第二章⑤【想定外】
その異様なまでの安定感を支えているチカラ。
分類上は——支援特化型。
それは炎や雷を生み出すような派手な能力ではなく、対象となる人間の身体機能そのものへ作用し、本来持っている力を活性化させる能力である。
損傷した肉体の再生を促進する。免疫機能を強化し、外部から侵入した病原体や未知の環境に対する抵抗力を引き上げる。そして筋力、反射速度、持久力といった身体能力を一時的に補助する。
本来なら複数人で行動する際にこそ真価を発揮する能力だった。負傷者の回復を早め、仲間の身体機能を底上げし、一人なら限界を迎える場面でも部隊全体をより長く戦わせる。敵を直接打ち倒すためではなく、仲間を生かし、支え、戦線そのものを維持するための力。
だからこそ——支援特化型。
しかしその効果を受けられるのは他者だけではない。
シャーロット自身もまたその対象となる。
「ふっ……!」
大気を切り裂いて巨大な爪が振り抜かれた。彼女は上体を大きく倒して回避し、直後に戦闘スーツの脚部補助を利用して後方へ跳ぶ。彼女がいた場所をバルクレッサーの爪が抉り、地面から大量の土と草が巻き上がった。
着地と同時に銃口を上げる。
狙う。撃つ。発砲音と共に弾丸が巨体の脇腹を掠め、その奥にある比較的薄い皮膚を穿った。
「グォォォォッ!」
巨獣が怒りに任せて身体を振り回す。その動きを見ながらシャーロットは既に次の足場へ向かっていた。
普通なら、ここまでの攻防だけでも相当な負担が蓄積している。全力に近い速度で走り、跳躍し、何度も急停止と方向転換を繰り返しながら、その全ての最中に精密射撃を行う。さらに一撃でもまともに受ければ致命傷になり得る相手を前に極度の緊張状態まで維持し続けなければならない。
肉体だけではなく、精神の消耗も凄まじい。しかし紫紺の女性は自身へシックスセンスを作用させ続けることでその負荷に抗っていた。
酷使される筋肉の働きを補助し、疲労によって鈍り始めるはずの身体を支える。僅かな傷や負担に対しても回復を促し、戦闘開始時に近い身体状態を可能な限り長く維持する。
もちろん無限に戦えるわけではないし、消耗そのものを消しているわけでもない。それでも——本来なら少しずつ落ちていくはずの動作精度を高い水準に留め続けられる。それだけで長期戦における意味は大きく変わる。
加えてAEGIS用戦闘スーツによる身体補助。そしてシャーロット自身が訓練によって培ってきた判断力と射撃技術。三つが噛み合った時、支援型であるはずの彼女は単独戦闘においても恐ろしいほど安定した能力を発揮する。
バルクレッサーが突進する。彼女は逃げるのではなく、直前まで引き付けた。
三十メートル。二十。十。
巨体が迫る。
大地を抉る四肢の音が一歩ごとに大きくなり、視界を覆い尽くさんばかりの黒褐色の巨躯が目前まで迫った瞬間——彼女は横へ跳んだ。
戦闘スーツの補助を受けた脚力が細身の身体を一気に押し出す。
巨獣が横を通過するその一瞬。
紫紺の瞳が後肢を捉えた。
「そこ」
銃声。既に傷を負わせていた関節付近へさらに一発。
巨体が大きく傾いたが倒れない。前脚を地面へ突き立て、強引に身体を支えると、即座に振り向いて彼女を睨みつけた。
「学習能力だけじゃなく、随分頑丈ね」
口ではそう言いながら彼女の表情に焦りはない。
倒れないなら、倒れるまで削る。
ただし決して無理はしない。攻撃できる瞬間だけ撃つ。
危険なら離れる。相手が焦れて大きな動きを見せればその隙だけを確実に拾う。
その繰り返しだった。
戦闘が長引くにつれ、先に変化を見せ始めたのは巨獣だった。
最初こそ怒りに任せてシャーロットを追い回していた巨獣だったが、幾度となく銃撃を受けるうちに、ただ力任せに襲い掛かるだけでは目の前の獲物を仕留められないと理解したらしい。
「グルルルル……」
低い唸り声を響かせながらバルクレッサーが歩みを止める。その姿は荒々しく攻め続けていた先ほどまでとは明らかに違う。
