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ただでさえ静かな食堂の音が消えた感覚がした。
志藤さんは息を飲み、善さんを凝視している。
今、善さんはなんて? どういうこと……?
まばたきを繰り返して善さんを見つめるけれど、善さんの表情は変わらない。
「犯人が見つからないのは当たり前です。あなたの自作自演ですから」
「私のことをばかにしているんですか」
かすれた声を志藤さんは出した。
「ばかにしてないですよ。でも少し哀れだと思っています。こんなにまわりくどいことをして。中谷さんの彼女がわかる。――その先になにがあるっていうんですか?」
善さんは真剣な表情で志藤さんを見つめた。
志藤さんは息をのみ、顔をそらす。
「あなたが初めから、中谷さんの彼女が犯人だと決めつけていることが不思議だったんです。そこで思いました。あなたは犯人を捜したかったわけじゃない、中谷さんの彼女が誰かを知りたいんだと」
志藤さんから何も返ってこないことを察して、善さんは言葉を続けた。
「核心があったわけではないので、ファイル削除の日のメッセージで、すべてを伝えませんでした。あの日、俺はあなたにリアルタイムで実況をすると伝えていた。離席した時点で、伝えると」
善さんは言葉が足りなかったわけではなく。あえて、シンプルなメッセージにしたんだ。
志藤さんの自作自演だと考えると、志藤さんは事前に社内スケジュールで二人の予定を確認していたはずだ。どちらもが削除できる時間を狙って、自分が席を外すタイミングを作った。善さんからの「離席」のメッセージと社内スケジュールを照らし合わせて、二人は何も予定がないのに席を外れた、と解釈したんだ。
「でも、志藤さんはどうしてそんなことを?」
「嫌がらせを受け続けている、というアピールをしないといけないから。さっきも言った通り、何か大きな理由がないとプライベートのことは暴けません」
犯人を見つけないといけない理由を自分で作ったんだ……!
「先ほどあなたは『画像は今の彼女しか撮れない』とおっしゃいました。でも今の彼女にもあの画像を撮ることはできないんですよ、残念ながら」
「え?」
「今の彼女は、中谷さんの家に泊まることはないでしょうから」
「どういう意味ですか」
「教えませんよ、プライバシーの問題ですから。でも、できないんです」
断定する善さんに、私は関さんの言葉を思い出していた。
――ホテルや旅館でも眠れないんです。まくらが変わると無理みたいで。
だから、中谷さんも小岩にいたのだ。自分のパソコンを置いているということは、基本的に中谷さんが関さんの家に行っているのかもしれない。
「俺は責める気持ちもないですし、すべて暴きたいとは思いません。でも、よかったらあなたのお話を聞かせてもらえませんか。どうしてここまでして知りたかったのか」
「…………」
志藤さんの目は泳ぎ、うつむいた。黙って唇をかみしめている。
――そのとき、場に合わないメロディが流れた。電子音が奏でるきらきら星だ。
「ああ、ご飯が炊けました。ちょっと待っててくださいね」
こんな重苦しい空気も気にすることなく、善さんは気楽にキッチンに向かって行く。
残されたのは、私と志藤さん。う……きまずい。
志藤さんはうつむいているが、怒って退席することもなさそうだ。
私は善さんの言った意味を考えてみるけれど、よくわからない。
どうして彼女のことが知りたかったんだろうか。
「お待たせしました」
数分とたたずに善さんが戻ってきて、トレイからテーブルに器をうつす。
私の目の前にも置かれたのは――。
「湯葉あんかけ丼です。どうぞ、気持ちもあたためてくれますから」
湯気と共にふわっと立ち上がるのは、昆布やかつおの優しい匂い。波たつような薄い湯葉がたっぷり重ねられていて黄金色のとろりとしたあんが絡みついている。具材は湯葉だけで、善さんが準備していた薬味が出番を待っているように添えられていた。
志藤さんはじっと器を見つめているが、スプーンを取ろうとはしない。
「た、食べましょう! あったかいうちに!」
私は空気を打ち破るように明るい声を出し、率先してスプーンを持つ。
社食のステンレスのスプーンとクリーム色のお椀というのは残念ポイントだけど、上品な香りが漂う。
「……ん、ほいひい」
優しいあんかけと滑らかな口当たりの湯葉。身体があたたまる優しい味が広がった。
「おいしいですよ、志藤さん食べましょ」
笑いかけると、志藤さんはしぶしぶスプーンを取った。
善さんは私たち二人をじっと見ていて、何を考えてるかわかんないし……!
