第4話 灯りが消える
妻が出ていって十日が経ったが、特に不都合はなかった。
その朝、ベルンハルト商会との価格交渉を片づけた。先方が一割の値上げを要求してきたのを、過去三年の取引量推移と南部の競合相場を突きつけて五分に抑え込む。数字が並んだ書面の上では、誰にも負ける気がしない。
朝は執事のハンスが茶を持ってくる。書類は滞りなく回り、来客の応対は母が務める。公爵夫人の不在を訝しむ者には「妻は療養中でして」と伝えてある。
むしろ食卓は快適になった。向かいの席が空いているだけで、朝の空気が違う。油染みの指を見なくて済む。工房にこもる言い訳を聞かなくて済む。書類に集中できる。カミラも「静かになりましたね」と笑っていた。
十一日目の夜、廊下の常夜灯がまた一つ消えた。
「また切れたのか。替えを持ってこい」
使用人のフリッツが首を縮める。
「申し訳ございません。魔力の補充方法が……奥様しかご存じなくて」
「奥様しか、だと?」
「常夜灯の構造が特殊で、魔石の種類も一般の規格品と違うそうです。どの魔石をどこに入れるのか、手順書も見当たりません」
くだらない。灯りの一つや二つ、蝋燭で代わりがきく。
「蝋燭を使え。技師は明日呼べ」
翌日。廊下を歩くと、消えた常夜灯が三つに増えていた。西棟の角を曲がったところが暗い。蝋燭立てが代わりに置かれているが、燃え尽きかけて蝋が台座に溜まり、焦げた匂いがする。火気を嫌う書庫の前にまで蝋燭が並んでいるのを見て、さすがに顔をしかめた。
「ハンス。技師はどうした」
「本日午後に参ります」
「遅い」
午後、街の魔道具技師が来た。若い男が常夜灯を一つ外し、しばらく調べてから首を傾げた。
「これは……回路設計が独自ですね。魔石の接合部が通常と逆配置になっています。普通の補充方法では魔力が通りません」
「では、直せるのか直せないのか」
「正直、設計者に聞かないと安全な補充手順がわかりません。下手に触ると回路が焼けます」
使えない技師だ。
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十四日目の朝。
湯殿に入ると、水が冷たかった。
蛇口を捻り直す。変わらない。石造りの浴槽に掌を当てると、壁面まで冷え切っている。温水魔道具が完全に止まっている。
シャツのまま廊下に出て、ハンスを呼びつけた。
「湯が出ない。いつからだ」
ハンスの表情が、わずかに強張る。
「昨晩から温度が下がっていると、湯殿担当の者が申しておりました。奥様が毎週、魔石の交換と回路の調整をされていたそうですが——」
「なぜ引き継がせなかった」
声が廊下に響いた。フリッツが足を止め、壁際に避ける。
ハンスは一拍の間を置いて、答えた。
「引き継ぎのご指示は、いただいておりませんでした」
知っている。そんな指示を出したことはない。だが、それは——あの女が自分で段取りすべきことだ。出ていくなら、引き継ぎくらい済ませてから出ていくのが道理だろう。
「水風呂では困る。街の技師を呼べ」
「先日の技師には断られております。常夜灯と同様、独自設計のため手が出せないと」
こめかみが熱くなる。
その日は結局、使用人に湯を沸かさせて桶で運ばせた。公爵家の当主が、桶の湯で身体を洗う。話が知れたら社交界の笑い種だ。湯殿の石壁は冷たく、桶の湯はすぐにぬるくなった。
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十六日目。厨房が異様に騒がしい。
料理長が蒼い顔で書斎に来た。エプロンに染みがついている。普段この男は、身なりを乱して表に出る人間ではない。
「旦那様、保冷庫が——」
保冷庫。厨房の地下にある、食材を低温で保存する大型魔道具。
「昨日の昼あたりから温度が上がり始め、今朝には完全に停止いたしました。肉類と乳製品は……もう使えません」
腐った肉の匂いが、料理長の服の繊維に染みついている。書斎の空気が淀む。
「市販品に替えろ」
「それが、奥様の保冷庫は庫内の寸法も魔石の規格も特注でして。市販品を入れるには地下室の壁を壊して工事が必要になります。工期は——」
「工期はいい。今の問題を言え」
三日後にグレーフェンベルク伯爵を招いた晩餐会がある。献立はすでに決まっている。鹿肉のローストに三種のチーズ。どれも冷蔵が必要な食材ばかりだ。
「氷で凌げ。三日だけ持てばいい」
「かしこまりました。ただ、この季節に大量の氷を手配するとなりますと——」
「費用のことなら構わん。手配しろ」
