第二章①【惑星エリシア】
転送ゲートを満たしていた蒼白い光は、ゆっくりと粒子となって空気へ溶けていく。機械的な駆動音も次第に小さくなり、やがて周囲を包むのは森を吹き抜ける風の音だけとなった。
カナタは改めて周囲を見渡す。
ここは第一開拓観測団《FOU》が三年前に建設したエリシア地上拠点南側に位置する転送エリア。未知の惑星へ安全に人員や物資を送り込むために設置された降下ゲートであり、アステリアと地上を結ぶ唯一の玄関口でもあった。
転送装置の周囲は厚い金属製の防壁で囲まれ、一定範囲には原生生物の侵入を防ぐ防衛設備が配置されている。
その先には人類が築き上げた開拓拠点。白を基調とした半球状の大型ドームが幾つも規則正しく並び、観測施設、居住区画、医療棟、物資保管庫、整備工場といった建物群が一本一本丁寧に整備された道路で繋がれていた。
自然の中へ人工物が無理やり押し込まれたような印象はない。むしろ豊かな森林へ静かに溶け込み、人類がこの星と共存しようとしていることを感じさせる穏やかな景観だった。
今は第一開拓観測団《FOU》が消息を絶った影響で以前ほど人の姿は多くない。それでも基地内では整備用ドローンが忙しなく飛び交い、搬送車両が資材を運搬し、各施設ではAEGISや技術者たちが慌ただしく任務に就いている。
決して機能を失った街ではない。人類の希望は今なおここで息づいていた。
シャーロットは左腕へ装着した《リンクギア》を起動する。
淡い青白い光が宙へ浮かび上がり、エリシア全域の立体地図がホログラムとして展開された。
現在地を示す光点は開拓拠点南側。そこから一本の青い誘導ラインが施設群を貫き、森林地帯の北側へと真っ直ぐ伸びている。
「依頼地点はここ」
彼女の細い指先が青い光点を静かになぞる。
「依頼主が指定した原生植物の自生地はFOUが残した調査記録によれば開拓拠点北部の森林地帯。現在地とはちょうど反対側ね」
カナタも自身のリンクギアを起動し、同じ地図を表示した。
頭へ叩き込んできた地形。仮想シミュレーションでも何度となく歩いたルート。それでも実際に目の前へ広がる景色と照らし合わせるとその印象はまるで違う。
地図では一本の線にしか見えなかった道も、現実では巨大な樹木の根が幾重にも地表を這い、岩肌には鮮やかな苔が生え、澄み切った小川が静かな音を立てながら横切っている。
数字や地図だけでは決して分からない生きた惑星の息遣いがそこにはあった。
「まずは施設を抜けながら北へ向かう」
シャーロットはホログラムを閉じる。
「依頼は依頼としてこなしつつ、FOUが生活していた痕跡も可能な限り確認するわ」
「了解」
青年は素直に頷いた。
FOUが三年間生活していた場所。そこには報告書へ残されていない小さな発見が眠っているかもしれない。未知の惑星ではそうした積み重ねこそが生存率を左右する。
二人はゆっくりと歩き始めた。
頭上では太陽が暖かな陽射しを降り注いでいる。しかしその大半は空高く枝葉を広げる巨木によって柔らかく遮られ、地表へ届く頃には木漏れ日へと変わっていた。
光と影が風に合わせてゆっくり揺れ、大地へ美しい模様を描いていく。
湿度は程よく保たれ、暑すぎることも寒すぎることもない。森林特有の蒸し暑さを覚悟していたカナタだったが、その予想はいい意味で裏切られた。
頬を撫でる風は涼しく、肌へまとわりつく不快感もない。むしろ母なる星の高原地帯を歩いているかのような爽やかさだった。
「思った以上に快適だな……」
思わず漏れたその言葉にシャーロットも小さく頷く。
「気候だけ見れば人類の居住条件は十分満たしているわ」
カナタはヘルメット横へ手を伸ばいた。
リンクギアが即座に周囲環境を解析する。
『酸素濃度二十一・四パーセント。大気組成正常。有害物質検出なし。呼吸可能環境を確認』
