第17話 炙り出される弱点と、焼き立てのパン
オレの心臓が、早鐘を鳴らす。
全身が逃げろと叫んでいる。
「オレは……」
「後衛士だろっ! 後ろからカバーだ!」
反論の余地はない。
後退士だから逃げたいとか、全身が逃げたがっているとか。
オレは何を言ってる……?
後退士だって、後衛士だって、目の前の仲間を助けるべきだ。
あのスヴァントウルフだって、玲のビームサーベルを受けて、剛のビームシールドに当たって、蹴鞠の直下攻撃を何とか避けただけだ。
「分かっ……た」
後退士が後退しない。逃げるが吉が、前に進む。
どうでもいい。オレだってゲームに参加したいんだ。
だが
重……たい? あれ?
「何をやっている?!」
夢の中でよくある現象だ。あの足が前に進まない感覚だった。
でも、そうじゃないとしたら——
オレの目が、三人の動きを見慣れたせいだったとしたら。
「行ってるって……」
声は出るし、腕も動く。
オレはオレなのだ。
逃げるが吉のレベル1の等身大のオレでしかない。
「クソ。何をちんたら」
巨狼はやはりダメージを受けていたようで、僅かによろめいた。
すると、その隙をカバーするように、周囲の小型魔物が一斉に動き始めた。
完璧に統率された陣形で、四方から同時に群がってくる。
「俺が行く!」
「仕方ない。 俺もだ」
だから、チーム・ドラグノフが動く。
いや、勇者様たちが動いてくれる。
身を翻し、蹴鞠の前に行く。
玲と剛が、壁となって立ち塞がる。
蹴鞠も既に立ち上がって、猛獣たちを迎え討つ。
オレが、あと一歩、いや三歩のところで、だ。
「お前はお前自身を守れ!」
「う……分かった」
短剣を抜き放ち、必死に息を整える。
左の死角から、ラッタンが這い寄ってきた。
オレは身を捩って、短剣の腹でそれを弾き飛ばした。
心はいつだって、こう言っている。
逃げろ、と。
「逃げ……ない。戦うっ」
小型魔物の攻撃を、絶対にオレの命に届かせない。
それが、今のオレに出来る全てだった。
でも、それはオレがいなくても、逃げていたとしても成立することだった。
「蹴鞠、動けるな」
「えぇ」
「あの狼の弱点は、恐らく打撃だ」
「弱点が打撃?」
「蹴鞠の蹴りだけは避けていた」
「俺と剛のビームを油膜の体毛が弾く」
三人で考え、分析し、エリアボスと呼ばれる巨大狼を分析していく。
「そうでした。 でも、わたくしだけでは捉えきれませんわ」
「分かっている。魔獣を操る魔獣だ。厄介に決まっている」
「では、どうすれば」
蹴鞠も同じチームにカウントされている。
「武器を用意する。 俺の切り裂くが吉は何も、この力に限ったわけじゃない」
「俺も同じだ。ラージシールドでも、バックラーでも何でも装備できる」
「そうですわね。三人でかかれば、いけますわ」
オレは、何一つ介入することができない。
分水嶺の在処さえ見えない。
そんな時、スヴァントウルフの方も不自然な動きを見せた。
(あいつにオレは……って、あれ? 襲ってこない……)
「向こうもダメージが入ったな。今の体勢を維持。一定の間隔が空いた後に、撤退する」
今、玲は向こう「も」と言った。
よく見ると、玲も剛も蹴鞠も傷だらけだった。
——即ち、痛み分けだった。
鬱蒼とした森の外へ抜け出したとき、玲が一度だけ短く息を吐いた。
「……釈然としないな」
◇
どうやってギルドに戻ったのか、オレは覚えていない。
意識がハッキリしたのは、他の仲間たちの声を聞いた頃だ。
第二隊「暁光の槍」と第三隊「銀弦の星」も、今日は同じタイミングで帰還していた。
「なんなの……あれ」
南の森を担当した第二隊のメンバーは、一様に顔色が悪かった。
美咲が、支給された貴重なポーションを一本使い切ってしまっている。
舞の肌も青白く、呼吸がひどく荒い。
