第7話 返書
使者が宿を訪ねてきたのは、昼下がりだった。
ヴァイスハウプト家の紋章が押された封蝋。見覚えのある厚手の封筒。受け取って、部屋に戻る。
窓際の椅子に座り、封を切った。便箋を広げる。
「公爵夫人としての責務を果たされたく、速やかにお戻りください。領地の結界維持に支障が生じており、早急な対応を要する」
三行。読み終えるのに五秒もかからない。
便箋を裏返した。白紙。追伸も、署名の横の一言もない。宛名は「公爵夫人殿」。わたくしの名前すら書かれていなかった。
もう一度、表を読み直す。「責務を果たされたく」。「速やかに」。「早急な対応を要する」。命令が三つ並んでいる。七年ぶりの不在に対する感想が、一語もない。わたくしがいなくなって困ったことだけが書かれていて、わたくしがいなくなったこと自体への言葉はない。
あの人らしい書状だと思った。完璧にあの人らしい。
マルタがお茶を持ってきた。わたくしの手元の便箋を見て、湯気の立つカップをテーブルに置く。
「拝見してもよろしいですか」
「ええ」
マルタが便箋を読む。短いから、すぐに終わる。
「……謝罪の一言もないんですね」
「ええ」
「感謝も、ない」
「ええ」
手が震えた。悲しみではない。怒りだった。七年間飲み込んできたものが、胸の底から一度に込み上げてくる。
設計図帳から白紙のページを一枚破った。羽根ペンを取り、インクに浸す。
試作品を壊したこと。提案書を読まなかったこと。手袋を命じたこと。来客の前で笑ったこと。「弊家の技師」と書いたこと。もう飲み込まなくていい。ペンが走った。二行、三行、五行。
——途中で、手が止まる。
読み返した。七年分の不満が並んでいる。全部正しい。でも、この便箋を読む人間は「何を今さら」と鼻で笑うだけだ。
便箋をゆっくり折った。四つに折って、小さな塊にして、テーブルの隅に置く。
「マルタ。返書は出しません」
「……は?」
「代わりに、伝言をお願いします。使者にこう伝えてください」
マルタが顔を上げる。
「『たかが道具の修繕でしたら、技師にお任せになればよろしいのでは』」
部屋が静かになった。窓の外で鳥が鳴いている。マルタはしばらく口を開かず、わたくしの顔をじっと見ていた。
「……本当に、それだけでよろしいんですか」
「十分です」
言い足す言葉はない。七年分の不満も、悲しみも、失った試作品のことも、暗い食卓の朝のことも。全部を込める必要はなかった。あの人が言った言葉を、そのまま返すだけでいい。それで伝わらないなら、何を書いても同じだ。
マルタは便箋をテーブルに置き、深く息を吸った。
「かしこまりました。一字一句、正確にお伝えします」
足音が廊下に消えていく。使者に伝言を伝えるマルタの声が、階下からかすかに聞こえた。
---
夕方、レオンハルトが宿に来た。
使者の馬が繋がれているのを見たのだろう。入口で長靴の泥を落とし、まっすぐこちらの部屋に上がってくる。ノックは二回。短い。この人らしい。
椅子を勧めたが、レオンハルトは立ったまま聞いてきた。
「あちらに戻る気はあるか」
命令ではない。確認の声。
「ありません」
間を置かなかった。考える必要がなかった。
レオンハルトは頷き、懐から書類を取り出す。折り畳まれた羊皮紙。辺境伯領の紋章入り。
「なら、正式にうちの領地技師にならないか。結界だけじゃない、街の魔道具全般の設計と保守を任せたい。街道の常夜灯も、浄水設備も、暖房も。全部あんたに設計してほしい」
契約書だった。
報酬額が記されている。肩書きの欄には「領地主任技師」。契約期間は一年、更新可。技師として必要な工房、資材、助手の手配はすべて辺境伯領が負担すると書かれている。
ヴァイスハウプト家では工房も資材も公爵家の所有物だった。わたくしの仕事に対して、一枚の契約書も、一行の報酬規定もなかった。「妻の務め」として、全部が無償だった。
「署名欄はここだ。名前は好きなように」
好きなように。
羽根ペンを取る。インク壺にペン先を浸す。黒いインクが金属の先端にゆっくり染み込んでいく。
署名欄に、書いた。
エルザ・シュトゥック。
旧姓。父から受け継いだ名前。ヴァイスハウプトではない。公爵夫人でもない。嫁いだ日に手放し、七年間一度も使わなかった名前。魔道具師としてのわたくしの名前。
ペンを持つ指がわずかに震えていた。けれど文字は真っ直ぐだった。一画ずつ丁寧に引いた線が、羊皮紙の上で乾いていく。インクの匂いがする。工房の油とは違う、事務的な匂い。けれど今は、この匂いが心地よかった。何かが始まる匂いだ。