料理長が下がった後、書斎の椅子に深く座った。机の上の書類が目に入るが、頭に入ってこない。窓の外は晴れている。何事もないような空の青さだけが、やけに腹立たしかった。
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その夜。
ハンスは執事室の机に向かい、帳簿を開いた。
屋敷内の不具合を記録する業務日誌。この十日で書き込んだ項目を、改めて一覧にしてみる。
常夜灯——停止十二基(全五十三基中)。温水魔道具——完全停止。保冷庫——完全停止。洗濯室の乾燥魔道具——出力低下。庭園の散水魔道具——タイマー狂い。書庫の除湿魔道具——異音。来客用応接間の空調——温度制御不能。
ペンが止まった。
書き出してみて初めて、その数に息を呑む。これが全部、奥様一人の手で管理されていた。設計も、設置も、日常の保守も。週に一度の魔石交換、月に一度の回路点検、季節ごとの出力調整。七年間、一日も欠かさず。
使用人の誰もその作業を見ていなかったわけではない。廊下で脚立に乗り、常夜灯の蓋を外している奥様の姿は何度も見かけていた。深夜に工房の灯りが点いていることも知っていた。ただ、それが何のための作業で、やめたらどうなるかを、誰一人考えなかった。
旦那様が「使用人でもできる仕事」と仰っていた。使用人であるこちらも、そう思い込んでいた。実際には使用人の誰にもできない仕事だったのに、異を唱える者はいなかった。旦那様の言葉が正しい。それがこの屋敷の秩序だった。
帳簿を閉じ、蝋燭の灯りを見つめる。炎が揺れて、壁に影が踊った。常夜灯が点いていた頃は、蝋燭など手に取ることもなかった。あの安定した琥珀色の光が、いかに静かで確かなものだったか。失ってから知るのは、いつも遅い。
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十九日目。王都から魔道具技師が到着する。
ギルド所属の熟練技師で、白髪交じりの初老の男。屋敷中の魔道具を二日かけて調査し、三日目の午後、書斎にやってきた。分厚い報告書を小脇に抱えている。
「報告いたします。まず結論から申しますと、この屋敷の魔道具群は全て独自設計です。市場に流通している規格品とは回路構成が根本的に異なります」
「つまり」
「設計者本人でなければ、安全な保守は困難です。全面的に既製品へ交換するとなりますと——」
技師が見積書を差し出した。
数字を見る。二度見る。数字に強い目は一桁も見逃さない。だからこそ、この額が何を意味するか瞬時にわかる。年間予算の配分が頭の中で崩れていく。
「……この額は」
「常夜灯五十三基、温水魔道具三系統、保冷庫、乾燥器、除湿器、空調、散水機構。全て撤去・新規設置で、工期は最低四か月です。なお、領地の結界系統は別途お見積もりとなります」
四か月。その間、この屋敷はまともに機能しない。客は招けない。商談もできない。しかもこの額は屋敷内の魔道具だけで、防衛結界を含んでいない。結界まで入れたら、いくらになる。
「……結界の見積もりも出せ」
「承知いたしました。ただ、拝見した限り結界の設計も相当に高度です。これほどの設計ができる技師は、ギルドにも数えるほどしかおりません。率直に申し上げて、設計者ご本人に保守をお任せになるのが最善かと」
設計者本人。あの女。油臭い手で常夜灯をいじっていた、あの女に。
「出ろ」
技師が一礼して退室した。
書斎に一人残る。見積書の紙を握った。皺が入る。指に力がこもる。
たかが道具。
その「たかが」の修繕に、年間予算の何割を食われるのか。あの女が黙ってやっていた仕事の値段を、今、紙の上の数字で突きつけられている。
見積書を机に叩きつけ、椅子の背に体重を預ける。天井を睨んだ。薄暗い。書斎の空調も止まっているから、空気が重い。
「……あの女、今どこにいる」
声が、思ったより低く出た。
ハンスを呼ぶ。
「妻の——公爵夫人の所在を調べろ。実家に問い合わせろ。すぐにだ」
「かしこまりました。……お呼び戻しになりますか」
「当然だ。あれが撒いた種だ。あれに片づけさせる」
ハンスが一礼して下がる。扉が閉まり、書斎に静寂が戻った。
窓の外で、庭園の散水魔道具が狂った間隔で水を撒き続けている。薔薇の根元が水浸しだった。花弁が重みで垂れ、何本かは根ごと傾いている。止め方を知る者は、もうこの屋敷にいない。
暗くなった廊下を、蝋燭の灯りだけが揺れている。常夜灯がまた一つ瞬き、消えた。蝋燭の替えも、そろそろ足りなくなり始めていた。