機械音声を確認するとカナタはフェイスマスクをゆっくり外した。
そして大きく息を吸い込む。
「——っ」
肺いっぱいへ流れ込んできた空気は驚くほど澄んでいた。
草木の青々しい香り。湿った土の匂い。遠くを流れる清流の冷たい水の香り。様々な自然の匂いが混ざり合っているにもかかわらず、不思議と雑味はなく、身体の隅々まで浄化されるような心地よさがある。
母なる星の都市部では決して味わえない新鮮で透き通った空気だった。
思わずもう一度深呼吸をする。
肺だけではない。身体全体へ新しい生命力が染み込んでくるような感覚にカナタは自然と笑みを浮かべた。
「これなら本当に人が住める星なんだな」
「少なくとも大気環境だけを見ればね」
紫紺の女性は淡々と返す。
その視線は会話をしながらも周囲の森林を絶えず観察していた。
「でもそれと安全かどうかは別問題」
そう言って彼女は一本の巨木へ目を向ける。
「呼吸ができる。気候も穏やか。水も豊富。それだけで安全だと判断したら、この星では長生きできないわ」
その言葉に青年も静かに頷く。
確かにこの景色だけを見ればまるで楽園だった。
豊かな森林。澄み切った空気。生命に満ちた大地。人類が第二の故郷として選んだ理由も十分理解できる。しかし同時にこの惑星は人類にとって未知の世界でもある。FOUが三年間調査を重ねてもその全容はいまだ解明されていない。どれほど美しい景色であろうと、その一歩先に死が潜んでいる可能性は十分にある。
この星は、人類を受け入れてくれる星なのか。それともただ静かに観察しているだけなのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
穏やかな空気が流れていた。風は木々の間を優しく吹き抜け、葉擦れの音が心地よい旋律のように辺りへ響いている。
緊張感はある。しかしそれ以上にエリシアという星は美しかった。
歩みを進めるたび、視界へ飛び込んでくる景色は少しずつ姿を変え、同じ森でありながら表情は二度と重ならない。巨大な樹木の根元では色鮮やかな苔が絨毯のように地面を覆い、小さな花々が風へ揺られている。その隙間を小鳥ほどの大きさをした羽虫が群れとなって飛び回り、木漏れ日を受けた翅が虹色に煌めいていた。
「……綺麗ね」
彼女が小さく呟く。その声にはほんの僅かだが感嘆が混じっている。
その直後だった。
「……ん?」
彼女は足を止める。
視線の先には一株だけ他とは異なる存在感を放つ植物が咲いていた。
高さは三十センチほど。薄く透き通るような蒼紫色の花弁が幾重にも重なり合い、中心部では淡い燐光がゆっくりと脈打っている。葉は翡翠色を帯び、朝露を纏ったように美しく輝いていた。
シャーロットはすぐさま左腕の《リンクギア》を起動する。
依頼主——植物生態学者エルヴィン・ローゼン博士から提供されたサンプルデータがホログラムで表示され、画像と目の前の植物を見比べる。
色。形状。発光具合。
どれも驚くほど一致していた。
「一致率九十三パーセント……依頼品で間違いなさそうね」
小さく呟くと彼女は採取ケースを取り出し、慎重に手を伸ばした。
その瞬間だった。
「待って」
穏やかな声がその手を止める。
振り返ると、東小国の彼が植物を見つめたまま首を横へ振っていた。
「それは違う」
「……違う?」
「依頼主が欲しがっている植物じゃない」
「どういうこと?」
シャーロットは眉をひそめながら聞くとカナタは植物の前へしゃがみ込み、葉を傷付けないよう慎重に観察し始めた。
「依頼対象は《ルミナリス》。医療研究で注目されている原生植物だ」
そう言ってホログラム画像を指差す。
