第8話 魔道具師の朝
窓の外が白い。
薄いカーテン越しに朝日が差し込み、作業台の上の金属粉がきらきらと光っている。油と魔石の匂い。木の床板の軋み。ここはヴァイスハウプト邸の工房ではない。辺境伯領の東端、街道沿いの小さな石造りの建物。一階が工房、二階が居室。レオンハルトが技師用にと手配してくれた物件だった。窓枠に蔦が絡み、壁の漆喰は所々剥がれている。公爵邸と比べれば質素を通り越して簡素だが、作業台の高さがちょうどいい。それだけで十分だった。
寝台から足を下ろすと、床が冷たい。秋が近い。
階下に降りると、マルタがすでに厨房に立っている。湯気の立つ鍋と、焼きたてのパンの匂い。窓から入る朝の風が、パンの温かさと混じる。
「おはようございます、奥様」
「おはようございます。……マルタ、もう奥様はやめてください。公爵夫人ではないのですから」
「では何とお呼びすれば」
「エルザで」
「無理です」
一秒で却下された。マルタはパンを皿に載せながら、当然のような顔をしている。この議論はもう五回目で、おそらく六回目も同じ結果になる。
お茶を受け取り、工房の入口に立った。
灯りが一つ、点いている。
小さな常夜灯。わたくしが自分のために作った最初の一つ。設計は簡素で、光量も控えめ。ヴァイスハウプト邸に設置した五十三基と比べれば素朴な出来だ。けれど夜通し柔らかな琥珀色の光を灯し続けている。朝になっても、すぐには消さない。もう少しだけ、この光を見ていたいから。
公爵家の廊下のためではなく。使用人の足元のためでもなく。わたくしの工房の入口を、わたくしのために照らす灯り。
作ろうと思ったのは、ある夜、暗い工房に帰ってきたときだった。鍵を開けて、手探りで蝋燭を灯して、やっと自分の場所だとわかる。それが嫌だった。帰ってきた瞬間に、ここがわたくしの場所だとわかる灯りが欲しかった。
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辺境伯領の結界が全面更新を終えたのは、契約から三か月後のことだった。
三十二本の結界柱をすべて新設し、並列回路で接続した。北の森との境界線に沿って、透明な膜のような結界が途切れなく張られている。最後の一本に手を当てて、魔力の脈動を確かめる。掌に伝わる振動は澄んでいて、力強い。
九番柱の基部に指先を当てる。二重殻構造。最初に亀裂が入った柱だ。粘土質の土壌を読み違えて失敗し、設計をやり直した。その結果、全柱の基部を二重殻に変更することになり、当初の設計より頑丈な結界になった。失敗がなければ、この設計にはたどり着かない。
領民が集まっていた。猟師の老人が空を仰ぎ、「三十年ぶりだ、こんなにしっかりした結界は」と呟く。隣の女性が「これで子どもを森の近くで遊ばせられる」と目を潤ませている。子どもたちが結界柱の周りを走り回り、柱に触れては「あったかい!」と声を上げている。魔力の余熱だ。結界が正しく機能している証。
レオンハルトが隣に立った。腕を組み、結界線の向こうの森を眺めている。
「被害の報告がゼロになった。先月から一件もない」
「まだ東側の微調整が残っています。出力が設計値より二パーセント低い柱が三本——」
「そういう話は後でいい。今日くらい、胸を張れ」
胸を張る。その言い方が可笑しくて、少し笑った。ヴァイスハウプト邸では「胸を張れ」と言われたことがない。「手を隠せ」「帳面をしまえ」「変わった趣味はほどほどに」。いつも何かをしまい込む方向の言葉ばかりだった。
レオンハルトは怪訝そうな顔をしたが、何も聞かない。この人はいつもそうだ。問い詰めず、待つ。
マルタは結界柱の陰で泣いていた。今度は花粉のせいにもしない。ただ静かに泣いて、鼻をかんで、また泣いていた。
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翌週、レオンハルトが工房を訪ねてくる。
ノックは二回。相変わらず短い。作業台の向かいに腰を下ろし、地図を広げた。辺境伯領を東西に貫く街道が赤い線で引かれている。
「街道沿いの常夜灯を設計してほしい。夜の街道に灯りがなくて、旅人が魔獣に襲われる事故が絶えない。全区間で六十基くらいになる」
六十基。ヴァイスハウプト邸の五十三基より多い。だがこちらは屋内ではなく屋外だ。雨風に晒される。耐候性の高い回路設計がいる。魔石の容量も屋内型の倍は必要だろう。設置間隔は地形によって変わる。平地なら五十歩ごと、森の際なら三十歩。坂道はカーブの外側に重点配置。
頭の中で回路図が回り始めている。指が勝手に作業台の上で設計を描く仕草をしていた。
「現地を見せていただけますか」
「今から行くか」