レオンハルトが契約書を受け取り、署名を確認した。シュトゥック、と小さく読み上げる。
「いい名前だ」
それだけ言って、契約書を懐にしまった。
わたくしは設計図帳を開き、最後のページに契約書の写しを挟む。一話目の夜、ここに書き込んだのは東部辺境伯領への道順と、ブレンナー家の住所だった。退去の前夜に、この帳面だけは持ち出すと決めて。最初から、戻るつもりはなかった。
---
ヴァイスハウプト公爵邸。
使者が戻ったのは、三日後の午前だった。
ルートヴィヒは書斎で待っていた。この三日間、何度も窓の外を見た。執務が手につかない。見積書の数字を読み間違え、側近に二度訂正された。使者の馬が門を通るのを確認し、すぐにハンスを呼んで通させた。
「返書は」
使者が頭を下げる。
「書状はいただけませんでした。口頭での伝言をお預かりしております」
「伝言だと。——言え」
使者が一度唾を飲み込み、口を開いた。
「『たかが道具の修繕でしたら、技師にお任せになればよろしいのでは』とのことです」
書斎の空気が止まった。
ルートヴィヒは動かない。椅子に座ったまま、使者の顔を見ている。
「……もう一度言え」
「『たかが道具の修繕でしたら、技師にお任せになればよろしいのでは』——以上です」
たかが道具。
聞き覚えのある言葉だ。自分の言葉だ。あの日、書斎で、試作品を捨てたあとに言った。欠伸をしながら。「たかが道具だろう。また作ればいい」と。
その言葉が、伝言という形で、三日の距離を越えて戻ってきた。一字も変えずに。
「下がれ」
使者が退室する。扉が閉まる。
書斎に一人。
椅子の肘掛けを握った。木が軋む音がする。指の関節が白くなるまで握り込む。
怒りなのか、屈辱なのか、わからない。わからないまま、胸の底に鉛のように沈んでいく感情がある。あの女は戻らない。命じても従わない。書状を送っても返書すらよこさない。伝言一つ——たった一行の伝言で、片づけられた。
なぜだ。
七年間、従ってきたではないか。食卓で手を隠せと言えば隠した。工房を片づけろと言えば黙った。来客の前で笑われても、微笑んだまま座っていた。試作品を捨てても、「そうですか」の一言で引き下がった。それが、なぜ今になって——。
「そうですか」。
あの一言の意味を、今初めて考えている。了承だと思っていた。いつも通りの従順な返事だと。だが違ったのか。あの一言は、もう終わりだという意味だったのか。
答えは出ない。出る構造になっていない。「自分が悪かった」という回路がこの男にはない。「なぜ従わない」と「なぜこうなった」が頭の中で堂々巡りするだけで、その二つの問いの間にある「自分が何をしたか」という問いには、一度もたどり着かない。
机の上に書類が積まれている。修繕費用の見積もり。取引先からの契約打ち切りの書状。サロンでの噂を報告する側近の覚書。そのどれもが、あの女の不在から派生した問題だった。あの女がいれば起きなかった問題。あの女を「たかが」と呼ばなければ——。
いや。そうは考えない。考えられない。
立ち上がり、窓際に行った。庭は暗い。散水魔道具はようやく止まったが、薔薇は根腐れで半分が枯れている。手入れの行き届いた庭園だった。かつては。
机に戻る途中、足元が暗くて書架の角に脛をぶつけた。痛みが走る。舌打ちをして、手近にあったインク壺を掴み、壁に投げつけた。
黒いインクが白い壁紙に飛び散る。放射状の染みが、蝋燭の灯りに照らされてゆっくり垂れ落ちていく。
---
深夜。
ハンスが蝋燭を一本持ち、最後の巡回に出た。
廊下は真っ暗だった。常夜灯は一つも灯っていない。五十三基すべてが沈黙して、もう二週間になる。蝋燭の火だけが、半径二歩分の床を薄く照らしている。石壁が蝋燭の熱を吸い込み、指先が冷たい。
この廊下を、奥様は毎晩歩いていた。一つずつ蓋を開け、魔石を確かめ、魔力を注いで。七年間。誰に命じられるでもなく。
書斎の前を通りかかったとき、足を止めた。
扉の隙間から、かすかに蝋燭の灯りが漏れている。まだ起きておられる。
扉の向こうから、何かが壁にぶつかる鈍い音がした。それから、椅子が軋む音。そして、静寂。
ハンスは扉に向かって一礼し、何も言わず通り過ぎた。
暗い廊下を蝋燭の灯りが遠ざかっていく。その光は小さく、頼りなく、角を曲がればすぐに消えた。