「花弁は淡い蒼色。中心部は銀白色に発光していて葉脈は透明に近い。細胞再生を促進する特殊成分を含んでいて、外傷治療や再生医療への応用が期待されている。だから高額で取引されてる」
彼女も静かに耳を傾ける。
「でも、目の前にあるのは《ヴェノムブルーム》」
青年は葉の裏側を指差した。
「見て、葉脈が紫色を帯びてる。それに花弁の先端も僅かに黒く変色してるだろ?」
言われて初めてその違いへ気付く。
本当に僅かな差だった。知らなければまず見抜けないくらいに。
「ヴェノムブルームはルミナリスへ擬態して近付いてきた生物を利用する植物なんだ」
「利用?」
「花粉だよ」
カナタは静かに答えた。
「花が開く時期になると神経毒を含んだ花粉を撒き散らす。吸い込めば最初は軽い目眩程度だけど、症状が進むと視界異常、平衡感覚の喪失、呼吸困難を引き起こす。重症化すれば心肺機能まで麻痺してそのまま命を落とすこともある」
風が静かに吹き抜ける。その花がまるで何事もなかったかのように揺れていた。
美しい。が、だからこそ恐ろしい。
エリシアという惑星を象徴するような植物だった。
「……」
シャーロットは思わず目を丸くする。
その一瞬だけ、普段の冷静な彼女からは想像もできないほど素直な驚きが表情へ浮かんだ。
ただ、カナタ・アキトと目が合った瞬間だった。
「……コホン」
小さく咳払いを一つ。
すぐにいつもの無表情へ戻る。
「勉強不足だったわ」
「いや、そんなことないさ」
カナタは苦笑しながら自分のリンクギアを持ち上げる。
「こういう時はスキャン機能を使えば確実だから」
植物へ端末を向ける。
青い光が対象を包み込み、数秒後には解析結果が表示された。
《ヴェノムブルーム》
神経毒性植物
接触・吸引注意
採取非推奨
「ほら、成分分析までやってくれるから便利だよ」
シャーロットは画面を一瞥すると小さく視線を逸らした。
「……それは知っているわ」
「そ、そう?」
明らかな照れ隠しだった。だが本人は決して認めない。
カナタはそれ以上触れず、頭を掻きながら苦笑するしかなかった。
その後も二人は慎重に森を進んでいく。
途中では触れた皮膚をゆっくり腐食させる蔦植物。花蜜の香りで獲物を誘い込む食虫植物。拳ほどもある甲殻虫が群れを成して樹液へ群がる姿や、人の腕ほどの長さを持つ多足虫が岩陰を這う光景も目にした。
少し離れた茂みでは、小型ながら鋭い牙を持つ四足獣がこちらを警戒するように見つめているが、不用意に縄張りへ踏み込まなければ襲ってくる様子はない。しかしその黄金色の瞳は明らかに捕食者のそれだった。
さらに沢沿いでは水晶のように透き通った魚が群れを成して泳いでいる。
一見すると美しいだけの魚ではあるが、調査資料には《クリスタルイール》という猛毒種として記録されていた。尾鰭の毒針は大型原生生物ですら麻痺させるほど強力で、人間なら数分で意識を失う危険性がある。
どこを見ても生命に溢れていた。そしてその命のほとんどが何らかの武器を持っていた。
美しい自然。澄んだ空気。穏やかな気候。その全てはこの星が人類へ微笑みかけているようにも見える。
なのにその微笑みの裏側では弱肉強食という絶対の掟が静かに息づいていた。
ほんの一歩。判断を誤るだけでその鎖へ組み込まれる。
エリシアとはそういう世界なのだと二人は改めて実感した。
———
そうして警戒を緩めることなく歩き続けること数十分。幸い原生生物との戦闘へ発展することもなく、二人は第一開拓観測団《FOU》が三年前に築き上げた開拓拠点の正門へと辿り着いた。
ここから先は人類の希望を託された者たちが実際に生活していた場所だった。
目的地である北側の森林地帯へ向かう前に、二人は第一開拓観測団《FOU》が三年間にわたって活動の拠点としていた施設群へ足を踏み入れる。
