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魔道具師だった公爵夫人  作者: 九葉(くずは)


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第5話 正しい名前で呼ばれること

朝から、結界柱の前にしゃがんでいる。


北の森との境界線に沿って並ぶ古い石柱。苔を丁寧に剥がし、刻印を紙に写し取り、魔力残量を一本ずつ掌で測っていく。全三十二本。二日で半分を終えた。


膝の泥を払いもせず、設計図帳を開いて数値を書き込む。並列回路に組み直す場合の最適な配置を、現地の地形と照らし合わせて計算する。谷があれば魔力の伝達に段差が生まれるし、岩盤の種類によって柱の固定方法が変わる。机の上の理論と、足元の土の感触。両方がないと、結界は組めない。


地面に枝で図を描き、消しては描き直した。十三番柱と十四番柱のあいだに沢が走っている。ここは中継器を一つ挟むべきだ。枝の先で沢の幅を測り、帳面に記す。


森の中は静かだった。鳥の声と、風が梢を揺らす音。湿った落ち葉の匂い。ヴァイスハウプト邸にいた頃は、工房に籠もっていても廊下から声が聞こえた。使用人の足音、カミラの笑い声、ルートヴィヒが誰かを叱責する低い声。ここには、それがない。


指先に魔石の振動が伝わる。頭の中に回路図が浮かんで、手が動く。それだけの時間が、こんなに贅沢なものだとは知らなかった。公爵夫人としての務め——社交、食卓、来客の相手——がない分、一日のすべてを設計に使える。肩の力が、少しずつ抜けていくのがわかる。


---


三日目の昼、レオンハルトが現場にやってきた。


馬を木に繋ぎ、結界柱のあいだを歩いてくる。長靴に泥がついている。視察か巡回の帰りだろう。わたくしがしゃがんだまま図面を引いているのを見て、少し離れた場所に立ち止まった。邪魔をしない距離。こちらが顔を上げるのを待っている。


切りのいいところでペンを置き、立ち上がった。膝が泥だらけだ。スカートの裾にも苔がついている。公爵夫人の格好ではない。けれどここでは、誰もそれを気にしない。


「申し訳ありません、まだ全柱の調査が終わっておらず——」


「謝る必要があるのか」


言葉が途切れた。


「予定より早い。三十二本中二十本を三日で終えたなら、一週間で全数いけるだろう。何を謝っている」


口が開いたまま、閉じられない。


何を謝っているのか。わからない。ただ、報告の最初に「申し訳ありません」をつける癖が、七年で身体に刻まれていた。進捗を伝えるときも、提案をするときも、まず謝罪から入る。そうしないと、言葉を遮られた。先に頭を下げておけば、最後まで聞いてもらえる確率が少しだけ上がる。それが七年かけて学んだ処世術だった。


「……癖です。失礼いたしました」


「それも謝らなくていい」


レオンハルトの口調に棘はない。ただ事実を述べている。謝る必要がないから謝るな。それだけのこと。それだけのことが、うまく飲み込めない。


「十三番と十四番のあいだに沢が走っています。中継器を一つ挟む提案をしてもよろしいですか」


「聞かせてくれ」


図面を広げ、沢の位置と中継器の配置を説明する。レオンハルトは黙って聞き、一つだけ質問をした。「中継器の耐水性は確保できるか」。技術的な質問。的確な質問。ヴァイスハウプト家では一度も受けたことのない種類の問いだった。


「石材の選定で対応できます。この地域なら花崗岩が手に入りますから」


「わかった。手配する。他に必要なものは」


「魔石を。十四番柱用の大型が一つと、中継器用の中型が三つ」


「明後日までに届ける」


話が終わると、レオンハルトは馬に戻った。振り返りもせず、さっさと行ってしまう。社交辞令が一切ない。必要な話をして、終われば去る。その無骨さが、不思議と心地よかった。


---


一週間後、東側三本の最初の柱を立てた。起動試験で魔力を注入した直後、基部に亀裂が走った。薄い、しかしはっきりとした線。魔術回路の刻印を横断して、ひびが一筋。


掌を当てると、魔力が漏れている。振動が乱れて安定しない。


粘土質の土壌だ。基礎構造を変えたが、荷重の分散計算を読み違えた。ヴァイスハウプト領の硬い地盤で七年間設計してきた癖が、別の土地で裏目に出た。


ゲルトが少し離れた場所で腕を組んでいる。何も言わない。言わないことが、いちばん堪える。


その夜、宿で設計図帳を開き、荷重計算をやり直す。基部を二重殻構造に変更し、内殻で回路を保護、外殻で荷重を吸収する。朝まで掛かった。


翌日、亀裂の柱を撤去し、新しい設計で立て直す。三本目の起動試験が成功したとき、ゲルトは無言で自分の工房に戻っていった。翌朝、工房の前に銅合金の端材が袋に入れて置いてあった。


