第2話 設計図帳の最後のページ
マルタに声をかけたのは、日が落ちてからだった。
自室の扉を閉め、侍女が茶器を下げるのを待つ。カップの湯気が消えてから、口を開く。
「マルタ。明日の朝、この屋敷を出ます」
茶器を持つ手が止まる。カップが受け皿の上で小さく鳴った。
マルタはわたくしを見た。何かを言いかけ、唇を引き結び、それからもう一度開く。
「……いつから、お考えでしたか」
「昨夜」
嘘ではない。設計図帳の最後のページに行き先の候補を書き込んだのは昨夜のことだ。ただ、もっと前から身体のほうが知っていた気もする。常夜灯の巡回に行かなかった足。試作品のあった棚の空白を見つめたときの、あの奇妙な凪。怒りですらない。もう波が立たない。
「行き先はお決まりで」
「東部辺境伯領に、父方の遠縁がいます。しばらく身を寄せるつもりです」
マルタは茶器をテーブルに置き直した。受け皿の縁を指先でなぞり、一度だけ深く息を吐く。それから背筋を伸ばし、いつもの声で言った。
「わたしもお供します」
「無理についてこなくていい。あなたはヴァイスハウプト家の使用人です。わたくしと出れば籍を失います」
「奥様。七年間お茶を淹れてきた人間が、今さら他の方のカップなど洗えませんよ」
困った言い方をする。断る理由を、こちらに与えない。けれどその声の端が、わずかに震えていた。
「……荷物は最小限にしてください。馬車は使えません」
「承知いたしました」
マルタは茶器を持ち上げ、いつも通りの足取りで部屋を出ていく。扉が閉まる直前、廊下の灯りが彼女の横顔を照らす。目元が赤い。それでも歩調は崩さなかった。
この七年、わたくしの代わりに怒り、代わりに泣いてくれたのは、いつもこの人だ。
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翌朝。空がまだ灰色のうちに目を覚ました。
着替えは旅装に近いものを一着だけ選ぶ。宝飾品の箱は開けない。婚姻時にヴァイスハウプト家から贈られたものだ。首飾りも、耳飾りも、すべて置いていく。鏡の前に立つと、装飾のない自分の顔がある。七年前に嫁いできた日と同じ。何も持たずに来て、何も持たずに出る。
鞄の中身を確認した。着替え。日用品。路銀はわたくしの実家から持参した分の残りだけ。七年暮らした屋敷なのに、自分のものが片手で数えられる。
工房に寄る。
道具は棚に並んだまま。精密やすり、魔石研磨機、回路焼成用の炉。どれも手に馴染んでいるが、全部、公爵家の費用で購入したもの。指先で作業台を撫でた。木目の凹凸。染みついた油の匂い。爪で引っ掻いた試作の跡が、台の隅に残っている。三年前、焼成を失敗して悔しくてつけた傷だ。指先に触れると、凹みの深さがわかる。あの夜の力加減まで、木が覚えている。
七年分のわたくしがこの台の上に積もっている。拭いても消えないだろう。わたくしの指の黒ずみと同じだ。
棚の隅に、常夜灯の予備が一つ残っていた。
手に取る。掌に収まる大きさ。初期型で、光量は弱い。一番最初に作った試作品。まだ魔術回路の設計が荒くて、光が少し青みがかる。完成品に比べれば不恰好な出来だが、捨てる気にはなれず、ずっとここに置いてある。
鞄に入れかけて、やめた。
棚に戻す。これも、公爵家のために作ったもの。持ち出すものは、わたくし自身のものだけにする。
作業台の脇に置いてあった設計図帳を鞄に入れる。擦り切れた革表紙の重み。油染みの匂い。これだけが、わたくしの七年そのものだ。ルートヴィヒがなんと言おうと、これは公爵家の備品ではない。わたくしの頭の中身を写し取った、わたくしだけのもの。
工房の扉を閉めた。鍵はかけない。もう、わたくしの部屋ではないから。
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書斎の机の上に、封書を一通置く。
ルートヴィヒは別棟で寝ている。この時間に書斎へ来ることはない。
封筒の表に「公爵閣下」とだけ記した。中の便箋には三行。
「公爵夫人の座をお返しいたします。工房の道具類は置いてまいります。設計図帳は私物につき、持ち出します」
感情的な言葉は一字もない。下書きもしなかった。書くべきことが三つしかないのだから、迷う余地もない。
七年分の不満を書こうと思えば、便箋の束がいくつあっても足りない。飲み込んだ言葉。試作品を「たかが道具」と呼ばれた夜。応接間で「変わった趣味」と笑われた午後。食卓で手を隠した朝。全部書いたところで、この便箋を読む人間は「また癇癪か」と鼻で笑うだけだ。