頭を低くし、分厚い体毛に覆われた肩を前へ押し出すことで比較的柔らかな首元を隠しながら、ゆっくりと紫紺の女性の周囲を回り始めた。
「……なるほど」
シャーロットも銃口を向けたまま、その場から動かない。
ただ警戒しているわけではなかった。
観察している。
相手が何を考え、次に何をしようとしているのかを。
バルクレッサーは巨体そのものを利用し始めていた。倒木や巨岩、密集した木々を背後へ置くように位置を変えながら少しずつ彼女の移動できる範囲を狭めている。
正面から追っても逃げられる。ならば逃げられる場所そのものを奪えばいい。原始的ではあるが確かな思考の存在する狩りだった。
リンクギアの情報に記されていた『地形を利用して獲物を追い込む程度の知能を持つ』という一文を実物が目の前で証明している。
だが——シャーロットは後退しなかった。
むしろ僅かに右へ動く。それを追うように向こうも進路を変えた。
もう一歩、更に巨獣も動く。
彼女が距離を取ろうとすればその逃げ道を塞ぐようにバルクレッサーが先回りする。
一見すれば徐々に追い詰められているのは彼女の方だった。
背後には巨大な岩壁。左手には密集した樹木。右側も大きく隆起した地面によって足場が悪い。
正面にはバルクレッサー。
逃げ道が狭まっていく。
そして——十分に追い詰めたと判断したのだろう。
「グォォォォッ!」
巨獣が一気に踏み込んだ。
その瞬間。
「やっぱり、そこから来るわよね」
シャーロットが動いた。
逃げ道を奪われていたのではない。最初からこの場所へ誘い込んでいた。彼女が選んでいた右側の足場は一見すると不安定に見えるだけで人間一人が通り抜けるには十分な隙間がある。だが六メートルを超えるバルクレッサーにとっては違う。
巨体が踏み込んだ瞬間、片方の前脚が隆起した地面へ乗り上げる。
僅かに姿勢が崩れたほんの一瞬。しかし彼女にとってはそれで十分だった。
横方向へ身体を滑り込ませるように抜けるとバルクレッサーの死角へ回り込む。
銃口が上がった。狙うのはこれまで傷を重ねてきた部位ではない。姿勢を立て直そうと踏ん張った反対側の前脚。
銃声。
「グァッ!?」
弾丸を受けた前脚が沈み、支えを失った巨体が地面へ激突する。
——ズゥンッ!
土煙が舞い上がり、周囲の草木が激しく揺れた。
紫紺の女性は追撃しない。即座に距離を取り、銃口を向けたまま相手が立ち上がるのを待つ。
「頭は悪くないみたいだけど……」
ゆっくりと立ち上がった巨獣を前にその紫紺の瞳だけが冷静に相手を捉え続ける。
「考えてるのが自分だけだと思わないことね」
そこから戦況は目に見えて変わり始めた。
バルクレッサーがシャーロットの動きを学習するように、シャーロットもまたバルクレッサーの行動を蓄積している。
むしろ後者の方が圧倒的に速い。
どちらの脚から踏み込むのか、銃口を向けられた時どちらへ身体を逸らすのか。傷を庇う際にどのような姿勢を取るのか、接近を諦める距離はどこなのか。
そして——怒りによって判断が荒くなるのはどの瞬間なのか。
戦闘開始直後には存在しなかった情報が一秒ごとに彼女の中へ積み重なっていく。
攻撃を避けてから撃つのではない。撃ちやすい行動を相手に選ばせる。わざと僅かに隙を見せ、バルクレッサーが食いつけば射線の通る場所へ誘導する。逆に警戒して動かなければ負傷している箇所へ圧力をかけ、動かざるを得ない状況を作る。
巨大な捕食者が獲物を追い詰めていたはずの戦場でいつしか主導権そのものが逆転していた。
一人の人間が自分の何倍もの質量を持つ原生生物を相手に力ではなく判断と技術によって制圧していく。
その光景は——異様そのもの。しかもシャーロットには焦りらしい焦りがない。
急いで仕留めようともしなければ大きな成果を狙って危険を冒すこともない。自分が確実に優位を取れる瞬間だけ動き、それ以外では相手の行動を観察する。
