4-36: 穏やかな朝を、珈琲の香りと共に
「ん…………?」
――知らない天井だ、とかいう定番セリフは残念ながら出て来ない。見慣れてはいない天井くらいのレ
ベルだ。
目が覚めたとき最初に思ったことを強いて挙げるならば、この『今日』はしっかりと昨日の続きにあるモノなんだな、ということだろうか。
ここは紛れもなく二階堂邸。濃密すぎるほどの1週間を過ごしたその最後としてはあまりにも濃密な時間になった夜――それが明けた朝の豪邸の一室だった。
まだ薄ぼんやりとした意識のまま視線を横へやる。
そこに居るのは、言うまでもなく菜那だ。
同じベッドのすぐ隣。呼吸の気配もしっかりと届く距離、身体同士も触れる距離のところで、菜那はまだ眠っているようだ。
昨夜のことをひとつひとつ思い返すより先に、その寝顔へと意識が引っ張られる。
とても穏やかで、何よりも綺麗な寝顔。
もともと整っている顔立ちなのだから、眠っている間も綺麗なのは当然なのだろうけど、もはや反則だろうとも思ってしまう。睫毛の影すら整って見える辺りは隙なんか見えないくらいなのに、わずかに唇が開いている感じはとても無防備で、それでいて――。
見惚れるとか見蕩れるとか、そういう言葉はまさしく今使うべきものなのだろう。
もちろん、じっと見つめていたことがバレたら、それはそれで非常に気まずい。
気まずいのだが、だからと言ってすぐに視線を剥がせるなら話は簡単なのだ。
朝の薄い光がカーテンの隙間から入り、彼女の頬や髪の輪郭を静かになぞっていく。
夜とはまるで違う。
昨日の菜那とも違う。
けれど、間違いなく同じ菜那だった。
「……何」
「うわっ」
不意の声。それに重なる情けない俺の声。
寝ていると思っていた彼女が、目だけをこちらへ向けていた。寝起きでもそんなに双眸はぱっちりとするものなのか。
「いや、えっと……」
「何か失礼なこと考えてた?」
「考えてない」
「じゃあ見てたのね」
「……それは、まぁ」
言い逃れは難しかった。
朝一番から妙な尋問を受けている気分だが、原因は完全に俺にある。
さてどうしたものかと思ったが、菜那は少しだけ目を細めた。
「別に、何の問題もないわよ」
寝起きだからなのか、いつもより声が低く柔らかい。
ただ、元から少しダウナーな空気を纏っているせいか、いつも通りにも見えた。
「おはよう、蓮」
「あ……、おはよう菜那」
遅ればせながらの朝の挨拶。朝起きてすぐ名前を添え合いながら言うなんてことがあるなんて、思っても見なかった。
「起きましょうか」
「そうだね」
お互いにゆっくりと身体を起こす感じ。まだ眠気はあるけれどそういうときこそ実際に起きてしまった方が良い。
そして、この状況にだんだんと実感のようなモノが湧いてきていた。
ベッドから起き上がったところで、不意に菜那がこちらへ寄ってくる。
「ん?」
どうしたの、と訊き返すより早く。
――やわらかな感触が頬に触れた。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
「……おはようの、続き」
それだけ言って、菜那は少しだけ視線を逸らした。
あまりにもさらりとしていて、こっちの方が反応に困る。
「え、いや、ちょっと待て」
「待たないわよ」
「いや、そういう問題じゃなくて」
頬のあたりが急に熱を持ち始める。それがどんどんと顔全体に広がっていく。
完全に目は覚めた。むしろ覚めすぎた。
菜那はそんな俺を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
明らかに解ってやっている。
昨日の夜から思っていたが、やっぱり菜那は少しだけ以前とは違う。
○
着替えやら身支度やらを軽く整えてから、ふたりでダイニングへ向かう。
朝の二階堂邸は、夜とはまた違う静けさを持っていた。
いつ見ても広い家だ。雑然としている印象はないが、かといってがらんとした印象も不思議とない。生活音が少ないぶん、光と空気だけが先に満ちているような感じがある。
ダイニングに差し込む朝の光は明るくて、昨夜はよく見えなかった棚の上やカウンター周りまで、しっかりと輪郭を与えていた。
そこで初めて、俺はあるものに気付いた。
「……あれ?」
「うん?」
「それ、なんだけど」
視線の先にあったのは、コーヒーを淹れるための器具だった。
細口のケトル。
手挽きらしいミル。
ドリッパー。
ガラスのサーバー。
それから、箱から出したばかりみたいなサイフォン一式まである。
昨夜この部屋に入ったときには、そこまで意識が向かなかった。
いや、正確には、今みたいな朝の光の中だからこそ見つけられたのかもしれない。
「随分と充実しているな」
「そうかしら」
正直、羨ましい。
「前からあったっけ?」
「いいえ」
