4-34: 帰してもいいとは、あんまり思ってない
カランとベルが鳴って伯父さんの店の扉が閉まる。
ほんの少し前まで店内に満ちていた暖かな空気は、夜の街へ出た瞬間にふわりとほどけていった。初夏とも夏の盛りともつかない夜の風が、食後の頬や首元に当たって心地よい。昼間の熱気はほとんど残っていないはずなのに、身体の芯にはまだ学校祭の火照りがくすぶっている気がした。
それでも、さっきまでとは違う。
喉の奥に引っかかっていた何かが取れたような、そんな感覚がある。
たぶん――俺が口にしてしまったからだ。
『まだ離れたくない』
そんな普段なら絶対に言わないような、何ならイマドキのドラマなんかでも出て来なさそうなセリフを。
もちろん言ってしまったことを後悔しているわけではない。
むしろ、言えて良かったとさえ思っている。
けれど、だからこそ――その後にやってくるこの静けさが妙にくすぐったかった。
隣を歩く菜那も、さっきまでより少しだけ言葉が少ない。いつもそこまで雄弁な方ではないけれど、さっきなんて思ったより話せていたのではないかと思っている。
だからこそ今は、お互いに同じところをゆっくり撫でているような、そんな沈黙だった。
気まずさのようなモノではない。それを俺は願っているような心境だった。
「……ちょっとだけ」
「ん?」
「風、気持ちいいわね」
先に口を開いたのは菜那だった。
「そうだな」
「さっきまで店の中がちょうど良すぎたから、外に出たらもう少し蒸し暑いかと思ってたけれど」
「たしかに。思ってたよりマシな感じはするな」
「ええ」
「夜だからかな」
「夜だからかもしれないわね」
取り留めも無い会話。
天気についての話題を振って、そのまま終わったような会話の流れ。そう言われてみればたしかにそれまでのこと。
でも、俺にとってはそれだけで充分だった。
何故か通い合っているような気分になる。
そんなゆったりとした気持ちのせいか、あるいはシンプルに食後だからなのか。どっちが原因ということも無いのだろうが、さっきまでより歩く速度も自然と緩やかになっている。
急ぐ理由はどこにもない。何ならもっとゆっくりでもいい。
今日一日――いや、ここ一週間ほどずっと何かしらに追い立てられていた時間の分だけ、今この時間だけは何にも急かされずに歩いていたかった。
街灯の光が、ところどころアスファルトに輪を落としている。
その明かりの中に入るたび、菜那の横顔が少しだけ明るくなって、またすぐに夜の色へ溶けていく。さっき店の中で見ていた顔とも、学校祭の最中に見ていた顔とも、ほんの少しずつ違って見えるのが不思議だった。
「……どうしたの?」
「え?」
「さっきから、たまにこっち見てる」
「そんなに見てた?」
「それなりには」
しっかりバレていたらしい。
だが、そこを誤魔化そうとすると余計に変な空気になりそうだったので、軽く肩を竦めるくらいにしておく。
「いやまぁ、その……何というか」
「何というか?」
「今日の菜那、ちょっとだけ柔らかい感じがするな、って」
さすがに言ってから、しまったと思う。
これはちょっと踏み込みすぎたかもしれない。
冷や汗が流れていくのを背筋に感じる。
が、菜那はそこで立ち止まったり怒ったりはしなかった。
それどころか、少しだけ目を細めて言う。
「そうかしら」
「うん」
ふぅん、とでも言いたそうに、菜那はこちらを見て数度極々わずかに頷いた。
「それは、たぶん」
菜那はそこまで言って、一度だけ前を向いた。
「蓮もそうだから」
「……俺?」
「ええ」
言われて、自分では解らなかったものを少しだけ自覚する。
たしかに今の俺は、昼間の俺とは違うのかもしれない。
学校祭の中で、客に見られて、写真を撮られて、クラスの輪に揉まれていた俺とは。
今はもう、そういう顔をしていないのだろう。
「そっか」
「そう」
また静かになる。
今度は、さっきよりもっと落ち着いた沈黙だった。
――見蕩れてた、なんて言ったら。君は何て答えたのだろうか。
そんなことを考える余裕があるくらいに、静かだった。
○
二階堂邸の門扉が見えてくる。
何とも言えない感覚だった。
見慣れたわけではないが、この学校に入ってから誰かしらの家にお邪魔するという機会は実は菜那の家以外にはない。だからココ以外には知らないのだ。
ついこの前にもここへ来た気がするのに、その前回と今日とでは何もかもが違っているように思えた。
門の前で菜那が足を止める。家主の歩が止まれば、当然俺もその隣で止まる。
「……着いたな」
「ええ」
それだけ言って、また少し黙る。
門扉の向こう側には、いつものように整えられた庭と、明かりの灯った邸宅がある。
けれど今日は、その家全体が少しだけ静かに見えた。時刻のせいなのか、俺自身の心持ちのせいなのか、それは解らない。
