第5話 絡まれるオタク、助けるギャル
始業前の教室は、いつもと変わらずざわついていた。
だが、僕は完全にグロッキー状態で……。
「……あー…………うー……」
「ちょ、中丸氏? 一体全体どうしたんですかな、その顔は……まるで邪悪なサキュバスに一晩中精気を吸い尽くされたアンデッドのようですぞ」
僕の机の前に立った橋本が、目を丸くして話しかけてくる。
「精気といっても嫌らしい意味ではなく……フォカヌポゥwww」などと笑っているが生憎、今は相手をする余裕がない。
もはや舌を動かすことすら億劫だ。
机に突っ伏したまま、頬を冷たい合板に押し付ける。
ほぼ一睡もできなかったことが、こんなに辛いとは。
頭の芯がジンジンと鈍く痛む。目の下には特大の青黒い隈ができているのを今朝確認した。いつも以上にひどい顔だろう。
「僕のことを思うなら……ね、寝かせてくれ」
そう言うと、橋本が「これは重症ですな……」と眉をひそめた。
始業前のわずかな時間でもいい。少しでも眠ろう。
そう考えて再び机に突っ伏した。そんな時……
「おい、オタク」
頭上から、いかにも軽薄な声が降ってきた。
顔を上げずとも分かる。クラスの陽キャグループの端っこで、いつも調子よく騒いでいる岩本だ。
「お前達さ暇だろ? 一限の古文の板書、代わりに書いといてくんねえか?」
「……?」
微かに首だけを傾けると、岩本ともう一人の男子がニヤニヤしながら僕の机を見下ろしていた。
一限の古文は、予習として担当の生徒が黒板に長い課題文をあらかじめチョークで書き起こしておく決まりになっている。結構な文字数があるため、休み時間丸々一つが潰れる面倒な当番だ。
「俺ら、ちょっと購買行ってパン買いたいしさー。頼むわ」
「ちょ、ちょっと待つでござるよ!」
橋本が慌てて割って入った。
「その板書は、先週先生からあなた方に指名されていた当番のはず! 中丸氏は今、体調が極めて芳しくないのですぞ。拙者も理不尽な押し付けは断固抗議する!」
橋本が机を叩いて、大袈裟に抗議をする。
ありがたいが、バンッという振動は勘弁してもらいたい。
「あ? 何言ってんだよ豚骨野郎。だから俺達はやることがあるって言ってんだろ」
ギロリと睨みつけられ、橋本は「ひっ」と短い悲鳴を上げて一歩後退した。
いつも通りの、教室内の力関係。
僕たちの言葉など、彼らには最初から届かない。
イジメの一歩手前。これを弄りと許容するなら、人間社会はかくも残酷な世界であるとぼんやりと考える。
だが、何度も繰り返すが今の僕には相手をしてやる余裕はない。
眠気と倦怠感の波が全身を押し流していて、立ち上がるどころか口を開くのも辛いのだ。深く目を閉じ、そのまま完全に無視を決め込むことにした。
「……」
すると、思い通りにならないことに苛立ったのだろう。もう一人の男子が舌打ち交じりに僕の腕を乱暴に引っ張り上げた。
「おい、無視してんじゃねえぞ!」
ガタッと椅子が音を立て、強引に身体を起こされる。
急激な視界の揺れと、窓から差し込む朝の光の眩しさに、僕はたまらず眉根を寄せ、目を細めた。
「……」
頭痛のせいで、ただ眩しさに顔を歪めただけなのだが。
相手にはそう見えなかったらしい。
「なんだその目! オタクの分際で、生意気に睨んでんじゃねえよ!」
カッとなった男子が、僕の胸ぐらを掴もうと手を伸ばしてきた。
教室内が一瞬にして凍りつき、周囲の生徒たちの視線が集まる。
あ、これは殴られるかもしれないな——寝ぼけた頭で、どこか他人事のようにそんなことを思った、その瞬間だった。
「自分でやりなよ。みっともない」
教室の前方から、凛と澄んだ、しかし氷のように冷たい声が響き渡った。
全員の動きがピタリと止まり、視線が一斉にその声の主へと向かった。
窓際の席。
机に腰掛け、腕を組んだ姿勢のままこちらを見据えていたのは——城崎茉莉花だった。
耳元のピアスを小さく揺らしながら、彼女の涼やかな瞳がこちらを捉えている。
その視線には、僕が学校でいつも向けられているのと同じ、あるいはそれ以上の冷徹さが宿っていた。
「……え、し、城崎?」
「自分たちの当番でしょ。人に押し付けないでさっさと書きなよ」
言葉は短く、でも有無を言わせぬ強さ。
男子生徒は真っ赤になって絶句した。
すると、茉莉花の周りにいたギャル友の早瀬玲奈と雨宮美雨が、手を叩いてケラケラと笑い出した。
「茉莉花、格好良い〜!」
「どうしたの急に? キャハッ」
さらに、茉莉花たちのグループにいた男子生徒たちまでもが、ニヤニヤしながら口を挟んでくる。
「おいおい、茉莉花に怒られてんぞ」
「お前らの当番だろ、さっさと自分で書けよ」
教室の空気が、一瞬にしてひっくり返った。
カーストの頂点に君臨する女子と、その取り巻き全員から冷ややかな視線を浴びせられ、突っかかってきた男子二人は身を縮こませる。
そして、クラスの絶対的な支配層に逆らえるはずもなく。
「チッ……! わ、分かったよ!」
悔しそうに捨て台詞を吐き捨てると、乱暴な足取りで黒板の前へと去っていった。
教室の喧騒が何事もなかったかのように再開する中、僕は呆然として、その場に立ち尽くしていた。
(助けてくれたのだろうか……?)
信じられない思いで、僕は窓際の彼女へと視線を向けた。
ちょうど、城崎さんもこちらを見ていた。
視線が、カチリと交差する。
だが、彼女の表情は微塵も緩まなかった。
「……ふん」
小さく鼻を鳴らすと、城崎さんはツンと顎を背け、そのまま窓の外の青空へと視線を流してしまった。
「……な、何だったんですかな、今の現象は……!?」
男子たちが黒板にチョークを走らせ始めるのを見届けた橋本が、ガタガタと震えながら僕の肩を掴んできた。
「あの城崎殿が……我々かばった!? 天変地異の前触れですぞ! 明日は槍でも降ってくるのでは!?」
「……槍ってなんだよ。せめて隕石とかにしてくれ」
隕石ももちろん嫌だけど。
でも、確かに信じられないことが起きたのは間違いない。
僕は適当に相槌をうちながら、どっかりと椅子に座り直した。
昨晩、僕の背中にしがみついて眠ったことに対する、彼女なりの気まぐれなお礼だったのだろうか。それとも本当に、みっともない男子に苛立っただけなのか。
彼女の真意は、僕には分からない。
キーンコーンカーンコーン、と一限の予鈴が鳴り響く。
相変わらず頭は重かったが、机の上に広げたノートを見つめる僕の胸の奥には、ほんの少しだけ、昨夜とは違う温かい余韻が残っていた。