菜那はあっさり答えた。
が――、どことなく俺の反応を窺うような気配もある。
「興味を、持ってはみたのだけれど」
「へぇ」
「まだ全然、ちゃんと使えてはいないの」
言い方だけなら、あくまで軽い報告みたいなものだ。
最近こういうものに興味を持ったから、少し揃えてみた。
あくまでも、そういう体裁であるという話。
けれど、そういうふうに聞き流してしまうには、あまりにも出来すぎている気もする。
この家で、コーヒーを淹れる。
それも、こうして道具を揃えてまで。
もちろん自意識過剰かもしれない。
俺が勝手に意味を見出しすぎているだけかもしれない。
けれど、それでも。
「……使ってみてもいい?」
そう訊くくらいは、許される気がした。
菜那は少しだけ驚いたように俺を見る。
それから、昨日の夜にも見た柔らかな顔で頷いた。
「もちろんよ」
その一言が、やけにまっすぐに響く。
「それにしても、サイフォンまであるのか」
「なんとなく、見た目が綺麗だったから」
「わかる」
あのスチームパンクっぽい雰囲気には惹かれるモノがある。
「やっぱり難しいのかしら」
「突き詰めようとしたら何だって奥深いものだよ」
そう言いながら棚を見ていく。
器具の配置はまだ少しぎこちなさがあり、まだまだ『揃えたばかりです』というような空気が漂っている。
「豆もバッチリ、と。……しかも1種類だけじゃないんだな」
「それは、お手伝いさんが相談に乗ってくれたから」
「へぇ」
思った以上にカタチから入りたがるタイプだったりするのか。――それとも。
「でも、どれが正解かはまだよくわからない」
「正解っていうか、好みは飲んで判っていくモノだよ」
「そういうもの?」
「そういうもの。だから、モノは試し」
○
結局、『はじめての一杯』はドリッパーで淹れることにした。
サイフォンは見た目が綺麗で惹かれるが、朝の一杯としてはいきなりやるには少しだけ慌ただしいかもしれない。またの機会があるのなら試させて欲しいところだ。
ミルを回していく。ごりごりと小さな音がダイニングに響く。
朝の静けさの中では、その音すら妙に心地良かった。
「手伝う?」
「んー……、見ててくれた方がありがたいかも」
「そう」
菜那はそう言って、素直に見ている側へ回った。
口では「興味は持ってみたのだけれど」なんてまだ少し他人事みたいな言い方をしていたけれど、その視線はわりと真剣だった。
ちゃんと見よう習おうとしている目だと思う。
お湯を注ぐ。
粉がふわりと膨らむ。
豆の香りが、ゆっくりと朝の空気に溶けていく。
「……いい匂いね」
「うん」
そのひと言に、小さく頷く。
ケトルの先から細くお湯を落とすたび、さっきまでの眠気や夜の余韻がまた新しい朝というカタチへ。
抽出が終わって、これまたちょっとお高そうな雰囲気のカップへ注ぐ。白を染めていく深みのある色が綺麗だった。
「どうぞ」
「ありがとう」
菜那がカップを受け取る。
その仕草を見ながら自分の分も淹れる。その間も菜那はこちらのすべてを見つめてくれていた。
昨夜の食事のときとも少し似ているのに、朝の光があるだけでまるで違う。
菜那が一口飲む。
そのまま、少しだけ目を伏せた。
「……おいしい」
静かな声だった。
それだけで充分すぎる感想だった。
「豆がイイからだと思うけどな」
照れ隠しみたいにそう言う。
実際、それも本当だ。豆の香りはいいし、挽きたてなことも効いていると思う。
けれど、菜那は首を横に振った。
「あなたが淹れてくれたからよ」
そこで、また少しだけ時間が止まる。
昨夜も、今朝も。
どうしてこう、この人は平然と、とんでもないことを言うのだろう。
平然としているように見えて、たぶん本人なりにちゃんと熱を持っていることまでわかってしまうから、なおさら質が悪い。
「……そういうの、反則だろ」
「何が?」
「何でもない」
「そう」
菜那はまた少しだけ笑う。
昨夜から何度目かわからない、その柔らかな表情。
でも、今朝のそれは夜のものよりもずっと穏やかだった。
カップを手にしたまま、しばらく黙る。
昨日までとも少し違う。
たぶん今日からも、少しずつ違っていく。
そのことを、今はわざわざ言葉にする必要はない気がした。
「……また」
「ん?」
「また貴方に、淹れてほしいわ」
菜那はカップを見つめたまま、そんなことを言う。
その一言の中に込められたであろうものを、俺はたぶん読み違えなかった。
「うん」
だから、ちゃんと頷く。
「また淹れさせてほしい」
「ええ」
朝の光はやわらかく、ダイニングの空気はどこまでも静かだった。
けれど、その静けさの中で確かに何かが動いていた。
それはたぶん、昨日までの俺たちとは少し違う何かだ。
互いが互いに、少しずつ染められていく。
それをもう、どちらも知らないふりはできなかった。




