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つたえることば

掲載日:2017/03/06

「空は、青いのよね」


 当たり前のことを、彼女は当たり前ではないように呟いた。


「そうですね」


 僕はその言葉に、肯定を返した。

 実際のところ、彼女の言葉は独白で、誰かに答えなんて求めていないことは分かっていた。

 ただ僕は、彼女と話がしたかったのだ。


「そんなふうに即答してはいけないわ」


 くすりと笑われて、なんだか恥ずかしくなる。

 向けられた彼女の瞳から、なんとなく目をそらしてしまうくらいに。


「だって、空は青いじゃないですか」


 照れ隠しのような語気が、真っ白な床に乱反射した。

 くすくす。彼女が笑って、言葉をこぼす。


「だって、朝の空は赤くて、夜の空は真っ黒なのよ」

「あ」

「それなのに、青だなんて決めてしまったら、ほかの色はどこへ行くの?」

「ごめんなさい」


 慌てて謝ってから、ふと、気付く。


「最初に言い出したのは、あなたじゃないですか」


 ばれたか、と言いたげにぺろりと舌を出す彼女は、僕の瞳に強く焼き付いた。

 それが愛おしいという感情だと叫ぶ胸の鼓動を押し込めて、僕はなるべく冷静に見えるように、ため息を吐いた。


「ごめんなさいね。ただ、そう。私の見えている世界をどう伝えるか、迷ったの」

「見えている、ですか?」

「目が見える人に、私の見えている世界は、どう伝わるのかしらね」


 心に刺さるように、ちくりとする言葉。

 彼女の言葉の意味は、ただそのままのもの。

 生まれつき、彼女の瞳は世界を映さないのだという。

 難病で、いずれ死に至るのだと、そんなことを聞いた。

 僕には難しい病名や症状なんてとても分からない。けれど、彼女の目が見えなくて、そう長く息をしてはいられないのだと言うことは、分かっていた。


 そして彼女のことで、知っている事がもうひとつ。


「小説家でも、言葉が出てこないなんてあるんですか」


 生まれつき病室から出ていない彼女は、小説を書いている。

 僕は彼女の書いた小説を読んだことはないけれど、ある程度の収入はあるそうだ。


 ちょっとした骨折で入院した僕が、偶然彼女と出会ってから、およそ数ヶ月。

 すっかり完治したというのに、僕は病院に通いつめていた。理由は、言うまでもなく。


 じんじんという蝉の声を背景に、彼女は目を細めた。

 夏の日差しがまぶしいのではなく、ただ微笑みとして、瞳が三日月になる。

 その姿を美しいと思っていると、言葉がやってきた。


「小説家だからこそ、かな」

「だからこそ、ですか」

「言葉の意味を知っているから、言葉に出来ない言葉を、どう口にしていいか分からなくて、息が苦しいの」


 僕には、その感覚は分からない。

 僕の目は生まれたときから色鮮やかな景色を見続けていて、見えない中で見えるものなんて、分からない。

 そして小説家でもないから、その感覚も、やはり分からない。


 僕はそのことを、包み隠さず彼女に伝えた。

 光を映さない彼女は、人の表情を読むことができない。誰かが放つ声の揺らぎは、そのまま不安になるのだという。

 だから僕は、彼女と話すときはなるべく嘘をつかないようにしていた。

 恋心をしまうことだけが、彼女への唯一の隠し事だった。


「うん。分からない人に、分かるように伝えられないうちは、きっと私は未熟なのよ」


 屈託なく笑う彼女に、悲壮感はない。

 いつか分かるような言葉が自分から生まれると、まるで根拠もなく信じているような態度だった。


「焦らないんですね」


 その態度に、僕はなんとなく寂しさを感じてしまった。

 胸をぎゅるりと蔦のようななにかが締め付ける。その苦しさから逃れたくて、僕の口は半ば勝手に動いていた。


 だって彼女は人よりも早く死んでしまう。

 なのに、そんなふうに時間があるように言葉を紡ぐなんて、寂しいじゃないか。


 僕を映さない瞳が見開かれたのは、ほんのひとときのこと。

 彼女は僕を映すことなく見据えて、ただ笑った。


「君もなにか、伝えたくて、苦しいのかな」


 心臓を撫でられたような気分だった。


「いいえ、そういうわけでは」

「嘘だよ。だってみんな、そうなんだもの」

「みん、な?」

「みんな、誰かになにかを伝えたくて、伝えながら生きているの。ただそれが、どう言えば伝わるか、どうすれば分かってくれるのか、とても難しいだけなのよ」