そして一度作った優位を決して手放さない。
バルクレッサーの身体には少しずつ傷が増え、呼吸も徐々に荒くなっていく。対するシャーロットは戦闘開始時とほとんど変わらない精度で銃口を向け続けていた。戦っているというより——巨大な獣を少しずつ自分の掌の上へ閉じ込めている。そんな印象すら抱かせる戦い方だった。
「グルルルル……!」
やがて巨獣の方が迂闊に踏み込まなくなった。巨体を低く構え、荒い呼吸を繰り返しながら紫紺の女性を睨む。
対する彼女も無理に攻めない。
「……ふぅ」
一度だけ長く息を吐き、距離を置いた。
そこで初めて周囲へ視線を巡らせる。
救難信号を発していた隊員たちは——いない。
カナタの姿も見当たらない。
先ほどまで人が倒れていた場所には散乱した装備と血痕だけが残り、少なくともこの戦闘へ巻き込まれる範囲からは全員が離れていた。
「カナタ・アキトは……しっかり避難させたかしら?」
小さく呟き、リンクギアへ視線を落とす。
味方を示す反応は既に離れつつある。
十分だ。
シャーロットの目付きが変わった。長銃の側面へ手を添え、出力設定を呼び出す。
これまでは救助対象が近くにいた。外した弾丸がどこへ飛ぶか分からない以上、流れ弾による二次被害を防ぐ必要がある。バルクレッサーを貫通した弾丸が、の先にいる負傷者へ到達する可能性さえ考えなければならなかった。
だから意図的に出力を抑えていた。だが——もうその必要はない。
彼女の指が設定を切り替える。
機関部から低い駆動音が響き、長銃の各部が僅かに展開した。銃身を走っていた紫色の光が先ほどまでとは明らかに強くなり、内部へ蓄積されていくエネルギーに合わせて周囲の空気が微かに震える。
バルクレッサーも何かを察したのか低く唸った。
紫紺の女性は銃を構える。
「本音を言えば——彼の実力も把握しておきたかったんだけど仕方ないわね」
共同任務を組んだシックスセンスを持たない漆黒のルーキーであるカナタ・アキトが実戦でどこまで動けるのか? それを確かめるにはこれ以上ない機会だった。
だが救難が最優先だ。そのために彼を向かわせた以上、今さら惜しむつもりもない。
代わりに得られた情報もある。
シャーロットは長銃を構えたまま、荒い呼吸を繰り返すバルクレッサーを真っ直ぐ見据えた。
「今は——この程度なら単独でも問題なく撃破できそうだって分かったことを収穫にしましょう」
長銃の出力表示が上限へ到達する。
ここから先は救助のために時間を稼ぐ戦いではない。目の前の脅威を完全に排除するための——大詰めだった。
そう、大詰め。
——そのはずだった。
傷を重ねた巨獣は明らかに消耗している。後肢の踏ん張りは戦闘開始時ほど利かず、呼吸も荒い。対するシャーロットはシックスセンスによって身体機能を高い水準に保ち、救助対象が退避したことで長銃の出力制限まで解除している。
ここからなら仕留められる。そう判断したこと自体は決して間違いではなかった。
ただし——それは、目の前の一頭だけを相手にするのであれば、の話だった。
「……?」
彼女の眉が僅かに動く。
足元から伝わってきた振動。バルクレッサーが動いたのかと思い、即座に照準の先を確認する。
違う。目の前の個体は動いていない。
「何……?」
——ズン。
もう一度。今度は明確だった。背後からだ。
——ズンッ。
一定の間隔で地面が震える。最初は小さかった振動が一秒ごとに強くなる。
紫紺の女性は銃口を下げないまま視線だけを背後へ向けた。
その直後。
——バキッ!
遠くで太い枝が折れた。
続いて低木が激しく揺れ、何か巨大なものが木々の隙間を押し退けながらこちらへ近づいてくる。
鳥に似た小型生物が一斉に飛び立った。茂みの中を這っていた虫たちまで四方へ逃げていく。
「まさか……」
嫌な予感が走る。
シャーロットが身体ごと振り返った瞬間——森が割れた。
——バキバキバキバキッ!!
