第3話 東の辺境にて
七日かけて、東部辺境伯領の入口にたどり着いた。
街道の石畳がいつの間にか途切れ、踏み固められた土の道に変わっている。道の両脇に背の高い針葉樹が続き、木漏れ日が地面にまだらな影を落としていた。空気が違う。ヴァイスハウプト領の乾いた風とは比べものにならないほど、水の気配が濃い。
「奥様、あれが辺境伯領の関所です」
マルタが前方を指す。木造の門と、その脇に立つ兵士が二人。公爵領の石造りの関所に比べれば、簡素を通り越して頼りない。門柱の上に据えられた結界灯が、一つ消えていた。
父方の遠縁にあたるブレンナー家は、辺境伯領の東端で小さな薬種商を営んでいる。突然の訪問にもかかわらず、当主の老婦人は「まあ、シュトゥック家のお嬢さん」とだけ言って、離れの部屋を空けてくれた。事情は聞かなかった。聞かないでいてくれる人の優しさが、喉の奥に沁みる。
離れの窓から見える景色は、森と、遠くにうっすら霞む山脈。花壇も噴水もない。手入れされた庭園の代わりに、野草が石垣の隙間から伸びている。何もかもが公爵家の屋敷とは違う。
けれど窓を開けると、冷たい山の空気が肺の底まで入ってきた。深呼吸をしたのは、何か月ぶりだろう。ヴァイスハウプト邸では、いつも胸の上のほうだけで浅く息をしていた気がする。
マルタが荷を解きながら言う。
「ずいぶんと、端っこまで来ましたね」
「ええ」
「でも、空気はいい。お屋敷より息がしやすい」
否定はできなかった。
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辺境伯領の街は、あちこちにほころびがあった。
翌日、買い出しのために中心部へ出ると、それがよくわかる。街灯の半分が消えている。水汲み場の浄水魔道具は錆びつき、水に薄く濁りが混じっていた。市場の保冷棚は動いておらず、肉屋が氷を直接載せて凌いでいる。
宿に戻ると、部屋の暖房魔道具が止まっていた。
壁に据えつけられた旧式の温風器。外装の金属板に触れると、冷たい。魔石は入っているが、回路の接合部が腐食して魔力が通っていない。
マルタが宿の主人を呼びに行っている間に、鞄から設計図帳を取り出した。帳面の後ろに挟んである簡易工具——小型のやすりと、魔石用の調整針。公爵家の工房から持ち出したものではない。旅の途中、自分の路銀で買った。
外装板を外す。腐食した接合部を削り、魔術回路を露出させる。回路自体は生きている。接合部に調整針で魔力を通し直し、腐食箇所をやすりで慣らしてから、再接合する。
温風器が低く唸り、温かい空気が掌を撫でた。
宿の主人が戻ってきたとき、部屋はすでに暖まり始めていた。太った中年の男が目を丸くする。
「あんた、これ直したのかい。三か月ずっと壊れっぱなしで、技師を呼ぶ金もなくて——」
「接合部の腐食です。回路は無事でしたから、大した修理ではありません」
「大したことないって……うちの技師が匙を投げたやつだぞ」
主人は何度も頭を下げ、宿代を値引くと言い張った。マルタが「ではお言葉に甘えて」と即答し、わたくしより先に話をまとめてしまう。
その夜、主人が常連客に話したらしい。翌朝には「魔道具を直せる女性がいる」という噂が、市場を一周していた。
三日目の午後、宿の一階で太い声がした。
「だから言ってるだろう、よそ者に触らせるなと」
階段の下に白髪の老人が立っている。革のエプロン。腕が太く、手に鍛冶の煤がこびりついている。街の鍛冶師ゲルト。温風器の修繕はもともとこの男の仕事だったらしい。
わたくしが降りていくと、ゲルトの目がこちらに向いた。
「貴族の奥方が魔道具いじりとはご酔狂だな。で、接合部を削って再接合したそうだが、あれじゃ半年で同じところが壊れる。削った分、肉厚が足りなくなる」
指摘は正しかった。応急処置としては問題ないが、長期的には補強が要る。
「おっしゃる通りです。補強材を入れれば持ちますが、適切な素材が手元にありませんでした」
ゲルトが目を細めた。反論を予想していたのか、技術的な返答に少し面食らっている。
「……ふん。うちの工房に銅合金の端材がある。勝手に使え。ただし、わしの客を取るな」
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五日目、辺境伯レオンハルト・グラーフ・ツィンマーが宿に来た。
軍用の鞍。手入れの行き届いた革具。客間に通されると、窓際に男が立っている。長身で、日に焼けた肌。軍服ではないが、立ち姿に軍人の癖が残っていた。背筋の張り方、足の開き幅。
