第6話 一線を超える二人
その日の晩。
夕食の食卓を囲む空気は、いつもと何一つ変わっていなかった。
父と千鶴さんは他愛もない会話で笑い合っており、僕の斜め向かいに座る城崎さんは、淡々と箸を動かしている。
学校で起きたあれは夢だったのだろうかと思えるほど、彼女からアクションはなく。
結局、一言も話すことなく夕食を済ませた。
(仲良くなれたら嬉しいけど、そう簡単にはいかないよな)
そんなことを思いながら、ぼんやりとドアを開けると。
「……え?」
カーテンのこちら側。
僕の机の後ろにあるパイプベッドの上で、城崎さんが当たり前のような顔をして腰掛けていた。手にはスマートフォンを持ち、つまらなさそうに弄っていた。
(……な、何で僕のベッドにいるんだ?)
頭をぽりぽりと掻きながら、しばし立ち尽くす。
しかし、城崎さんはこちらに無関心で。短パンから伸びる白い脚を投げ出したまま、顔をあげようともしない。
声をかけようかと思ったが、下手に機嫌を損ねられるのも怖い。これには彼女なりの意味があるのだろう。
僕は関わらないのが一番だと判断し、見て見ぬふりをして机の椅子に腰を下ろした。
「……あれ?」
思わず、間抜けな声が漏れた。
確実に電源OFFにしたはずのデスクトップPCが、煌々と光を放っている。
しかも画面に表示されているのはゲストアカウントではない。僕が普段使っている、メインアカウントのデスクトップ画面だった。
背筋をツッと冷たい汗が伝う。
なぜメインアカウントでログインされているのか。
恐る恐るブラウザの画面に目をやると——そこには、電子書籍サイトの購入履歴画面が開かれていた。
並んでいる表紙の数々。
『生意気ギャル完全敗北』
『僕の隣のギャルがこんなにムチムチでエロいわけがない』
『お兄ちゃん、エッチしよ』
……僕の秘蔵の購入履歴。ギャルと妹モノの同人が、壮観なまでにずらりと勢揃いしていた。
血の気が一気に引いていく。
ぎぎぎ、と油の切れたブリキ人形のように首を横へ向けると、城崎さんがニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「パスワード、あんたの誕生日だったから一発で見破れたわ」
「な、ななな……っ!?」
「……相当な変態ね」
あまりの事態に声が裏返る。
(そ、そういえば……)
ログインパスワードは毎回打ち直すのが面倒だから、数字四桁にしていたんだった……。
しかし、彼女が僕の誕生日を知っていたとは。
「ち、違う! これはただ、まとめ買いセールで安かったから適当に買っただけで——」
「へぇー? その割には、ずいぶん昔の旧作から最新作まで綺麗に揃いすぎじゃない? そんな都合良く、ギャルと妹ばっかりセールになってるわけ?」
「うっ……!」
鋭いツッコミに言葉に詰まる。
そんな僕の動揺を逃すはずもなく、城崎さんは楽しそうに目を細めて追い打ちをかけてきた。
「どうりで初顔合わせの時、だらしなく顔が緩んでいたわけね」
「いや、それは元々でして……いつもこんな顔しているじゃないですか……」
「学校でもチラチラ私のこと見てくるし、変だと思ったのよ。私が妹になるって決まった時から興奮してたんでしょ」
「そ、そんなわけないだろ! (クラスメートになった時から興奮してたよ!)」
必死に両手を振って全力で反論する僕を見て、城崎さんはベッドからふわりと身を乗り出した。
そして僕の手元からマウスをひょいと横取りすると、手慣れた手つきでカチカチとホイールをスクロールさせた。
「ふーん……じゃあこれ何よ? 『金髪ギャルの義妹が〜』って……これなんて、私そっくりじゃない」
「ぐっ……!?」
画面いっぱいに表示された、金髪ロングのツンツンした白ギャルものAV。
おっしゃる通り、これは城崎さんに似ている女優、設定を血眼になって探しあてた一品である。
しかし、まさか本人に突きつけられる日が来るとは。
悶絶して頭を抱える僕を見下ろし、城崎さんは満足げにふっと笑った。
「ふふっ。これであんたにも弱みができたわけね。……くっくっくっ」
(お、恩を仇で返すとは……この妹)
完全にマウントを取り終えた彼女は、機嫌良さそうにベッドに寝転ぶ。
「まあ、それはいいわ。あんたも年頃の男だしね。一人で何見てしごいていようが、私には関係ないし」
「ぅう……」
「その代わり……黙っていてあげるからさ……」
そこまで言って、彼女はベッドのシーツをポンと叩いた。
「これからも私、こっちで寝させてね」
「こっちって……まさか僕のベッドで?」
「うん」
「な、なんで?」
「昨日久しぶりに熟睡できてさ、めちゃくちゃ気分いいのよ。随分寝心地も良かったし。多分中丸のマットレスだけちょっと高いもん使ってるんじゃないの?」
「そ、そんなわけ……」
「まあ、もうどうでもいいけど。だから今日からあんたのベッドで寝る。これから抱き枕係として頼むね、よろしく」
「いやいやいや、ちょっと待って……って抱き枕係って何!?」
唐突な申し出に思わず声を荒げてしまう。昨日一日ですら眠れずに死にかけたというのに。これから毎晩だって?