「……喉、渇いてない?」
不意に菜那が訊いてきた。
「ん?」
「さっきも飲んだけれど、……歩いたし」
「ああ」
そう言われて、思い出す。
先週末だったか、その前だったか。学校祭初日の終わりにここへ来たときも、菜那は同じように俺の喉の渇きを見抜いて、水を出してくれた。
あの時は、疲労感と戸惑いの方が大きかった。
今日はまた別の意味で喉が乾いている気がした。
「そういえば、前もそんな感じだったな」
「そうね」
「俺が一気飲みして」
「すごい飲みっぷりだった」
「……覚えてるのかよ」
「覚えてるわよ、それくらい」
少しだけ、笑った気配。
それだけで胸のあたりが軽くなる。
まぁ菜那ならそれくらい覚えていても不思議じゃない。
でもそういうふうに覚えていてくれたこと自体は、やっぱり少し嬉しかった。
――だけど、そんなくだらないことを考えていた俺にとっては、このセリフはある意味僥倖であり、ある意味天罰のようなモノなのかもしれない。
「だったら、……上がって」
菜那は自然な口調でそう言った。
あまりにも自然すぎて、一瞬だけ聞き流しかけるくらいに。
「え?」
「水くらい飲んでいったら、って言ってるの」
「ああ……」
それなら、まだ言い訳ができる。
そう思った自分に、ちょっとだけ呆れる。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ええ」
○
――そんなわけで、先週末以来の二階堂邸。
外見も中身何度か拝見しているものの、やっぱりまだこの家の中には慣れない。玄関の広さも、床の艶も、廊下の静けさも、何もかもが俺にとっては少しだけ非現実的だった。
菜那に続いて中へ入る。
靴を脱いで、揃える。
それだけの動作にすら、妙な緊張感がある。
リビング、ダイニング。
案内される動線も、前と同じだ。
変わったことなど、――何もない、のだろうか? 本当だろうか。
「座ってて」
「ん、ありがとう」
言われた通りダイニングの椅子に腰掛ける。
ほどなくして菜那がミネラルウォーターのボトルとグラスを持ってきた。
前みたいにはちみつレモンに発展するわけではないらしい。だが、それが物足りないとは思わなかった。むしろ今夜は、このくらい簡素な方がしっくりくる気もする。
「はい」
「ありがと」
受け取ったグラスはひんやりとしている。
一口飲む。
冷たすぎない温度が、さっきまでの食後の熱をやわらげていく。
「……おいしい」
「水よ?」
「いや、でも何か」
「今日は何でも美味しく感じる日?」
「そうかもしれない……何て言ったらさすがに伯父さんに失礼になるかもしれないな」
「それはそうね」
そう答えると、菜那はごく軽く肩を揺らした。
「前よりは飲み方、落ち着いてるわね」
「前はたしかに必死だったかも」
「あの時は、ほんとうに喉が渇いてたんでしょうね」
「うん。あと、……いろいろと余裕が無かった」
「今日は?」
「……今日も余裕は無いかもしれない」
「そう」
そう言ったきり、菜那は俺の正面ではなく、少し横の席に腰掛けた。
斜めに視線が交わる位置。
真正面じゃない分だけ、少しだけ楽だ。
互いに水を飲む。
家の中は静かだった。
外の夜とも、店の空気とも違う。ここにはこの家の時間が流れている。
「眠い?」
菜那が訊く。
「少しだけ」
「そう」
「そっちは?」
「少し」
「同じか」
「ええ」
短い応酬。
それなのに、そこへ含まれる意味は多い気がする。
目の前のグラスの中で、わずかに水面が揺れる。
それをぼんやり見ていると、今日一日のいろんな場面が、少しずつほどけていくような感じがした。
行燈の光。
教室のざわめき。
咲妃の声。
浄明寺の占い。
伯父さんの店。
そして、さっき自分の口から出た言葉。
まだ離れたくない。
あれは、勢いではないと思う。
少なくとも今こうしてここに居ても、その気持ちは消えていなかった。
「……蓮」
「ん?」
「今日は、このまま帰る?」
静かな問いだった。
帰るかどうか。
それはつまり、今この時間にちゃんと区切りをつけるのかどうか、ということでもある。
理屈だけなら、帰る方が正しい。
けれど、その正しさが、今夜に限ってはひどく味気なく思えた。
「……帰った方がいい、のかな」
「質問で返すのね」
「自信ないから」
正直に言うと、菜那は小さく笑った。
「私は」
「うん」
「帰してもいいとは、あんまり思ってない」
やけに静かだった。
大げさではないのに、やけに響く。
「それって」
「ええ」
菜那は俺を見る。
真っ直ぐに、でもどこかやわらかく。
「泊まっていく?」
前よりも自然に。
でも、前よりずっと深い意味を含んで。
その言葉を、今度の俺は聞き間違えなかった。