わたくしを見て、一歩前に出る。
「レオンハルト・グラーフ・ツィンマー。東部辺境伯だ」
領主が直接来る。宿の温風器一つで、領主が。
「……シュトゥック——エルザと申します」
旧姓が口をついて出た。ヴァイスハウプトと名乗る気にはなれなかった。
レオンハルトは名乗りの不自然さに気づいたはずだが、追及しない。代わりに、いきなり本題を切り出した。
「領地の結界が限界だ。北の森から魔獣が漏れ出している。結界を直せる技師をずっと探していた。あんたが魔道具を直したと聞いた」
「宿の温風器を修理しただけです」
「それだけじゃないだろう。腐食した接合部を再接合したと聞いた。旧式の温風器の回路構造を、見ただけで把握できる人間はそういない」
鋭い。この男は技術の話がわかる。
「結界を見てほしい。北の森との境界線に沿って設置されているが、もう二十年以上前の設計だ。劣化が激しくて、部分補修では追いつかない。現状を見て、意見を聞かせてくれないか」
命令ではなかった。依頼の口調。ただし目は真剣で、社交辞令の温度ではない。
「……少し、お時間をいただけますか。現地を見ないことには、何も申し上げられません」
「もちろんだ。明日、案内する」
話が早い。公爵家では提案書を出しても半年放置されたのに、この人は翌日に現場へ連れていくと言う。
翌日、レオンハルトの案内で北の森の結界線を歩いた。
森の中は薄暗く、地面に苔が厚く生えている。靴底が沈む柔らかさ。湿った土と枯葉の匂いが鼻を突く。結界柱は等間隔に立っていたが、苔と蔦に覆われ、魔術回路の刻印がほとんど読めない。指で苔を剥がすと、下の石材自体にひびが入っている柱もあった。
魔力の残量を手で測る。掌を柱に当てると、微弱な振動が伝わってくる。健全な結界なら心臓の鼓動のような力強い脈動があるはずだが、これは老人の脈のように弱く、途切れがちだ。設計値の二割を切っている箇所がいくつもある。
「ここの回路、基礎設計から問題があります。魔力の循環経路が直列で、一か所が劣化すると全体の出力が落ちる構造です」
「直列?」
「並列に組み直せば、部分劣化が全体に波及しません。補修ではなく、設計ごとやり直したほうがいい」
言い切ってから、口が過ぎたと思った。公爵家では、こういう断定的な物言いをすると「女のくせに」と遮られる。
レオンハルトは遮らなかった。
「設計ごと、か。図面は引けるか」
「お見せしましょうか」
鞄から設計図帳を取り出す。結界設計のページを開いた。ヴァイスハウプト領の南方結界を設計した際の基礎理論と、並列回路の構造図。
レオンハルトが一歩近づき、帳面を覗き込む。ページを繰る許可を目で求め、わたくしが頷くと、丁寧に一枚ずつめくっていった。指先は荒いが、扱いは慎重だった。
しばらく無言が続いた。森の風が木々を鳴らしている。
「……この設計思想、全部あんたが考えたのか」
「ええ」
「この回路効率の計算、見たことがない。学術院の技師とは発想が違う」
レオンハルトは帳面から顔を上げた。目の色が変わっている。先ほどまでの冷静な領主の顔ではなく、技術を前にした人間の目。
「提案がある。東側の結界柱三本だけ、あんたの設計で更新してくれ。それで結果が出れば、全面刷新の契約を組む。報酬は正規の技師待遇で払う」
一拍置いて、付け足した。
「三本だけだ。まずはそこからだ」
試されている。帳面一冊を見ただけで全幅の信頼を置く人間がいたら、そちらのほうが危うい。むしろ、この慎重さのほうが信用できた。
「……お受けいたします。まず現状の全結界柱の調査から始めさせてください」
レオンハルトが頷いた。握手は求めなかった。「結果が出たら」。それだけ言って踵を返す。
帰り道、レオンハルトが不意に振り返った。
「あんたの設計図帳、あれは大したものだ。"たかが"とは言えない代物だな」
足が止まる。
「たかが」。
その一語が耳の奥で反響して、一瞬、別の声が重なった。欠伸混じりの、あの声。
「……ありがとう、ございます」
ぎこちない返事だったと思う。レオンハルトは気にした様子もなく、前を向いて歩き出した。
宿への帰り道、マルタが隣を歩きながらこちらの顔を覗き込む。
「奥様。目が赤いですよ」
「風のせいです」
「はいはい。風のせいですね」
マルタはそれ以上何も言わず、半歩後ろに下がった。
夕暮れの辺境の空は、ヴァイスハウプト領より広い。何にも遮られない空の端が、薄い橙色に染まり始めていた。




