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春越えて、君を想えるか ~好きとか恋愛とかよくわからなくてもカラダを重ねた曖昧なボクら~  作者: 御子柴 流歌
4th Act: 学校祭本番と真夏の準…

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4-35: たいせつなものに触れるとき


 文字数にしてみれば大したことではない。聞き間違えようもない。


 だが俺はその言葉を聞いた瞬間、時間の流れが一度だけ止まったような気がした。


 もちろん実際に止まったわけじゃない。壁かけ時計は変わらず秒を刻んでいただろうし、点けて間もない冷房の音だって消えてはいない。俺の手の中のグラスの水面も、ごくわずかに揺れていた。


 ただ少なくとも、俺の思考は一瞬止まった。何をどう考えれば正解なのか、ほんのわずかの間だけわからなくなったと言うのが正しい表現なのかもしれなかった。


「……ええ、っと」


 情けない声しか出なかった。


 自分でももう少し何か無かったのかと思うが、こういうときに機転の利いた言葉が出てくるような性格なら、俺の人生も少しは違ったのかもしれない。


 ただ、菜那は俺のそんな反応を、特に責めるような顔では見ていなかった。


 むしろ――少しだけ様子を窺っているような。こっちの答えを待っているような、そんな穏やかな顔だった。


「イヤなら、別に」


「イヤじゃない」


 今度は、考えるより先に口が動いた。


 あまりにも即答で、自分でも少し驚くくらいに。


「イヤなわけは、無いよ」


 咄嗟に出た言葉が出任せではないことが伝われば良い。そんなことを願ったような言い方になる。


 すると、菜那の睫毛がほんの少しだけ揺れたような気がした。


 静かに見つめ合った後、菜那は小さく小さく息を吐いた。


「そう」


「うん」


 うん、じゃないだろう――と心のどこかで自分に突っ込みを入れる。


 もっとも、そんなツッコミを入れたところで、どうにかなるようなモノでも無かったが。


「じゃあ」


 菜那はそう言って立ち上がる。


「まずは、どうするか考えましょう」


「……どうするか?」


「着替えとか、……そういうこと」


「あ、ああ」


 なるほど。そこは現実的に考えないといけないところだった。


 勢いでどうにかなるほど、世界は都合良く出来ていない。


 ――本来ならば。


 幸いというべきかどうか。学校祭だったおかげで、俺は帰り用の替えのTシャツや下着くらいなら持っている。今日は朝から登校用の制服だったり日中はカフェの服装だったりと着替えが前提だったからだ。初日は初日で法被だったので、例外的に通常通りの服装だったのは土曜日だけか。そう考えても激動の学校祭と言って良いかもしれない。


「最低限は、あるかな」


「そう。なら大丈夫そうね」


 懸念材料は俺次第と言い足そうな菜那。


「部屋着の類いなら使っていない男性ものがあるし、タオルとかも……ね」


「……そう、だね。たしかに」


 以前のことが簡単に思い出される。サニタリー用品については一切の心配がないこともしっかりと。


 だからこそ、菜那のその言い回しにも納得だった。




     ○




 泊まることが決まった後の空気は、思っていたよりも静かだった。


 もっとこう――気恥ずかしさとか、ぎこちなさとか、変に意識しすぎる感じとか。そういうものがもっと濃く出ると思っていたのだが、実際にはそうでもない。


 心境としても同じように穏やかであれば良かったのかもしれないが、そうでもない。さざ波というには物足りないくらいの波は立っているくらい。


 もちろん緊張はしている。しているに決まっている。


 でもそれ以上に、今日という日の続きを共に過ごして良いと言ってもらえたことに、どこか安心している自分がいた。


 菜那に促されて一旦洗面所へ向かわせてもらった。


 既に何度か来ている場所だ。タオルの位置も、歯ブラシの予備がどこかも、前より少しだけ自然に把握してしまっている自分に気付いてしまう。


 最初にここへ来た時は、すべてがもっと余所余所しく思えた。敵だとまでは言わないが、少なくとも味方ではないのだと言われているような気分だった気がする。触れるものの一つ一つに戸惑って、そのたびにこの家が自分とは違う世界のものだと思い知らされていた気がする。


 もちろん今日はだってまだ他人様の家ではある。だけどその中に、ほんの少しだけ自分の居場所になってもいい余白があるような気がしてしまう。


 あまりにも勝手な考え。それが許されることなのかどうかは、俺が考えることではない。


 顔を洗って、少しだけ頭を冷やす。


 鏡に映る自分は、思っていたより平静な顔をしていた。


 いつの間に、俺は演技ができるようになったのだろうか。


 いや、落ち着いているように見えるだけで、たぶん中身は全然落ち着いていない。


「どう?」


 洗面所を出ると、廊下の先で菜那が待っていた。


「少し落ち着いたかしら?」


「たぶん。……え、っていうか、そういうのってわかる?」


「幾らかは」


 バレてる。


「菜那は?」


「私は……、ええ、そうね。幾らかは」


 そう言いながら、彼女は少しだけ笑う。


 何だろう。明らかにその微笑みに柔らかさを感じてしまう。それにまた胸の奥がくすぐったくなる。


 少し前には解らなかった事だと思う。


 そういう表情に今まで気付けなかっただけなのか。それとも――




     ○




 部屋へ通される。それも、もう驚くことではない。授業のノートを見せて欲しいと言ったらさらりと部屋へ招かれたときは、明日俺の部屋が爆散しているのではないかと思ったくらいだったが。