細い木々をまとめてへし折り、低木を踏み潰しながら黒褐色の巨体が姿を現す。
「グォォォォォォォッ!!」
空気を震わせる咆哮。彼女の長い紫紺の髪がその圧力に煽られて大きく揺れた。
見間違えようがない。
分厚い体毛。異常なまでに発達した四肢。口元から伸びる巨大な牙。先ほどから相手にしている個体とほとんど同じ特徴。
「……冗談でしょう?」
——バルクレッサー。
しかも新たに現れた個体には傷一つない。
リンクギアが即座に新たな生体反応を捉え、警告表示を追加する。
大型哺乳類型捕食種
《バルクレッサー》
新規個体確認
危険度——高
シャーロットは一瞬だけ二頭を見比べた。
そしてすぐに理解する。
「……ツガイ」
思わず舌打ちしそうになった。
本来バルクレッサーは単独、あるいは少数で行動する。ならば二頭が同じ場所にいたとしても何ら不思議ではない。
しかし——この状況でその可能性を引き当てるとは思わなかった。先ほどまでなら一頭を相手にしながらでも周囲を確認する余裕があった。
ただ今は違う。
片方は既にシャーロットの戦い方を学習し始めている。
もう片方は無傷。
そして何より——。
「これは……まずいわね」
彼女は初めてはっきりと危機感を口にした。
戦うかどうかではない。まず離脱する。二頭を同時に相手取る必要などない。まして救助対象の避難は完了しているのだからこれ以上ここへ留まる理由もなかった。
即座に周囲へ視線を走らせ、離脱経路を探る。
だが。
「……ない」
背後には今しがた現れた無傷のバルクレッサー。正面には、傷を負わせた最初の一頭。
左右へ視線を振る。
片側は巨木が密集しており、太い根が複雑に地表を覆っている。人間一人なら入り込めないこともないが全力で逃げ切るには足場が悪すぎる。
そして反対側。そこには先ほどまでの戦闘によって倒された巨木が幾重にも重なっていた。最初の巨獣がシャーロットを追い回した際、突進や爪撃で薙ぎ倒したものだ。
折れた幹。剥き出しになった根。千切れた枝。砕けた岩。それらが積み重なり、皮肉にも今では天然の障害物となって逃げ道を塞いでいる。
二頭のバルクレッサー。
そして、その間にシャーロット。
完全に挟まれたのだ。
「…………」
長銃を構えたまま彼女は思考を加速させる。
まだ手はある。最も現実的なのは——最初の一頭。
既に負傷している個体側を突破する。
後肢と前脚には銃撃を重ねている。動きも鈍っている以上、新しく現れた無傷の個体を突破するより遥かに成功率は高い。
幸い今は長銃の出力制限も解除している。最大出力に近い一撃を撃ち込み、一瞬でも怯ませる。
もちろんそれだけであの巨体を吹き飛ばせるなどとは考えていない。バルクレッサーと人間ではそもそもの質量が違いすぎる。
欲しいのは撃破でも転倒でもない。ほんの僅かな隙。
身体を逸らす。脚を一歩引かせる。頭を振らせる。それだけでいい。生まれた空間へ飛び込み、巨体の横を掻い潜る。突破さえしてしまえば、森林へ入り込んで距離を稼げる。
「(それしかない)」
紫紺の女性が長銃を負傷個体へ向けようとした——その時だった。
「グォォォォォォォッ!!」
「ッ!」
背後から咆哮。
新たに現れたバルクレッサーが先に動く。
四肢が地面へ深く沈んだ次の瞬間——爆発的な加速。土が後方へ弾け飛び、無傷の巨体が一直線にシャーロットへ突進してくる。
「ちっ……!」
速い。しかも最初の個体が戦闘開始直後に見せたものと同じ、迷いのない突進。
当然だった。この個体はまだシャーロットと戦っていない。彼女がどう避けるのかも。どこを狙ってくるのかも。どれほど正確に射撃するのかも知らない。故に真正面から圧倒的な身体能力を押し付けてくる。
だが——もう一頭は違った。
「……!」
紫紺の女性の視線が一瞬だけ負傷した巨獣へ向く。
動いていない。こちらへ突進してこない。低く身体を沈め、じっと彼女を見ている。
まるで——待っているようだった。
新しく現れた個体の突進を回避した後、どちらへ動くのか。
その次の行動を。
「(そういうこと……!)」
背筋に冷たいものが走る。
学習していない個体が力任せに追い立てる。学習した個体がその先を塞ぐ。意図して連携しているのか、それとも捕食者としての本能が偶然噛み合っただけなのかは分からない。
どちらにせよ結果は同じだった。
彼女が考えていた唯一の突破口——弱った個体側への一点突破。それを実行するには、あの巨体を怯ませ、その横を掻い潜らなければならない。
しかし待ち構えられているのなら話は変わる。
突進してくる相手ならその勢いを利用して横を抜けられる。だが足を止めてこちらの動きを見ている相手の懐へ自分から飛び込むのは危険すぎる。
前脚を一度振られるだけで逃げ道を潰される。僅かに身体を横へずらされるだけでも突破口は消える。
何より今は、背後からもう一頭が迫っている。
選択肢を吟味している時間などなかった。
「(なら——先にこっちを迎撃する!)」
シャーロットは突破を一度捨てた。
迫る振動へ向かって振り返る。無傷のバルクレッサーが既に目前まで迫っていた。
長銃を持ち上げる。
最大出力で照準を合わせる。
まずこいつを怯ませ、その数秒で次の手を——。
そう判断した、瞬間。
——ズンッ!
「……え?」
背後。いるはずの場所から別の地響きが聞こえた。
待ち構えていたはずの負傷個体。シャーロットの次の行動を観察していたはずのバルクレッサーが——動いた。




