4-31: ふたりの帰路を迎えるもの
咲妃が視界から消えてから最初の一分くらいは、俺たちは互いに本当に何も喋らなかった。
だけど、それを気まずいとは思わない。
いや、思わないようになった――という方が正しいのかもしれない。
少し前までの俺、強いて言うのなら2年生になった直後くらいの俺だったら、こういう時間には必死になって言葉を探していた気がする。何か話さないといけない、沈黙を埋めないといけない、そんな風に勝手に焦っていたはずだ。
けれど今は違う。
菜那となら別に喋らないまま歩いていても、その沈黙に耐えきれないようにそれだけで何かが壊れる気は一切しなかった。
何なら今日のような日の場合はむしろ好ましく思える。何せ今日一日ずっと人の声に囲まれていたのだ、このくらいの静けさが有り難いとすら思える。俺よりも静かな空間を好みそうな菜那の場合、もしかするとそれは俺と同じかもしれなかった。
夜の住宅街は当然だが、学校祭の熱からすっかり切り離されていた。
まだ遠くの方からは後夜祭のざわめきが薄く届いてきている気もするが、それも曲がり角を二つ三つ越えるたびにどんどん遠ざかっていく。代わりに靴底が舗装を踏む音と、たまに吹く風の音だけがやけに大きくなった。
菜那の歩幅は俺と並んでいても無理のない速さだった。
先日のように下駄ではなく、今日はいつもの靴。だからこそあの行燈行列の日よりも少しだけ現実味がある。……いや、だからこそ余計に現実味が無いと言うべきか。何とも不思議な感覚だった。
まだ学校内は後夜祭も覚めやらぬ中、俺たちは互いのクラスの輪を抜け出してこうしてふたりで夜道を歩いている。
字面だけ見れば大したことはないような気もするのだが、俺の人生においてはそこそこの大事件に分類されると思う。
「……疲れた?」
ぽつりと、菜那が訊いた。
先に口を開いたのは俺ではなく、菜那の方だった。
それがわりと意外で、存外嬉しく思えてしまう。
何なんだろうな。現金なモノだ。
「んー……。疲れた、って言えば疲れたかな」
「そう」
少し予想外な答えだったのだろうか、思ったよりも菜那のトーンが高く感じられた。
「でも、何だろう。身体っていうより、頭の方が疲れてる感じ」
「……見られ過ぎたものね」
「うっ」
これでもかとばかりの図星。事実を事実として言われると弱い。こういうときの二階堂菜那は本当に情け容赦が無いのだ。
「……やっぱり解る?」
「解るわよ、それくらい」
菜那は何でもないことのように言う。
だけどたぶん、それは俺にとっては何でもないことじゃない。
自分の状態を変に大げさに心配されるでもなく、もちろん軽く笑い飛ばされるでもなく、そのままありのままで解ってもらえるというのは、思っていたよりずっと楽だった。
「そっちも疲れてるだろ」
「まぁ、それなりには」
「『それなり』で済むあたりが菜那っぽいな」
「何それ」
微かに笑ったような気配がした。
見なくてもわかる程度には。
「でも、今日は……」
「うん?」
「蓮の方が大変だったと思う」
やけに真っ直ぐな物言いだった。
何の含みもない、ただの感想。
なのに、その言葉がじわじわと胸のあたりに効いてくる。
「……そっか」
「ええ」
短い返事。短い会話。
それだけで充分だった。
少しだけ間が空く。
また無言になる。
でも、その無言の内側に、さっきまでとは違う柔らかさがある気がした。
「そういえば」
今度は俺の方から口を開く。
「打ち上げ、来週の金曜なんだっけ」
「そう。……さっきもその話をしたような気がするけれど」
「どこの店とか決まってるのかな、と思って」
「ああ」
そういうことね、と菜那も納得してくれたらしい。
3人で居た時と同じ話題だったことは百も承知。ただ、ひとつだけ気になったことを訊きたかっただけだ。
「同じ日で、完全に同じ店だったらどうしようかと思って」
「その可能性は、たしかにありそう」
「ウチは星宮の方でやるんだけど」
電車移動が必須ではあるが、その分店のバリエーションもココでやるよりは多くなる。
「……だったらこっちもその可能性はあるわね」
「じゃあ、どっかで会うかもな」
「そうね」
「……会いたくない?」
「そういう訊き方する?」
「いや、何となく」
「……別に、嫌ではないわ」
相変わらず、菜那の返事は必要十分だ。
必要以上はくれない。でも、足りないわけでもない。
その感じが、今は妙に心地いい。
