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魔道具師だった公爵夫人  作者: 九葉(くずは)


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第6話 公爵家の長い夜

南の森から、魔獣が出た。


報告を受けたのは朝の執務中だった。領地南方の巡回兵が息を切らして書斎に飛び込んできた。


「結界の隙間から獣が——耕作地に三頭、入り込んでおります。小型の角狼です。今のところ人的被害はありませんが、領民が怯えて畑に出られない状態です。麦の収穫期が近いのですが……」


結界の隙間。あの女が維持していた南方結界。半年前に改良の提案書を出してきた、あの結界。読まなかった。


「駐留兵を南に回せ。東の哨戒は半数に減らして構わない。避難指示を三区画に出し、近隣のランドール伯爵領に応援要請を。書面はこちらで書く」


三十秒で指示を出し終えた。兵の配置、避難の順序、政治的な根回し。この手の危機対応をさせれば、ルートヴィヒは迅速で正確だ。


だが兵が追い払えるのは獣だけで、結界の隙間は塞がらない。修繕を命じる相手がいない。王都の技師は屋敷の魔道具だけで手一杯で、結界にはまだ手をつけていない。


「兵を出します。結界の件は……」


「わかっている。後で指示を出す」


巡回兵が下がった後、机の引き出しを開けた。見積書の束。屋敷内の魔道具修繕だけで、すでに年間予算の二割を食っている。結界まで含めれば、いくらになるのか。技師の追加見積もりは来週届く。


引き出しの奥に、封筒が二通見えた。あの女の退去の書状と、その下に埋もれた結界改良の提案書。提案書の封は、まだ切られていない。


手を伸ばしかけて、やめた。今さら読んだところで意味はない。設計者はもういないのだから。


---


三日後、王都のサロンに出た。


月に一度の貴族会合。主要な取引先との関係維持のために、欠かすわけにはいかない。屋敷の灯りは蝋燭でどうにか誤魔化したが、応接間の空調が止まっているのは隠せなかった。客をサロンで迎える形にして、自邸への招待は避ける。


茶菓の時間。隣席のラングフェルト侯爵夫人が、扇の向こうから声をかけてきた。


「ヴァイスハウプト公爵。最近、お屋敷がずいぶんお暗いと伺いましてよ。奥様がご不在とか」


「妻は療養中でして」


用意していた台詞を、いつもの笑みとともに返す。


「まあ、それはご心配ですわね。ゆっくりご静養なさいませ」


やり過ごせた——と思った瞬間、向かいに座っていたグレーフェンベルク伯爵が口を開いた。


「療養中、ですか? 私の知人が東部辺境伯領におりましてね。公爵夫人殿が、あちらで結界の設計をされていると聞きましたが」


サロンの空気が、一瞬変わる。


「ずいぶんご活躍のようですよ。辺境伯領の結界を全面刷新する大仕事だとか」


笑みを保つ。口角の筋肉が引きつるのを、茶碗を持ち上げる動作で隠した。


「ああ、妻は少々変わった趣味がありまして。療養先で暇を持て余しているのでしょう」


同じ台詞だ。以前、この伯爵の前で使った台詞。あのときは笑いが起きた。今日は、誰も笑わない。


ラングフェルト侯爵夫人が扇で口元を隠している。その目が、品定めをするように細くなった。社交界の人間は嘘に敏い。「療養中」と「東部で結界設計」が両立しないことくらい、この場の全員が気づいている。


グレーフェンベルク伯爵が続ける。


「辺境伯領の結界を全面刷新されるそうですね。あれほどの技術者がいらしたとは、正直驚きました。以前お食事をご一緒した折には、奥様のお話を伺い損ねてしまいましたが」


あの日だ。結界の質問をした伯爵に、わたしが「変わった趣味」と遮ったあの食事の席。伯爵は覚えている。覚えていて、今、この場で言っている。


茶碗の縁を握る指に力がこもる。返す言葉が見つからない。「趣味」と笑った妻が、別の土地で「技術者」として評価されている。それを他人の口から、衆人の前で聞かされている。


「妻のことはご心配なく。近々戻る予定です」


声が平坦に出たことだけが救いだった。サロンを辞したのは、予定より三十分早い。馬車の中で、革張りの座席を拳で叩いた。一度だけ。


---


翌日。さらに悪い知らせが来た。


南部の魔石取引先であるベルンハルト商会から、書状が届く。


「誠に恐縮ながら、本年度の取引契約の更新を見送らせていただきたく存じます。従来、貴家の魔道具品質は公爵夫人殿の技術保証に拠るところが大きく、現状では品質の担保が困難と判断いたしました」