それに抱き枕係なんて聞いたこと無いぞ。
僕は椅子から立ち上がり、思春期の男子高校生としての切実な苦しみを熱弁することにした。
「昨日どれだけ大変だったか分かってる!? 女の子に後ろから抱きつかれて、心臓が破裂しそうになって、僕、朝までほぼ一睡もできなかったんだよ!」
「な……っ!」
城崎さんは耳の先まで一瞬で真っ赤に染め上げると、枕を抱え直してキッと僕を睨みつけた。
「なっ……ね、寝れなかったってあんた……じゃあ一晩中私の寝息を聞いていたわけ……い、嫌らしい!」
「嫌らしいって……。嫌らしく抱きついてきたのは城崎さんじゃないか」
「変な意味じゃないし! こっちは本当に寝たかっただけなんだから!」
「いや、だからそれが嫌らしいことで……」
「もういいから黙ってて!」
逆ギレである。理不尽極まりない。
それでも、これ以上何を言っても無駄だと悟った僕は、深くため息を吐いて再び机に向かった。
とりあえずPCの電源を落とし、机に突っ伏す。
こうなったら、彼女が先に眠りに落ちるのを待ってから寝るのが賢明だろう。そう腹を括って時間を潰すことにした。
だが——夜の九時半を回った頃。
「……ちょっと」
背後から、低く呼び止める声がした。
振り返ると、城崎さんはもう既に横になっており、ポンポンと自分の隣のシーツを叩いていた。
「もう寝るから。早く来なさいよ」
「えぇ……」
こんな姿、クラスメートに見られたら恥ずかしくないだろうか。親と寝ているよりヤバいと思うんだけど。
ベッドを叩きながら呼び寄せる行為なんて……彼氏彼女みたいじゃないか。
僕はいいけどさ。城崎さんが後からことの重大さに気づいて発狂しないかだけが気がかりだった。
でも、抗う術はなく、僕は諦めてベッドへと向かった。
隣に潜り込み、とりあえず天井を見上げるように仰向けになって布団を被る。
すると、横にいた城崎さんが「ちょっと」と不満げに声を上げた。
「それじゃ掴みにくいじゃない」
「え? なんで……? 横向きと何が違うの?」
「これじゃ……まるで。う、腕枕じゃない。カップルみたいに見えるでしょ」
(二人同じ布団に入ってる時点でカップルみたいですよ……)
喉元まで出かかった正論を必死で飲み込み、僕は言われた通りに昨夜と同じ姿勢を取ることにした。
彼女に背を向け、壁側を向いて横になる。
だが——背中を向けた瞬間、首から肩にかけてズキリと鈍い痛みが走った。
「……ぃっ!?」
昨夜、彼女を起こさないようにと全身を硬直させたまま何時間も動かなかったせいで、猛烈な筋肉疲労が残っている。
この体勢のままもう一晩過ごすのは、肉体的に耐えられそうにない。
場所を交代してもらおうか——そう考えた時、僕の頭の中にふと、一つの悪知恵が閃いた。
ここまで散々好き勝手に振り回されてきたのだ。少しぐらい、美味しい思いをさせてもらったところでバチは当たらないだろう。
「あのさ、城崎さん」
「……なに」
「向かい合う形にしない?」
言った瞬間、空気が凍りついた。
城崎さんはカッと顔を沸騰させ、掛け布団を胸元まで引き上げた。
「はぁっ!? 向かい合うって……へ、変態! 何言ってんのよ!?」
「いやいや、聞いてくれって! 昨日は動けずに同じ姿勢のまま固まってたから、肩がめちゃくちゃ痛いんだよ。このままじゃ朝まで持たない」
「な、なら私がそっちに行けばいいじゃない」
「それだと……城崎さんが壁側に来るから、万が一僕が変な気を起こしたときに逃げ場がなくなるよ?」
わざと下手に出て、相手を気遣うような真面目なトーンで説明する。
「逃げ場って……あんた何する気なの!?」
「何もしないよ。昨夜だって何もしなかったでしょ? ただ城崎さんの安全を考えてるだけだよ。それに、僕が外側に行くとベッドから落ちるかもしれないし」
尤もらしい理由を重ねていくと、城崎さんは悔しそうに唇を噛み締め、視線を泳がせ始めた。
そして数秒の葛藤の末、観念したように自分のバッグをごそごそと漁り、何かを取り出した。
「……分かった。ただし、これをつけて」
「……アイマスク?」
突き出されたのは、黒いシルクのアイマスクだった。
城崎さんのものだろうか。しかし……。
(まさかこんなに上手くいくとは、意外とチョロいところがあるんだな)