街道を二人で歩いた。レオンハルトが設置場所の候補を指し示し、わたくしが帳面に記録していく。カーブの外側。坂の頂上。森が街道に迫る区間。灯りが必要な場所を、足で歩いて確かめる。机の上の地図ではわからないことが、歩けばわかる。この坂は夜になると月明かりが届かない。この森の際は風が強いから、灯りに防風の覆いがいる。
レオンハルトは黙って歩く。わたくしが帳面に書き込んでいるあいだ、先を歩かず、横で待っている。
「奥様、お茶をお持ちしましょうか」
後ろからマルタの声。三度目だった。
「いりません」
声が硬い。自分でも驚くほど冷たかった。マルタが少しだけ目を丸くする。
「……ごめんなさい。集中していて」
「いえ。お気になさらず」
マルタは半歩下がった。怒っていない。でも、自分の声の冷たさが耳に残る。穏やかなだけの人間ではなかった。七年間、そう見せていただけだ。
西日が傾き始めた頃、レオンハルトが設置候補の地点で立ち止まり、帳面を覗き込んだ。設計メモを確認しようとして、手がわたくしの指に触れた。一瞬。すぐに引いて、少し間があった。
「……あんたの設計は、人を安心させるな」
独り言のような声。こちらを見ていない。
足が止まる。自分の手を見下ろした。
爪の際の黒ずみ。指の腹の硬くなった皮膚。魔石と油の匂いが染みついた、七年分の手。食卓で隠せと言われた手。来客の前に出すなと言われた手。手袋をしろと命じられた手。
手袋はしていない。この辺境に来てから、一度もしていない。しなくていいと、誰かに言われたわけではない。ただ、ここでは必要がなかった。
「……ありがとうございます」
それだけ言った。それ以上は、まだ言えない。
レオンハルトは耳の先を赤くして、前を向いた。
遠くの木の幹の陰で、マルタがにやにやしているのが見えた。目が合うと、わざとらしく口笛を吹いて背を向ける。下手な口笛が夕暮れの街道に響いて、少しだけ笑った。
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ヴァイスハウプト公爵家は、翌年度の予算編成で大幅な歳出増を強いられる。
屋敷の全魔道具を既製品に交換する工事に四か月。王都の工房との結界維持契約は長期にわたり、財政を圧迫し続ける。南方の取引先は三社が契約を打ち切り、残った商会も条件の見直しを求めてきた。
社交界での評判は、ある一言に集約されていく。「有能な夫人を手放した公爵」。ラングフェルト侯爵夫人がサロンで言ったその言葉が、そのまま通り名になる。
カミラは「あの子のせいで」と繰り返している。だが聞く者は減り、相槌を打つ者はもういない。
ルートヴィヒは夜、暗い廊下を歩く。蝋燭を手に持ち、かつて常夜灯があった壁の窪みを通り過ぎる。五十三の窪みには何も灯っていない。既製品の常夜灯がようやく設置され始めたが、光の色が違う。あの琥珀色ではない。白っぽく、硬い光だった。蝋燭の灯りは風に揺れ、影が大きく揺れて、壁を叩く。
蝋燭は答えない。名前を呼んでも、命じても、何も返さない。あの常夜灯の、柔らかく安定した琥珀色の光は、もうどこにもない。
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夜。
工房の常夜灯が柔らかく灯る中、設計図帳を開いた。マルタはもう二階で眠っている。この時間の工房は、わたくしだけのもの。
最初のページ。七年前、ヴァイスハウプト邸に嫁いだ年に描いた、最初の常夜灯の設計図。線が若い。回路の組み方も荒い。それでも、あの廊下を照らすには十分だった。
指先でその線をなぞる。一瞬だけ。
それからページを繰る。二年目。三年目。結界設計。保冷庫。温水装置。年を追うごとに精密になっていく線。赤い不採用の印。余白の修正メモ。油染み。
全部を通り過ぎて、白紙のページを開く。
新しい設計を描き始めた。街道の常夜灯。耐候性回路。魔石の容量計算。風雨に耐える外装の素材選定。ペン先が紙の上を走り、線が一本ずつ形を成していく。
何を設計しているかは、もう迷わない。この場所を通る旅人のため。この領地に暮らす人のため。そして——自分がここにいると決めた、自分のために。
入口の常夜灯が、白紙の上のペン先を照らしている。この灯りを作ったのはわたくしで、この灯りの下で図面を引いているのもわたくしだ。作る人と、使う人が、同じ場所にいる。それがこんなに穏やかなことだとは、知らなかった。
「魔道具師だった公爵夫人」。
過去形なのは、公爵夫人をやめたから。
今のわたくしは、ただの魔道具師。エルザ・シュトゥック。
それが、一番欲しかった肩書き。
ペン先が白紙の上に新しい線を引いていく。常夜灯の灯りが、その線を静かに照らしていた。
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