「そう、かもしれません」

「うん。誰にでも、自分の心臓の音が、自分が考えていることが、見ている世界が、きちんと伝わるなんてこと、無いから」


 少しだけ寂しそうに落とされた言葉が、蝉の鳴き声に食われていった。

 その音から逃れるようにゆるく首を振って、彼女は言葉を続けていく。


「だから私は、言葉を重ねたいのだと思う。未熟でも構わなくて、届けと言うのだと思う」

「……小説家って、難しいんですね」

「人はみんな、自分の気持ちを誰かにどう伝えようかって、悩むんだよ。他の人より悩んだら、そのときは小説家になっちゃうだけなんじゃないかな」


 その言葉は、うっすらと納得ができるものだった。

 自分の話したことが思うように伝わらなくてもやもやするなんて、きっと誰でも一度は経験している。


 だからこそ、人は誰かと言葉を交わすとき、慎重になる。

 誤解を招けば謝るし、伝わらなければ悲しくなって、怒ったりもする。

 きちんと伝われば楽しくなるし、気持ちが通じ合えば生涯を共にする。

 誰かと繋がることは、きっと伝えることからはじまっているのだ。


「ねえ」

「なんですか」

「私ね、もうすぐお迎えが来るんだって。だから、プレゼント」


 お迎えという言葉の意味は、今更聞くまでもなかった。

 だから僕はそのことに寂しさを感じこそすれ、その気持ちを表に出して、話の腰を折ろうとは思わなかった。

 彼女がそっと枕の下から引き抜いたのは、一冊の真っ白な本。

 受け取ってみればそれは重く、真新しい紙の香りがした。


「無理を言って、一冊だけ刷ってもらった、君のために書いた本。サイン入りだよ」

「いいんですか?」

「うん。君に読んでほしい。そしてこの本を持って、外に出たら、もう来ないでほしいの」


 本当はその言葉には、嫌だと言いたかった。

 けれど僕は彼女の恋人でも、家族でもない。

 来るなと言われれば、僕が言える言葉はひとつだけだ。


「分かりました」


 寂しさを抑えて、僕は病室をあとにした。

 振り返ることもなく、ただ扉を閉めて、家に帰って、本を開いた。

 それが彼女が僕にあてた、最後の言葉だと思ったから。


 それから、何十年と月日が経った。

 僕は彼女が死んだという言葉を聞くことは無かった。家族でも恋人でもないのだから、当然か。

 それでもあの日、彼女はお迎えが来ると言ったのだから、きっとその通りになったのだろうと、そう思う。


「……空が、青いな」


 想い出でちくりと傷んだ胸から逃れるように、僕は窓の外を見た。

 じわじわと蝉の声はうるさくて、やる気をずんずんと削いでいく。


「やる気出ないから、遊んできていい?」

「ダメですよ、それ今日中ですよ」

「うへあ」


 ぴしりと睨みつけてくるのは、僕よりもずっと年若い男性。

 やる気に満ち溢れた、若者らしい瞳が僕を突き刺してきて、なんだか落ち着かない。


「やだーもうやだー遊びたいーめっちゃ遊びたいー」

「ダメです! 今日中でないと困るんですから!」

「うー。がんばります」


 どう考えてもこちらの言い分がダメ人間なので、反論のしようが無かった。

 やれやれ、社会というのは厳しいものだ。

 渋々という感じで仕事に向かったところで、不思議そうな瞳が向けられていることに気付いた。

 なんだろうと思っていると、それを言葉にする前に相手が口を開いてくれた。


「どうして先生は、そんなにもいつもめんどくさいめんどくさいと言いながら、小説家をしてるんですか?」


 その疑問に対する答えは、たったひとつだけだ。

 質問を渡してきた彼の背後に置かれた本棚の片隅。古びて色褪せた白い本を眺めて、僕は、口を開いた。


「目が見えない人に、空の色を教えたいからかな」


 それが出来ない僕は、きっとまだ、未熟者なのだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 僕目線のストーリーがもどかしいような、 でも、これでいいような。 [一言] 切なくて、ほんのり暖かい、 心惹かれる綺麗な話。
2018/01/05 08:25 退会済み
管理
[一言] 何故、我々は文字を紡いでいくのか。 その原点を思い出したくなるような作品ですね。
[一言] このお話、すごく好きです!
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