雄大に至っては「詠唱する間もなかったでござる……」と、虚ろな目で壁際で項垂れていた。
誠司だけが、傷だらけの革鎧を鳴らしながら「なんとか全員無事だ」と静かに報告した。
「待て。もしかしてお前達も」
「その傷。もしかして北も?!」
その一方で、東の森を担当した銀弦の星は、とても静かだった。
栞が、空中に展開したメモを整理しながら、俯いて考え事をしている。
日向と凛が、少しだけ興奮したように顔を見合わせている。
奏はいつも通り、涼しい顔でリュートの弦を指先で弾いていた。
誰一人として、死線を潜り抜けたような消耗した顔をしていない。
「スヴァントウルフが、三か所ともね」
栞が、マップにピンを打ち込みながら言った。
「何……?栞たちも遭遇したのか」
玲が鋭い視線を向ける。
「ええ。すぐに撤退したわ」
「俺たちと同じ判断だな」
「同じではないけどね」
栞が、事もなげにさらりと言った。
「奏が一音だけ鳴らして、ボスの注意を完全に逸らしたの。それで十分な撤退の猶予を作って引いた。こちらの消耗はほぼゼロよ。特徴も、弱点も分かったことだしね」
玲が黙った。
「ちょっと何? ウチたちはもっと大変だったんだから」
「舞、止せ」
「だって。いっぱい魔獣を引きつれてたんだよっ。あんなの聞いてないし。ミッションにも書いてなかったし」
剛も黙った。
オレも、黙るしかなかった。
勿論、それはオレの問題だった。
「わたくしたちもですよ。魔獣が魔獣を操ってたんですの」
玲と剛が押し黙ったのは
「魔獣を連れていたのは、アタシ達も同じよ」
——栞というゲーマーを知っていたからだ。
この流れのまま、夕食の時間。
異邦人館の食堂のテーブルについたとき、オレはある決定的な違いに気がついた。
第三隊「銀弦の星」のテーブルに置かれたパンが、白かったのだ。
真っ白で絹のようにきめ細やかだった。
いつもの硬い、薄茶色のパンじゃない。
使われている小麦の質が明らかに違う。焼き方も違う。
いや、こっちの方が正確かもしれない。
銀弦は食べていたのは、オレたちがかつては知っていたパンだった。
異世界だから仕方ない、硬いパンを食べていた。
「……あれ、なんで」
舞が、自分のパンと白いパンを見比べて小声で呟いた。
「銀弦チームだけか」
剛が無表情のまま、事実だけを口にする。
玲が、向かいのテーブルに座る栞を睨みつけた。
「戦果で言えば、俺たちと大差ないはずだ。スヴァントウルフにはどちらも撤退を選んでいる」
栞は、その上等な白いパンを優雅にちぎりながら、当然のように答えた。
「スヴァントウルフは関係ないわよ」
舞の目が座る。
そして、玲と剛が軽く目を剥く。
「スヴァントウルフの報告は、さっきしたばかりよ」
そう、単純な話ではない。
急いで用意された訳じゃない。
朝から決まっていたのだ。
「単純な討伐数の問題」
掲示板に貼られた数字だ。
でも、その冷徹な正しさが、食堂の空気を決定的に変えてしまった。
唯一の救いはこの二人。
「まあ……そういうもんか」
誠司が、自分に言い聞かせるように呟いた。
美咲もこくりと頷く。
「こういうパンの方が、栄養価が高いし」
「お。そうなのか?」
「江戸患いって聞いたことない? あれと同じ。白パンはビタミンが不足しがち。髪とかお肌とか、色々」
「流石は文系女子だな」
「褒められた気がしないぃ」
十二人で一番普通、一番尖っていない。
それは適応能力が高いと言えるのかもしれない。
玲は何も言わなかった。剛も何も言わなかった。
多分、この二人は聞いていない。
オレは、自分のパンを口に放り込んだ。
薄茶色の、いつものモソモソとしたパンだ。決して不味くはない。
でも、そういう話ではないのだ。
「俺たちは負けていない……」
