと、頭の中で散らばっていた点と点が組み合わさっていく感覚があった。
スヴァントウルフは群れを統率して戦う。
単体では絶対に無理だ。一つのパーティだけでも無理だ。
連携の取れていない二つのパーティだけでも、まだ足りないかもしれない。
そして何より──
「どこの山頂かは指定がない! 十二人全員で突破! オレ、天才かもしれない!」
今までにない、完全に新しいアプローチ。
三つの隊の合同作戦。
十二人の異邦人全員がかりで、それぞれの役割を噛み合わせてスヴァントウルフの群れを蹂躙する。
シンプルで、完璧で、これしか道はない。
オレは興奮したまま、机に突っ伏した。
「もっと寝るぞ。 えっと、前衛は──」
そこから先は覚えてない。多分、寝た。
◇
朝が来た。首が死ぬほど痛かった。
机の上の十二個のパンくずが、そのまま残っていた。
オレの寝顔の真横に、戦列を組んだように几帳面に並んだまま残っていた。
食堂に行くと、蹴鞠が一目でオレの顔を見て、ティーカップをカチャリと置いた。
「駆。顔を洗ってきなさいな」
「え、あ、はい」
慌てて洗面所へ走り、冷たい水で顔を洗った。
鏡がなかったから、何がついていたのか、ちゃんと取れたかどうかわからなかった。
まあいいか、と思って食堂に戻った。
オレ以外の十一人が、一斉にオレを見ていた。
何かひどく言いたそうな、生暖かい顔で。
でも、誰も何も言わなかった。
オレはそそくさと自分の席に着いた。