もう、私が食べ続けるしかない……。
やけになって、二口、三口と口に運ぶ。
最初の一口は、優しい味だと思ったけれど、案外ご飯によく合う。昆布とかつおの旨みがしっかり感じられるあんかけが、お米ととろりと絡み合い、いくらでも食べ進められそうだ。
「私、初めて湯葉あんかけ丼食べました。すごいおいしいですね。お肉とか魚とかメインのないどんぶりだから、どうかなって思ったんですけど、湯葉がこんなに主役になるんですね!」
明るい雰囲気を作りたくて、意味のない食レポをしてしまったのだが……。
志藤さんがスプーンを噛み締めながら、涙をはらはらとこぼした。
「し、志藤さん。ごめんなさい。私ふざけてたわけじゃないんです」
「ううん、違うんです」
志藤さんは二口目もスプーンに入れた。同時に目から涙がこぼれる。手の甲でぐいっと涙をぬぐい、食べ進めていく。
呆気にとられるけれど、志藤さんの様子を見て安心した表情の善さんもあんかけ丼を食べ始めた。
志藤さんは勢いよく、半分くらい食べたところでスプーンをそっと置いた。
「ごめんなさい、泣いてしまって」
「ここはそういう場所ですから。誰も気にしませんよ」
「でも、私、お二人に嘘をついて――」
「志藤さんは、まだなにもしていませんよ。大丈夫です。俺たちは今後あなたと業務で関わることはありません。夜にここで会ったことがあるだけのほぼ他人ですから、なんでも話してもらっていいですよ。プライバシーも厳守します」
いつもぶっきらぼうに聞こえる善さんの声音にたしかな優しさが滲む。
「あの、これ、薬味で味変するとおいしいですよ」
何か気の利いたことが言えたらと思ったけれど、たいしたことは言えなかった。
「ありがとうございます。……うん、おいしい。私にとって、優吾ってこういう存在だったんです」
志藤さんはそう言って、湯葉あんかけ丼を優しく見つめた。
「主役みたいなタイプじゃないんです。控えめで、でも優しくて、包み込んでくれて。私にとって、優吾はいないとだめな存在だったんです」
志藤さんの表情がぐっと柔らかくなる。そういえば、中谷さんと話す志藤さんはいつもこんな表情をしていた。これは誰かを恋しく思う表情だ。
「別れは些細なことだったんです。喧嘩は何度かありましたけど、その時初めて『別れる』と言ってしまったんです。売り言葉に買い言葉ってやつで……そのまま本当に別れちゃったんです」
「で、でも、お互い別れるつもりはなかったんですよね?」
「はい。でも、本気で思っていない『別れる』って口に出したらダメな一言なんですよ。相手を試すワードで、信頼関係が崩れちゃうんです」
「でも……」
「そこで私がすぐに謝ればよかったんです。私には優吾が必要だって、みっともなくてもいいからすがりつけばよかったのに。周りからどう見られたって」
志藤さんは後悔するように目を伏せた。
二人が別れた後、社内はちょっとした騒ぎになったと聞いた。
前々から不釣り合いだと言われていた二人。他の男性に誘われている志藤さんを見て、中谷さんは身を引いたんじゃないだろうか。志藤さんも周りの目を気にして素直になれず、本当の気持ちを言うことができなかった。
「周りの目を気にしてしまうんです。それに、調子に乗ってたんだと思います。いつまでも、優吾は好きでいてくれるんじゃないかって。いつかまたなり直せるんじゃないかって……」
でも、そうしているうちに二人の関係は修復不可能なものになっていったのだろう。きっと中谷さんも最初は本気で別れるつもりはなかったのだと思うけれど……。
「そんなとき優吾に彼女が出来たことを知りました。心が真っ暗になるっていうのはこういうことをいうんですね、きっと。やり直したいなんてもちろん言えません。傷つくのが怖いからとかそういうのじゃなくて……本当に自分のプライドの高さが嫌になる」
志藤さんは淡々と告白した。それでも口調は少しずつ軽くなっていく。
「そのまま気持ちにキリをつけようと思ったんです。でも日に日に、今の彼女が誰なのか気になってしまって。でも優吾に聞くことも、まわりに探ることもできなくて……そんなときにこちらのメールを見て、思いついて……」
後悔するように志藤さんは顔をしかめた。
「……彼女を知って、本当にどうするっていうんでしょうね。知ったことで何かが変わるわけじゃないのに。ただ彼女を知って、自分と比べたかったのかもしれません」
――志藤さん以上の人と付き合えるわけがない。
飲み会の席で出た言葉が浮かび上がる。
志藤さんは非の打ちどころのない人だ。美人で仕事ができて人望もある。客観的に見て、志藤さんよりも優れた人というのはいないのかもしれない。
「優吾はそういうこと気にするタイプじゃないってわかってるのにね。自分の彼女が周りからどう思われてるか、なんて気にしない人だって、私は知っているのに」
志藤さんはきっとこんがらがってしまったのだと思う。
頭の中を中谷さんの新しい彼女が埋め尽くして、嫉妬や後悔が身体にたまるばかりで、誰かに発散することもできない。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「いいえ、俺たちはこれが仕事ですから。あ、でもCS課のスタッフは迷惑メールの対応をしたんですから、お茶でもおごってあげてくださいね」
善さんは急須のお茶を注ぎ、社食のコップに入れて志藤さんに渡す。
「……ありがとうございます」
お茶を飲んで、志藤さんはまだ涙をこぼした。
「あなたはまだ何もしてません。そして、これからは大丈夫ですよ」
善さんの声音は、ひどくやさしかった。
私が想像していたお悩み解決とは、まったく異なる結末だった。
根本的な悩みがすっきり解決したわけではない。志藤さんが今さら中谷さんに想いを伝えたところで、元通りになるとは思えない。時間が経ちすぎてしまっている。志藤さんの中谷さんへの気持ちを消化できるのはきっともっと後だろう。
それでも、湯葉あんかけ丼を頬張りながら、涙でメイクが落ちた顔で子供のような笑みを浮かべる志藤さんを見ていると。彼女にまとい絡んでいたモヤからは抜け出せるんじゃないかと思う。
一歩、前向きに進めますように。
私は、志藤さんの明日を願った。