誰かが見ている。
オレは確信した。
このパンの質の変化は、単なる偶然なんかじゃない。
誰かがオレたち三つのパーティの働きを正確に評価し、容赦なく序列をつけ、それを毎日の食事という形で明確に反映させたのだ。
イネスか。老宰相のバルドか。それとも、女王ルシアか。
今日のことは明日以降に反映される。
第一隊「黒焔の剣」は、今日スヴァントウルフに苦戦を強いられ、損害を出しそうになって撤退した。
第三隊「銀弦の星」は、最小の消耗で完璧な撤退を完了させた。
その明確な戦術レベルの差が、これから如実に現れる——かもしれない。
オレは、口の中の硬いパンを無理やり飲み込んだ。
戦う力を持たない後退士が、最も武闘派であるはずの第一隊に混じっている。
その事実が、今夜は胃の奥で鉛のように重くのしかかっていた。
◇
栞は、空中に展開していたメモウィンドウをパチンと閉じた。
第一隊の連中が、あの森でどんな無様な戦いをしたのか。
そんなこと、栞には知る由もなかった。
興味もないまま、頭の中の計算式だけを処理してギルドへの道を歩いていた。
だから、夕食のテーブルに白いパンが出されたときも、栞は特に何も思わなかった。
自分たちのパーティが最も効率的な成果を上げているのだから、当然の評価だと思っただけだ。
「アタシはただ、普通に最適解を出しただけなんだけど」
栞は、東の森での出来事を脳内でリプレイしていた。
何度目になるか分からない、完璧な演算の答え合わせだ。
スヴァントウルフの巨大な体格。
筋肉の動きから予測される突進速度。
眼球の動きから計算される視野角。
そして、奏の《囀るが吉》の有効到達距離。
全員が安全に後退するために必要な秒数。
そのすべてが、青い髪、黒のメッシュの髪、頭の中で美しい数字として並んでいた。
東の森で。
「来ます」と栞が警告した直後。
前方の茂みが割れ、スヴァントウルフがその圧倒的な姿を現した。
「大きい……」
日向が怯えたように小声で呟いた。
凛は無言のまま、冷や汗を流して短剣を構えていた。
「今日は分析にしましょう」
栞は即座に決断した。
「奏」
「うん」
奏が、背中のリュートの弦を一度だけ優雅に弾いた。
低く、重い一音が、暗い森の空気に波紋のように溶け込む。
スヴァントウルフの黄色い狂暴な瞳が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ奏の方へと向いた。
だが、その一瞬のバグで十分だった。
栞はすでに分析を完了していた。
「上をとらないと勝てない。攻撃手段も変えましょう」
そして、四人が一斉に後退する。
スヴァントウルフが獲物を逃すまいと追おうとした。
でも、奏の弾いた謎の和音が耳の奥に残っていた。
加えて、凜の鋭利なレイピアを視線で追っていた。
『消耗ゼロ』
栞はホログラムのメモにそう書き込んだ。
『奏の《囀るが吉》。対大型のボスエリアにも有効性を確認。ただし持続効果はなし。毛皮にコーティングを確認。魔法耐性を持つ確率が高い——』
空中展開ディスプレイを全員に回し、情報を共有する。
奏は軽く、肩をすくめた。
「なんとなく、雰囲気でやってみただけなんだけどね」
「それで充分よ」
栞は視線を向けずに返した。
「すごかったね、奏くん……!」
日向が、後光が差しているかのように目をきらきらさせている。
「私の武器を恐れてたってことね。まあ、悪くないわね」
凛が、わずかに頬を染めながら必死に平静を装った。
全員がやるべきことが分かり、深く頷いた。
すると、栞は首を傾げて、ディスプレイを閉じた。
そして夕食の出来事を思い出す。
「あんな恨めしそうな目で見なくてもいいのに。アタシたちは、チートしてるわけじゃないんだから」