三本の結界柱が、淡く光っている。


立ち会っていた領民の男が、息を呑んだ。


「光った……結界が光るなんて、おれが子どもの頃以来だ」


「まだ三本だけです。全体の更新が終わるまでは、北の森には近づかないでください」


「ああ——ありがとう、技師殿」


技師殿。


公爵夫人でも、奥様でも、「変わった趣味の妻」でもない。技師殿。わたくしの仕事を見て、仕事で呼んでくれている。


マルタが結界柱の陰で鼻をすすっていた。手の甲で目元を拭い、気づかれまいとしているが、肩が震えている。


「マルタ。何を泣いているんですか」


「泣いてません。花粉です」


「六月に花粉はありませんよ」


「じゃあ虫です。虫が目に入ったんです」


どう考えても嘘だが、それ以上は追及しなかった。わたくしも少し、目の奥が熱い。こらえているのはお互い様だ。


帰り道、マルタが半歩後ろを歩きながら呟く。


「奥様の仕事が、ちゃんと人に届いていますね」


「……ええ」


ヴァイスハウプト邸でも、わたくしの仕事は人に届いていた。常夜灯は廊下を照らし、保冷庫は食材を守り、結界は魔獣を防いでいた。ただ、届いていることを誰も見ていなかっただけで。


ここでは、見える。光った結界を見て「ありがとう」と言ってくれる人がいる。それだけの違いが、こんなにも大きい。


---


夕方、宿の前のベンチで設計図帳を広げていると、レオンハルトが来た。


視察の帰りらしい。馬の手綱を柱に結び、こちらに歩いてくる。許可も求めず隣に腰を下ろした。軍人の無遠慮さだが、不快ではない。


帳面を覗き込む。


「その帳面、何年分だ」


「七年です」


「七年」


レオンハルトは低く繰り返し、ページを目で追った。初期の設計から最新の結界理論まで、時系列で並んでいる。初期のページは線が荒い。年を追うごとに精密になっていく。


「七年分の頭脳が一冊に詰まっているな」


ページをめくる手が止まる。中盤あたりの、ヴァイスハウプト領の南方結界の設計図。余白に小さく書き込まれた修正メモ。その横に、赤い印。不採用の印だ。ルートヴィヒに提案書を出して、返事がなかった設計。読まれもしなかった設計。


レオンハルトがその印を見たかどうかはわからない。ただ、帳面を閉じて返しながら、ぽつりと言った。


「これを"たかが"と呼んだ人間がいるなら、そいつは技師の価値を測る目が腐っている」


前にも似たことを言われた。けれど今日は、その言葉が胸の少し深いところまで届く。結界が光るのを見た領民の顔。「技師殿」という声。レオンハルトの「七年分の頭脳」という言葉。三つが重なって、胸の奥で何かが緩んだ。締めていた紐が、一本ほどけた感覚。


「少しだけ、お話ししてもよろしいですか」


自分から切り出したことに、自分で驚いた。レオンハルトは腕を組んだまま、正面を向いている。聞く姿勢。


「以前の……婚家では、必要とされていると思っておりました。結界も、常夜灯も、保冷庫も、わたくしが設計して維持していましたから。必要だから、ここにいていいのだと。でも、勘違いだったようです」


山の稜線が赤みを帯び始めている。空気が冷たくなってきた。


「わたくしではなく、わたくしの機能が必要だっただけで。人としては——求められていなかった。それに気づいたのが、七年目でした」


そこで言葉が止まった。まだ整理しきれない。恨みなのか悲しみなのか、それとも単に疲れたのか。名前をつけられない感情が、胸の底に沈んでいる。


レオンハルトはしばらく黙っていた。松の枝を一本拾い、手の中で回している。慰めの言葉を探している沈黙ではない。聞き終えて、考えている沈黙だった。


「ここでは勘違いじゃない」


短い。それだけ。説明も、慰めも、同情もない。一行の事実。


けれど、その一行が必要だった。


---


夜。宿の窓を開けると、辺境の闇が広がっていた。


ヴァイスハウプト領とは違う。常夜灯の並ぶ廊下も、蝋燭を持つ使用人もいない。星が近い。その分、地上は暗い。街道に灯りがなく、夜歩きは危ない。


「灯りが足りない」


口をついて出た言葉に、自分で気づく。


これは感傷ではない。職人の目がそう言っている。街道に灯りがない。旅人が安全に通れない。設置するなら間隔は何メートルで、魔石の容量はいくつで、回路は耐候性の高いものにして——。


設計図帳を開いた。白紙のページに、最初の線を引く。


誰かのためではない。この場所に必要だから、引く線。


ペン先が紙の上を走る音だけが、暗い部屋に響いていた。

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