 放課後、夕方。この部屋で過ごさせてもらったのは概ねそういう時間帯。


 ああ、いや。先日は夜に入らせてもらったが。


 今回は、さらにその先すらも。


 扉が閉まる音が、やけに静かだった。


 室内の灯りは少しだけ控えめで、外の街灯の光もカーテン越しにうっすらと差している。明るすぎないのに、暗すぎもしない。輪郭だけはちゃんと見えるくらいの色合いだった。


「座って」


「うん」


 前にも似たようなやりとりをした気がする。


 でも前よりも声が近い。温度と湿度を感じる。


 ベッドの端に腰掛ける。


 菜那は少しだけ離れた位置に座った。


 距離があると言えばある。けれど、その距離が今日の俺にはひどく曖昧に思えた。


 手を伸ばせば届く。届いてしまう。


 そういう距離。


「……眠くない?」


「眠いは眠い」


「でしょうね」


「でも、寝るにはまだ惜しい感じもする」


 それは本音だった。


 菜那は、一度だけこちらを見る。


 それから、ほんの少しだけ視線を伏せて言う。


「私も」


 短い返答。けれど、その中に十分すぎる意味がある。


 何を話せばいいのかは、まだわからない。


 なのに、喋らなくてもいいような気もする。


 そんな中途半端な心地のまま、しばらく黙っていた。


「……蓮」


「ん?」


「今日、楽しかった?」


 唐突な問いだった。


 けれど、答えに迷うような問いではない。


「楽しかったよ」


「ほんとうに?」


「ほんとうに」


 学校祭そのものに対しても、もちろんそうだ。


 でも、今菜那が訊いているのは、たぶんそれだけじゃない。


「疲れたけどな」


「それは知ってる」


「だろうな」


「……見てたもの」


「そっか」


 その言い方が、少しだけ嬉しい。


「菜那は?」


「……私も、楽しかった」


 菜那はそう言ったあとで、少しだけ言い直すみたいに続けた。


「少なくとも、途中からは」


「ん? 途中から?」


「ええ」


「それって……」


 いつからだろうと訊きかけて、やめる。


 訊いたところで、正確な境目なんて返ってこない気がしたからだ。


 代わりに、手が少しだけ動いた。


 無意識だったのか、半分は意識していたのか、自分でもわからない。


 ただ、ベッドの上に置かれていた菜那の手の近くへ、自分の指先が寄っていた。


 触れるか、触れないか。


 それくらいの距離。


 菜那は、そのことに気付いているはずだった。


 それでも手を引かなかった。


 だったら。


 もう少しだけ、いいのかもしれないと思った。


 指先が触れる。


 軽く。


 本当にそれだけ。


 でも、たったそれだけのことが、昼間のどんな出来事よりも強く感じられた。


「……蓮」


「うん」


「そんなに緊張する?」


「するよ」


「どうして?」


「どうしてって」


 こっちが訊きたい。


 何で菜那はそんなに落ち着いていられるのか。


 いや、よく見れば、落ち着いているように見えるだけなのかもしれない。


 少しだけ早い呼吸とか、わずかに熱を持った頬とか、そういうものはちゃんと存在している。


「……私も、してるわよ」


 見透かしたみたいに言われて、思わず息が止まりそうになる。


「そうなの?」


「そう」


 それだけ言って、菜那は少しだけこっちへ寄った。


 それ以上のことを、わざわざ言葉にする必要はなかった。


 距離が縮まって、視線が合って、どちらが先かも曖昧なまま呼吸が重なる。


 柔らかな沈黙が、今度は別の意味を持ち始める。


 今日一日ずっと、たくさんの光の中にいた。


 人の声の中にいて、視線の中にいて、祭りの熱の中にいた。


 だからこそ今、この静かな部屋の中で交わされるぬくもりだけが、やけに確かなものに思えた。


「……きっと、さ」


「うん?」


「大切なことをするときとか、大切なものに触れるから、……だからだと思う」


「……そう、ね」


 窓の外では、夜がもうすっかり深くなっている。


 時計の針がどこを指しているのかなんて、もう確かめる気にもならなかった。


 ただ互いに少しずつ近付いて、触れ合って、今日を終わらせたくないと思っているから――。



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