その名は——《フロンティアベース・アルファ》。人類史上初めて未知の惑星エリシアで建設された恒久的前線基地である。
今から三年前。第一開拓観測団《FOU》はこの惑星への移住計画を現実のものとするため、数年という長い年月をかけてこの拠点を築き上げた。
当初は転送ゲートと簡易宿営地しか存在しなかったという。しかし調査が進むにつれて施設は少しずつ拡張され、やがて観測棟、居住区画、医療施設、整備ドック、資材倉庫、研究棟、農業試験区画などが次々と建設されて一つの街と呼んでも差し支えないほどの規模へと発展した。
ここは単なる前線基地ではない。人類が第二の故郷を築くための最初の一歩であり、エリシアという惑星の全てを解き明かすための最前線。
移民計画。その始まりの場所だった。
「……資料で見るより、ずっと広いな」
漆黒のルーキーは思わず感嘆の声を漏らした。
視界いっぱいに並ぶ純白のドーム型施設は森林の緑との対比も相まって不思議な調和を生み出している。巨大な木々を必要以上に伐採することなく、その隙間を縫うように建設された街並みは人工物でありながら自然を壊している印象をまるで与えない。
整備された歩道の脇では色鮮やかな原生植物が風に揺れ、少し離れた場所では小川が静かな水音を立てながら流れていた。まるで、 この惑星そのものが人類を受け入れてくれているかのような穏やかな景色。
しかしその穏やかさとは裏腹に施設全体を包む空気には言葉では表現し難い静寂が漂っていた。
静か過ぎる——それがカナタの抱いた第一印象だった。
本来この施設には数百名規模の調査員や研究者、技術者たちが生活していたはずだ。朝になれば食堂からは談笑が聞こえ、整備区画では工具の音が鳴り響き、研究棟では新たな発見に歓声が上がる。そんなごく当たり前の日常が確かに存在していた場所。それなのに今は人の気配だけが綺麗さっぱり消え去っている。
耳へ届くのは、建物の隙間を吹き抜ける風の音。森の奥から聞こえる鳥類に似た原生生物の鳴き声。そして時折、自動設備が稼働する微かな機械音だけだった。
「……生活感だけが残ってる」
紫紺の女性が静かに呟くが、その言葉通りだった。
二人は最寄りの居住区画へ足を踏み入れる。自動ドアは現在も正常に開閉し、照明も最低限の電力で点灯している。空調設備も生きているらしく、室内は外気とほとんど変わらない快適な温度が維持されていた。
廊下には清掃用ドローンが一定のルートをゆっくり巡回し、床へ積もる細かな埃を丁寧に吸い取っている。壁面に設置された設備も異常は見当たらず、警告ランプ一つ点灯していない。
誰かが施設を閉鎖した形跡はない。まるで昨日まで人が生活していて、そのまま忽然と姿を消してしまったかのようだった。
「設備自体は想像していたよりずっと綺麗ね」
「ああ自動管理システムがまだ生きてる。だから建物そのものは維持されてるんだ」
二人は再び外へ出た。すると今度は室内とは全く違う光景が広がっていた。
コンクリートの継ぎ目からは細い雑草が顔を覗かせ、道路脇では蔦植物が少しずつ外壁へ絡み始めている。歩道の隅には落ち葉が積もり、長い間人が通っていないことを物語っていた。
室内は機械が守っている。しかし屋外までは管理しきれない。自然は少しずつ、しかし確実に人類が築いた街を取り戻そうとしていた。
その侵食はまだ小さい。それでも数年、数十年という時が流れればこの街は再び森の一部へ飲み込まれていくのだろう。生命力に満ち溢れたエリシアという惑星だからこそ、その変化は母なる星より遥かに早いのかもしれない。
青年は静かに街並みを見渡した。
ここには確かに人がいた。笑い、悩み、研究し、この惑星で未来を築こうと努力していた人々がいた。その痕跡だけが残され、肝心の人だけがいない。その事実がかえってこの場所の静けさを際立たせていた。