技術保証。


あの女が取引先に何をしていたのか、知らなかった。商談はすべて自分が仕切っていた。数字も条件も自分が決めた。だが、商会が契約を結んでいた本当の理由は——魔石の品質を技術的に裏書する人間がこちらにいたからだ。思い返せば、商談の後にあの女が商会の技術担当と話し込んでいることがあった。「変わった趣味」だと思っていた。あれが裏書だったのか。


一つの契約が切れれば、他も続く。商会同士の情報は速い。「ヴァイスハウプト家の品質保証が崩れた」という噂が回れば、連鎖する。すでに別の商会からも、それとなく状況確認の書状が来ている。


書状を机に置き、目を閉じた。こめかみの奥が重く、鈍い痛みがある。


---


夕刻。母が書斎に来た。


カミラは扉を閉めるなり、椅子にも座らず口を開く。


「聞きましたよ。サロンで恥をかいたそうですね」


噂の速さにも、この女の情報網にも今さら驚かない。


「恥などかいていない。多少の噂が立っただけだ」


「多少? ラングフェルト侯爵夫人が、もうあちこちで話していますよ。『公爵家の奥様、療養ではなくお逃げになったんですって』と」


逃げた。その言い方が耳障りだった。逃げたのではない。あれが勝手に出ていっただけだ。


「だから私はあの子に、もう少し社交を仕込みなさいと申し上げたでしょう。工房に籠もらせるから、こういうことになるのです」


「母上こそ、嫁いびりが過ぎたから出ていったのではないですか。手袋をしろだの、汚い帳面だの、毎日のように——」


「私のせいですって?」


カミラの声が鋭くなる。


「あの子が勝手に出ていったのでしょう。私はあの子のためを思って、公爵夫人らしく振る舞えるよう導いていただけです」


「その導き方が問題だと言っている」


「ではあなたは、あの子を止めなかったのですか。書状を読んで笑っていたと、ハンスから聞きましたよ」


書斎の空気が冷える。


二人とも黙った。カミラは唇を引き結び、ルートヴィヒは窓の外を睨んでいる。薔薇の花壇が水浸しのまま放置されていた。散水魔道具はまだ直っていない。


どちらも、自分の非を認める言葉を持っていなかった。ルートヴィヒは「あれが勝手に出ていった」と思っている。カミラは「私は正しいことをした」と信じている。二人の間に、謝罪という選択肢は存在しない。存在したことが、一度もない。だからあの女は出ていったのだが、それを理解する回路も、この母子にはなかった。


カミラが先に口を開いた。


「とにかく、早く呼び戻しなさい。これ以上噂が広がれば、縁談にも差し障ります」


「わかっている」


カミラが出ていった後、側近のヴェーバーを呼んだ。


「公爵夫人を呼び戻す。書状を作れ」


「かしこまりました。奥様のお名前は——」


一瞬、間が空く。


「……公爵夫人だ。公爵夫人宛てで書け」


名前が出てこなかったのではない。名前で呼んだ記憶がないだけだ。食卓では「お前」、来客の前では「うちの妻」、使用人には「奥方に伝えろ」。七年間、この女をエルザと呼んだことが何度あっただろう。婚約の席では呼んだかもしれない。挙式のときも。だが、それ以降は——思い出せない。


名前を呼ばなくても、不都合はなかった。「お前」で通じたから。「公爵夫人」で事足りたから。名前を呼ぶ必要がある関係ではなかった。そう思っていた。


書状の文面を口述する。


「公爵夫人としての責務を果たされたく、速やかにお戻りください。領地の結界維持に支障が生じており、早急な対応を要する」


ヴェーバーが書き終え、読み上げた。感謝はない。謝罪もない。命令と要求だけで構成された三行。ヴェーバーは何も言わず清書にかかった。言えるはずもない。主の書状に口を出せる使用人はこの屋敷にいない。


「明朝、使者を出せ。東部辺境伯領に」


「かしこまりました」


ヴェーバーが退室する。書斎に一人になった。


窓の外は暮れかけている。蝋燭を灯すよう使用人を呼ぼうとして、やめた。少しだけ、暗い部屋のままでいる。


これで片がつく。書状を出せば、あれは戻る。公爵夫人の責務を放り出した負い目があるはずだ。命じれば従う。七年間、そうだったのだから。


常夜灯のない廊下の先に、蝋燭を持った使用人の影が揺れている。その光は弱く、壁の半分も照らせない。


あの灯りがいつから点いていたのかも、誰が点けていたのかも、今になってようやく考え始めている。だが、その思考は「あれを戻せば灯る」で止まる。灯りを作った人間のことには、まだ届かない。届く日が来るのかも、わからない。

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― 新着の感想 ―
さすがにこの二人では、ちゃんとした家令もいなかったわけですねぇ(´;ω;`)
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