僕は内心でほくそ笑みながら、素直にアイマスクを目元に装着した。
視界が、完全な暗闇に閉ざされる。
だが——悪くない。
目が見えなくなった代わりに、別の感覚が研ぎ澄まされる。
すぐ間近で聞こえる、彼女の衣擦れの音。
鼻腔をくすぐる、甘いシャンプーの匂い。
そして、背中越しでは味わえなかった、顔を撫でる吐息の熱。
(……う、これは……やばい)
そして、少しの躊躇いのあと、思い切ったように、柔らかな重みが僕の胸元へと飛び込んできた。
ぎゅっ、と全身で抱きしめられる。
母親を思って、背伸びをして手放してしまったあの猫のぬいぐるみの代わりに、今彼女は僕を掴んでいる。安心感を求めるように、空虚な胸元を埋めるように。
首の後ろに細い腕が回され、腰には彼女の足がしっかりと絡みついてきた。
コツン、とお互いの額が触れ合う。
「……ふぅ」
息を吸うたびに、吐息が口元へと流れ込んでくるほどの至近距離。
(自分で言っておいてなんだけど……やり過ぎたなこれは)
ちょっと良い思いをしてやろうと企んだ結果、昇天してしまいそうなシチュエーションを作り出してしまった。
狙い通りといえば狙い通りなのだが。刺激が想像の数百倍である。
心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。
これは、もう大人しく彼女の感触を堪能しながら、再び眠れぬ夜を過ごすしかない。
それに値するだけの至福は、確かにある。
「……」
「……」
しかし。
「……」
「……」
待てども待てども彼女の寝息が聞こえてこない。
昨日は驚くべき速さで熟睡へといざなわれたはずだが。
今日は、もぞもぞと落ち着きなく身じろぎを繰り返している。
(これじゃ、ただハグしてるだけになってしまうな)
そんなことを思っていると、至近距離から小さな声が降ってきた。
「……もう寝た?」
「……ぅう……」
寝たふりをして誤魔化す。
その瞬間、脇腹をツンとつねられた。
「痛っ!?」
「起きてんじゃん」
不満げに呟く彼女の手が、今度はくすぐるように脇腹をこちょこちょと突いてくる。
「ちょ、やめっ……くすぐったいって!」
「ふふ、私に嘘つくからよ」
微かに零れた、彼女の小さな笑い声。
学校では聞いたことがない、年相応の少女の柔らかな声色だった。
暗闇の中でじゃれ合ううちに、張り詰めていた緊張が不思議と解けていき、心地よい微睡みが僕たちを包み込んでいった。
(あぁ……これなら眠れそう)
優しい暖かさに身を包まれ、頭の中が心地良い靄に覆われていく。
こんな感じで、仲良くなれるなら悪くないなと思う。できれば夕食も賑やかになって、叶うならば登下校も一緒に。
そして禁断の兄妹関係なんて……。
そこまで考えて意識をぼんやりと手放した。
——その時。
自然と、どちらからともなく、微かに身体の位置をずらしたのだろう。
ふわりと。
唇に、温かく柔らかな何かが触れた。
「……っ!?」
明らかに頬でも肌でもない。水気のある感触。
それが感覚器官から直に伝わってきた。
これは間違いなく……唇と、唇。マウストゥーマウス。
経験はないが、きっとそうだ。
(や、やってしまった……)
降り注ぐであろう罵声、叩きつけられるであろう握りこぶしに備え身を固める。
ぶるぶる、ぶるぶると身を震わせ、その時を待つ。
だが、いつまで待っても彼女からのアクションが来ない。
「変態!」と罵声が飛んでくることも、突き飛ばされることもなかった。
「…………」
至近距離で彼女の息遣いがほんの一瞬だけ止まり、それから、小さく衣擦れの音がした。
それきり、部屋には静かな寝息だけが戻ってくる。
(……気のせいだったのか……?)
アイマスクで見えないせいで、彼女がどんな顔をしているのか全く分からない。
疑念と気まずさで頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱される。
間近にいる城崎さんの気配を過剰に意識してしまい、心臓の鼓動がドクドクと耳元でうるさく響いて収まらない。
(自分で言い出したとはいえ……向かい合わせなんて、とんでもない申し出をしてしまった……)