感情は、受け取る側に回路がなければ届かない。
便箋を封筒に入れ、机の上に置いた。万年筆の隣。書類の山の手前。ルートヴィヒの書斎は整然としている。帳簿は日付順に並び、インク壺の位置まで決まっている。この几帳面さが領地経営を支えていた。一桁の狂いも見逃さない目が、七年間同じ屋敷にいた妻の仕事は一度も見なかった。
もっとも、「嫌でも」という感覚がこの人にあるかどうかは、別の問題だが。
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裏口の扉は重かった。
鉄の把手が冷たい。朝の空気が頬を打つ。五月だが、夜明け前はまだ肌寒い。石畳に薄く露が降りていて、靴底がわずかに滑る。
マルタが通用口の脇に立っていた。小さな鞄を一つだけ肩にかけ、頬が赤い。冷気のせいか、昨夜の続きか。どちらにしても、何も言わずにわたくしの隣に並ぶ。
門までの石畳を歩いた。使用人用の通用口から出る。正門を使う理由はない。公爵夫人が正式に退去するなら馬車を仕立てて正門から出るのが礼儀だろう。でもこれは正式な退去ではない。
ただ、いなくなるだけ。
振り返らなかった。振り返れば、常夜灯の並ぶ廊下の窓が見えてしまう。あの灯りが昨夜も点いていたかどうか、わたくしは知らない。巡回に行かなかったから。知らないままでいい。
街道に出ると、荷馬車が一台、東に向かって走っていく。御者の横で商人らしい男が欠伸をしていた。世界は普通に朝を始めている。わたくしが屋敷を出たことなど、誰も気づかない。
それでいい。常夜灯と同じだ。正しく灯っているあいだは意識されない。消えても、しばらくは気づかれない。
「奥様」
マルタが半歩後ろから声をかけた。
「はい」
「街道の途中に宿場がございます。今日はそこまでにいたしましょう」
実務的な声。泣いた痕を見せない配慮。ありがたかった。
「ええ。そうしましょう」
砂利を踏む音だけが、しばらく続く。空の灰色が少しずつ薄くなり、東の山の稜線がうっすらと見え始めている。
鞄の中で設計図帳の角が腰に当たる。歩くたびに、とん、と小さく触れる。重くはない。けれどこの重さだけが、今のわたくしの全部だった。
公爵夫人という肩書きを外したら、何が残るのか。答えは鞄の中にある。油染みだらけの革表紙と、七年分の線と数字。それだけ。
それだけで、十分なはずだ。
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昼過ぎ。ヴァイスハウプト公爵邸、書斎。
ハンスが封書を盆に載せて持ってきたとき、ルートヴィヒは商会からの報告書に赤を入れていた。
「旦那様。奥様の書斎にこちらが」
封筒を手に取る。「公爵閣下」の文字。妻の筆跡。封を切り、便箋を広げた。三行。
読み終えて、鼻で笑う。
「何を拗ねている。二、三日で戻るだろう」
便箋を封筒に戻し、引き出しを開けて放り込んだ。引き出しの奥で、別の封筒が下敷きになる。半年前にエルザが提出した結界改良の提案書だ。一度も開かれないまま、封の端にうっすら埃がかぶっている。
ルートヴィヒはそれに気づかず、引き出しを閉めた。
「ハンス。放っておけ」
「……かしこまりました」
ハンスが下がった後、午後の執務に戻る。領地南方の巡回報告。商会との取引更新。晩餐の献立確認。妻が一人いなくなったところで、回らない仕事など何もない。
そのはずだった。
夕刻、カミラが書斎を訪れた。噂はもう屋敷中に回っている。
「聞きましたよ。あの子、出ていったんですって?」
「癇癪でしょう。すぐ戻ります」
「まったく。あの子は昔から癇癪持ちでしたから。放っておきなさい」
母子は二言三言交わし、それぞれの部屋に戻った。
その夜。ルートヴィヒは自室への廊下を歩いた。蝋燭を持つ使用人が前を行く。いつもなら常夜灯があるから先導は要らないが、今夜は廊下の灯りが、いくつか消えていた。足元の影が濃い。
「灯りが切れているな。替えておけ」
「申し訳ございません。魔力の補充の手順が……担当の者に確認いたします」
「担当?」
「奥様が……」
使用人は途中で口をつぐみ、「確認してまいります」と頭を下げた。
ルートヴィヒは不機嫌に鼻を鳴らし、蝋燭の揺れる灯りを頼りに寝室へ向かう。足元に蝋の雫が落ち、石畳に小さな染みを作った。常夜灯があった頃は、こんなものは要らなかった。だが、それがいつから灯っていたかなど、考えたこともない。
たかが灯りだ。明日には直る。
暗い廊下の向こうで、もう一つ、常夜灯が瞬いて消えた。




