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【七】風の隨に

「サクヤさん、なんつーかすげぇな」


 大通りから数本離れた、ひと気のない小さな路。自身の家に帰る途中でヒザクラは毒気を抜かれたように息を吐いた。友人の姉に対するそれは、純粋な称賛がほとんどを占めている。


「大方あの神官と逢い引きでもしていたのだろう。姉上はあれでなかなか……いや、なんでもない」


 珍しく、トウヤが語尾を萎ませる。サクヤとトウヤは七つ離れた姉弟だが、似ていると言われることも少なくない。確かに外見も性格も似ていなくはないが、先ほど見せられたように決定的に違う部分だってある、とトウヤは思っている。


「今年の大弓主と知っててだからなぁ。明日には手なずけてそうだ」


「ああいう駆け引きは俺にはできぬ」


「しなくていいだろ」


 ヒザクラが声をあげて短く笑うと、トウヤの眉尻がわずかに下がった。先刻から山に注ぎ始めた月明かりが、彼の複雑そうな表情をよく照らす。


「すまなかった」


「ん?」


「堂々と出て行ったはいいものの、正直時期も時期だし、保身が頭をよぎってしまってな。それでもつまらぬ意地はあるときて、逃げられぬ俺の代わりに拳を出させてしまった」


 そんな風には見えなかったけどなと思いつつ、ヒザクラは軽い調子で返す。


「結局お前も手を出したから意味なくなったけどな」


「己の喧嘩を友になすりつけて、そのまま見ていることなどできぬ」


「なら俺も、友人に売られた喧嘩は見過ごせねぇからこれが最善だな。ま、あの様子なら告げ口もしないだろうよ」


 そう言ってにっと笑うと、ようやくトウヤも柔らかく顔をほころばせ、口の端を上げた。唇の一部が赤く滲んでおり、滑らかな色白の頬には余計に目立つ。


 風が小路を駆け抜け、二人の生傷を撫でていく。それは今宵の若気の至りをたしなめるようでもあれば、慰めるようでもあり、いずれにしても今の彼らには快かった。





 軒先連なる通りから、細く急峻な坂道へと下るところである。

 ふいに逆巻くような風が吹いた。


 トウヤたちの髪を吹き上げたのは一瞬のことで、すぐに何もなかったかのように辺りは自然に返っていく。ただ、そんな中、溜まった暗闇からするり、音もなく現れた影があった。


「ふむ――。……そこの童よ、道が聞きたい」


 こう訊かれて、二人はようやくその存在を認めた。夜闇よりも暗く、くっきりと夜の色を放つ男。年齢は分からない。三十手前のようにも思えるが、それもまた間違っているようで、不思議とはっきりしない。


「都の出口はどちらだったか。できるだけ静かな道がいい」


 静謐な水盆に雫を落とすような、落ち着いた声である。一見すると簡素な身なりでも黒衣自体は上質で、男の雰囲気は明らかに普通の者とは異なっている。


 あまり見入るのも失礼だと思ったトウヤは目線を男から外すと、遠く夜に浸かった山裾を指差す。


「それなら、この坂を下りたら真っ直ぐ進むのがいいでしょう。棚田に出ますが、途中槻の木のある三叉路を右に行くと都を出られます」


「ああ、あの木か。いやなに、普段と目線が違うと戸惑ってよくない」


「失礼ですが、このような時間に都を出るのですか」


「今日はハレ日で機嫌がいいのでな。このまま下りるから、しばらく留守にするぞ。童」


 まるで一国の、いや山の主のような尊大な口ぶりで男は言うと、悠々と坂を下っていった。

 行く先では稲穂の敷かれた田圃が段々と続いている。雲の去った夜空は晴れ渡り、国境の役割を担う山脈がその稜線をほのかに光らせている。


 その様子を眺めてからトウヤとヒザクラが下り坂に入ると、先に進んだはずの男はすでに黒に溶けていた。





 叢雲を晴らした風は、花も散らすのか。


 人の灯す明かりに縁取られた坂道の、石砂利を踏みしめながら。いいや、とヒザクラはかぶりを振る。


(この風で、花は散らない)


 吹き渡る風が、心の淀みを払っていく。曇りが晴れ、明かりが射せば凛然と芽吹いたのは志。やってやろうという思いがヒザクラの中で沸々と湧き上がってくる。


 風は穏やかで、優しい。自身を柔らかに揺らすそれを花は拒まない。

 それに。たとえいつか、その道を行くことで逆風にさらされたとしても。


(散ってもいい)


 この男に付いていくためならば散ることになってもいいと、ヒザクラは今日、覚悟を決めた。

 戦こそ経験していない世代の人間ではあるが、神官として生きる意味は知っている。


 自分のためとトウヤが知ったら嫌がるだろう。

 彼は人一倍気が回るくせに、人に甘えられない性分だから。


 そう考えた彼が、この先、この思いをトウヤに打ち明けることはない。


 夏秋の境。ヒザクラが自身の体を見下ろせば、泥だらけで無残な姿である。だが泥の付いていないところでは、晴れた藍色地に蜻蛉が身軽に舞っていた。



 心が軽い。風が、心地いい。





 ヒザクラがトウヤに「神官になる」と伝えたのはこの次の日のことであった。


 冬の入官試験を経て、翌年の春。彼らは神官となり、出世の道を歩んでいく。

 だがその道もけして華々しいものではなく、二人が十八の歳には大戦以来の大きな戦が勃発。トウヤは旅立ち、ヒザクラは生死の境を彷徨いながらも神伯代理を経験することになるのだが、それはまた別の話である。


お読みいただきましてありがとうございました。

設定は以前からあったものの、本編では書けなかった彼らの部分を書いてみました。

本編、当初は展開の速さ重視で書いていたために山ノ国は抜きん出てさくさく淡々としていて、ずっと補完したかったのです。

どうせなら全員出そうと思いこの文字数です。

重ねまして、読者の皆様にはありったけの感謝の気持ちを。

ありがとうございました。

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