だが、さらに少し歩いたところで、俺の腹が正直な音を立てた。
小さく、しかし誤魔化しようのないタイミングで。もう少し空気を読んで欲しかった。
「……」
「……」
今度は沈黙の種類が違った。
まずいな、と自分で思う。菜那もたぶん思っている。
が、先に崩れたのは菜那だった。
「……ふふ」
ほんの小さく。本当に、笑ったと言うにはささやかなくらいに。
「笑うなよ」
「だって」
「しょうがないだろ。今日、まともに昼しか食ってないし」
「蕎麦、大盛りでも良かったんじゃない?」
「それはそうかもしれないけど」
あの時はあの時で、疲れていて判断力が鈍っていたのだ。蕎麦は正解だったが、量はちょっとだけミスだったかもしれない。
「菜那は?」
「ん?」
「夕飯」
訊いてみてから、少しだけ変な感じがした。
この流れでそこに触れるのは、案外自然じゃないかもしれない。いや、でも腹が鳴った以上、もうその方向へ行くしかないという話でもある。
「今日は……まだ」
「まだ?」
「決めてない」
「へぇ」
それは意外だった。二階堂家ともなれば、帰ったらすぐに何かしら用意されているものだと勝手に思っていたからだ。
「今日もそれぞれ出てるし、帰ってもたぶん簡単なものしかないと思う」
「なるほどね」
咄嗟に何かを考える。
とはいえ、頭に浮かぶ選択肢は最初からひとつだった。
俺もまだ食べていない。菜那ももちろんまだ。
学校からの帰り道という意味でも、わりと自然なルート上だ。
時間は遅いが、伯父さんの店ならまだやっている。
自然、ではある。
あるが――。
「……あのさ」
「うん」
「もし、予定ないならだけど」
何故だか少しだけ喉が詰まる。
疲れているせいだ。そういうことにしておく。
「伯父さんのところ、寄ってく?」
意を決したような俺の一言に、菜那は少しだけこちらを向いてまた前を向いたまま、何かを考えるみたいに黙った。
断られても不思議じゃない。むしろ、今日の疲労度で人の店に寄るというのは結構な判断だと思う。
でも――。
「行く」
返事はあまりにもあっさりとしていた。
「いいの?」
「蓮が誘ったんでしょう?」
「まぁ、そうだけど」
「だったら、行くわ」
その言い方は少しだけ反則だと思った。
こっちが誘ったのだから、断る筋合いはない――みたいな、そんな理屈のようでいて、ちゃんと俺に委ねてくれている感じもする。
「……了解」
「ん」
行き先が決まった途端、夜道の意味が少しだけ変わる。
ただ歩くだけの帰路ではなくなった。
伯父さんの店までは、ここからそう遠くない。
駅前の喧騒を少し外したところにあるから、帰り道の延長としてはちょうどいい距離感だった。もっとも、学校祭帰りのこの状態で寄ることは今まで無かったから、感覚としてはどこか新鮮でもある。
しばらく歩くうちに、見慣れた通りへと差しかかる。
夜の看板。街灯の色。閉まりかけの店。まだ開いている店。
そういう景色の中に、伯父さんの店の灯りが混ざってくるのを見ると、何だか妙にほっとした。
「ふう」
俺の溜め息のような呼吸に、菜那が少しだけ前方へ視線を上げる。
暖色寄りの控えめな明かり。
主張しすぎない看板。
派手ではないが、ちゃんとそこに営業している店の空気はある。
見慣れたはずの景色なのに、今日は少しだけ違って見えた。
たぶん、隣にいる相手が違うからだろう。
「……いい雰囲気よね」
「ありがと。伯父さんが聞いたら喜ぶ」
「そう?」
「カタチから入りたがる人だから、雰囲気は大事」
「なるほどね」
店の前まで来ると、ガラス越しに中の様子が少し見えた。
客は数組。カウンター側には伯父さんの姿。まだ余裕はありそうだ。
「じゃあ、入るか」
「ええ」
扉に手をかける。
いつもなら何の気なしに開けているはずなのに、今日は何故だかほんの一瞬だけ躊躇った。
理由は――喩えるならば、この扉を開けることは即ち、やはり俺のプライベートを見せるようなモノだからだろうか。
いや、とっくに入ってきてはいるのだけれど。
でも、今日のこれは、また少し違う気がした。
カランと音が鳴る。
店内の空気が、夜の町とは別の温度で俺たちを迎えた。
「いらっしゃ――お」
伯父さんが顔を上げる。
俺を見て、次に菜那を見て、そしてその意味をたぶん一瞬で把握したらしい。
「……おかえり、蓮」
「ただいま」
「菜那ちゃんも、おかえり」
その笑みが、妙に優しかった。




