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和風出汁の香りが充満したキッチンに、善さんが茗荷を細かく刻む音が響く。照明を半分落とした食堂は静かな二十二時を迎えようとしていた。
「めちゃいい匂いですね。何作ってるんですか?」
善さんが小皿に茗荷を乗せているのを見て質問する。茗荷以外にも刻み葱やおろした生姜、白ごま、わさびが乗っている。
キッチンに漂う匂いと薬味を見ていると、お腹がすく……。
「それは後の楽しみ。よし、準備完了。あとは米が炊けるだけだね」
善さんは炊飯器の時間を確認した。業務用の炊飯器を使うのではなく自宅サイズの炊飯器を持ち込んで使っているらしい。
「今日は貸し切りだから、張り紙してきて」
「まだ志藤さん以外の来客を見たことがないんですが」
「そこに紙とマーカーがあるから」
意見は無視されたので、言われた通り【本日貸切】と書く。
食堂の入り口にセロハンテープで紙を貼っていると、足音と共にスーツ姿の志藤さんがあらわれた。
「いらっしゃいませ。今日は志藤さん貸し切りなので、どうぞ」
二人で食堂に入り、念のため施錠しておく。善さんの言葉を信じるならば、今日は謎解きなのだ。プライバシーは大事!
二人でキッチン近くの席に座ると、善さんがお茶を運んできてくれた。
「業務お疲れ様です。せっかくお越しいただいたんですが、ご飯が炊けるまでまだ時間が少しあるので、先に謎についてお話しますよ」
「問題ありません、ぜひ聞かせてください!」
志藤さんはきっぱりといいきった。
善さんが思うほど、ここに来る人は料理を求めていないんだろうな……。
「マルが潜入してくれたおかげで、中谷さんの恋人はわかりましたよ」
「本当ですか、ありがとうございます!」
「でも、誰が恋人かは教えられません」
善さんは長い人差し指を口元に当てた。
「どういうことですか?」
戸惑ったように志藤さんが訊ねるが、私も面食らう。
今日は謎解きではなかったのだろうか。
「どうしてと言われても……中谷さんとその恋人が秘密にしていることを勝手には暴けないですよ」
「そんな……それじゃあ、嫌がらせが止まらないじゃないですか」
志藤さんがうろたえたように反論するけれど、善さんは薄く微笑んだまま。
その様子に志藤さんは唇を噛み締めながら、小さく呟いた。
「ここなら解決できると思ったのに……」
「解決できますよ。あなたに嫌がらせをしているのは、中谷さんの恋人ではないので」
「えっ⁉」
志藤さんよりも私が大きな声をあげてしまい、慌てて口をつぐむ。
関さんじゃなかったんだ……。
ほっとして息を吐き出すけれど、それじゃあ誰が?という新たな考えが浮かぶ。
「まずあなたが考えていた二人は、どちらも嫌がらせをしていません」
「どういうことですか」
「ファイルが削除された日。あなたはどちらの時間も削除されたと言っていました。でもあの日、関さんは午前中、沢田さんは午後、削除できない環境にいたんです」
善さんの言葉にうなずく。二人ともどちらかの時間なら可能だった。だけどどちらかの時間は社外にいて共有パソコンを操作できなかった。
「二人が協力する必要もないでしょうし、それなら単純に二人は犯人ではない。と考えた方がいいでしょう。他に削除した人がいるはずです」
「二人とも離席しているって、メッセージをくださったと思うのですが……」
「はい。離席していましたよ。ですが、二人とも社内スケジュールには登録していませんが、別の予定が急遽入り、共有パソコンを触れなかったのです」
善さんの言葉の足りないシンプルすぎるメッセージを思い出す。
「それじゃ、ファイルが削除されていたのは気のせいだったのかもしれません」
「いえ、気のせいではありません。システム部に確認したところ、確かに共有パソコンから削除履歴がありました」
二人ではない。でも確かに削除されていた。
それなら一体だれが削除したんだろう。
「そもそもどうして、犯人が中谷さんの恋人だと思ったんですか?」
「なぜって……嫌がらせされた内容ですよ。打ち合わせのたびに貼られる付箋からして、嫉妬だと思ったからです」
「でもそれは中谷さん側だけじゃないはずです。志藤さんに対して、恋心を抱いているかもしれませんよね」
善さんはお茶を一口飲んで、さらりと言った。
「優吾に対して嫉妬したということですか? それはないと思います」
「なぜ? 中谷さんではライバルにならないから?」
「ちょっと善さん、それは中谷さんに失礼ですよ」
志藤さんも唇を引き結んで、不快感をあらわにしている。
「まぁ世間の声はさておき、中谷さんが邪魔だ、脅威だと思う人もいるでしょう」
私はそこで一人の人物の顔を思い出していた。――吉原さんだ。
吉原さんは志藤さんに特別な感情を持っているように見えたし、中谷さんを敵対視しているように感じた。
「私が優吾の彼女だと思ったのは、あのSNSアカウントの存在ですよ。優吾の寝顔は彼女じゃないと撮れないでしょう?」
「でもそれは今の彼女じゃなくてもいい。あなただって中谷さんの寝顔を撮っていたことがあってもおかしくない。つまり、あなたのスマホにある写真を盗んだのかもしれません」
「私の……?」
「幼稚な嫌がらせをするくらいの人ですから、あなたにストーカー行為を働いてもおかしくありません。というわけで、犯人は中谷さんの恋人ではないと思います」
「どうやってスマホのデータを盗むというんですか? パスコードも設定してます」
志藤さんの声が少し震えている。ストーカーがいるなんて考えたくないはずだ。
「パスコードは近くにいる人にはけっこうわかるものですよ。隣にいながら盗み見ることもできます。近しい人ならこっそりデータを転送することも可能でしょう」
吉原さんは志藤さんとペアを組んでいて常に一緒に行動している。どこかでパスコードを見つけたり、スマホを触るタイミングがあったかもしれない。
それに吉原さんが犯人なら、ファイル削除も可能だ。志藤さんと同じタイミングで会議をしているのだから、会議室に設置されている共有パソコンから会議中にファイルを削除できる。
「まさか、私のまわりの人を疑ってるんですか? そんなわけありません。私はスマホを肌身離さず持っていますし。絶対優吾の彼女だと思います」
「周りの人を疑いたくない気持ちはわかりますけどねえ。それにAIでも使えば、寝顔の加工なんてできると思いますよ」
「でもあれは確かに優吾の部屋でした。優吾は自分の家に友達を呼ぶタイプでもないです。部屋の画像は誰にでも作れるわけありません」
「じゃあやっぱりあれはあなたが所持していた画像でしょうね」
「私は別れてから優吾との画像を削除したので。そもそも盗むこともできません」
「――そんなに中谷さんの彼女が知りたいんですか?」
善さんの言葉に、身を乗り出していた志藤さんの動きが止まる。
椅子に深く座り直した志藤さんは大きくため息をついた。
「私は嫌がらせの犯人を知りたいだけです。自分のスマホを絶対に触らせない自信があるだけですよ」
「ふーん、すごく厳重に管理されてるんですね。それじゃあ画像は盗めないか」
「だからそういってるじゃないですか。今の彼女が撮影するしかないんですよ」
「今の彼女が撮影しなくても、盗まなくても、もっと簡単な方法がありますよ」
「どういうことですか」
「あなたのまわりは盗んでいない。今の彼女も撮影していない。そこから考えられる答えはひとつです。
――あなたが犯人なんですよ、志藤さん」




