4-30: 夜の校舎の陰に咲く
グラウンドの熱気から少しだけ距離を取って行けば、そこにはちょっとだけ違った世界があった。
もちろん実際に気温が変わったわけじゃない。夜とは言え、そして北国とは言えども、夏は夏。まだまだほんのりとした暑さの名残も、土の匂いも、行燈の灯りも、そこかしこから漏れてくる歓声も変わらない。
ただ校舎の影に一歩入るだけで、まるで祭りの外縁に辿り着いたような気持ちにはなる。
グラウンドで続いている後夜祭の賑わいは、背中側から押してくる。校舎の陰は、逆にその熱を少しだけ遮ってくれる。そんな感じだ。
人間は本当に都合よく出来ていて、さっきまであれだけあの輪の中に居たくないと思っていたくせに、いざ離れてみると少しだけ寂しさに似たものまで覚えそうになる。
とはいえ、そんな感情より強く出て来るのは疲労感だ。少なくとも今の俺にとっては、それが圧倒的に上回っていた。
「……ふぅ」
自然と漏れた息。
それが夜の空気に溶けていく。
そこで、ふと、視界の端に何かが引っかかった。
校舎の陰。
灯りの届きにくい辺り。
ちょうど、行燈行列の日には俺があのふたりを送っていった、その逆みたいな立ち位置。
――居た。
菜那と、咲妃。
あまりにもあっさりと見つかってしまったので、逆に一瞬だけ足が止まる。
もっと探すのに苦労すると思っていたし、そもそももう帰っている可能性だってあると考えていたのに。そんな都合の良いことが本当に起こるのかと思ったが、起こってしまったものは仕方ない。
――いや、そもそも本当に探していたのかどうか。
そんな心の中の戯言が漏れていたのかもしれない。
こっちが気付いたくらいだから、当然向こうも気付いたようだ。
咲妃がいつものように、こちらを見つけた瞬間からにんまりと笑う。
菜那は菜那で、あまり表情には出さないが、視線がこちらに向いたのは解った。
「お、レンレン」
「……どうもどうも」
「どうもじゃないでしょ。何その疲れたサラリーマンみたいなテンション」
「ほっとけ」
近付いていけば、やっぱり咲妃は咲妃だ。
グラウンドのあの熱量の中でも全然ぶれないのだから大したもんだと思う。むしろああいう場に中てられて余計に元気になっている節すらある。だからこそ、菜那が居るとはいえこんな静かなところにいるのは少し意外性もあった。
「いやぁ、それにしてもレンレン」
「ん?」
「いよいよ大人気になってるわよ」
「……何、その報告」
しかも本人がそのことを一番面白がっているだろうに。
「これが割とマジな話でさー。レンレンの名前が結構いろんなところから聞こえてくるのよ」
「……あんまり聞きたくないなぁ」
「何でよ。モテ期到来って感じじゃん」
「そう言われても、あんまり嬉しい気持ちにもならんのよな。明らかに祭りの熱に浮かされているだけっぽい感じだし」
正直なところだった。
すると咲妃は一瞬だけ目を丸くした。ほんのわずかに、今までの軽薄さみたいなものが引っ込む。
「……え、何それ」
「何って?」
「レンレン、何言ってんの?」
「いや、だから……」
どう言えば良いのか少し考える。
「なんつーの。今日だけでもう、いろいろありすぎたし。嬉しいとか恥ずかしいとかそういうのを通り越して、ただ疲れたっていうか」
「どんだけ疲れてるのよ」
「結構」
「知ってる」
菜那が、短くそう言った。
その一言だけで妙に救われたような感じになるのは、たぶんよろしくない。全くよろしくないが、どうにもならない。
「まぁ、そういうことだから。モテ期がどうとか言われても、今はちょっと」
「……ふぅん」
咲妃は咲妃で、何かを測るように俺の顔を見ていた。からかい半分、観察半分。いや、今日は少しだけ観察の方が多いかもしれない。
「ま、そういうことなら、尚更――」
そこで咲妃はわざとらしく一拍置く。
「ここからはお邪魔虫は退散した方が良さそうねぇ」
「え?」
「咲妃?」
菜那も少し驚いたらしい。俺はもっと驚いた。
「だってさー、こういうのって空気づくり大事でしょ?」
「何言ってんだお前」
「いや、何ってそのまんま」
「そのまんま過ぎて困るわ」
本気で去ろうと一歩引こうとした咲妃を、俺は反射で止めた。
「……いや、ちょっと待てって」
「ん?」
咲妃が、そこで初めて本当にきょとんとした顔をする。
あの咲妃が、ほんの一瞬だけ表情を変えた。
「何で止めるのよ」
「何でって、ひとりで帰すわけにはいかないだろ」
「……へ?」
咲妃の声が一段だけ落ちる。
菜那も、今度こそはっきりとこっちを見た。
「危ないし。時間も時間だし」
学校祭の一般公開が終わって、後夜祭も半ば。もうとっくに夜だ。
校内とはいえ周辺には人の出入りも多いし、何より今日は外部の人間も多く来ている。俺の価値観では、女子ひとりをそこから先ひとりで帰すのは無しだった。
「……レンレン」
「ん?」
「アンタさぁ」
咲妃は呆れたように笑う。
けれど、そこに含まれていたのは、いつもの茶化しだけではなかった気がする。
「ホント、そういうとこよね」
「何が」
「いや、別に」
しかしそこは咲妃だ。すぐに元の顔に戻る。せっかくならハッキリ言ってくれても――いや、やっぱりそのままでイイや。
「でも、私はそこまでヤワじゃないし、ここからなら全然平気よ?」
「そうかもしれんけど、それはそっちが決めることじゃないだろ」
「うわ、めんどくさ」
「そういうのはいいから」
「ふふ」
笑ったのは菜那だった。
わりと、はっきりと。
「……ん?」
「別に」
「菜那までそれか」
「そういうところ、嫌いじゃないだけ」
「…………そっすか」
変なところで結託しないでほしい。ただでさえ無い勝ち目がさらに無くなる。
「まぁ、でも、菜那がそう言うなら」
「何でそこで私判断なのよ」
「だって私の安全より菜那とのふたりきり優先するかと思ってたもん」
「するわけないだろ」
「お、即答」
「当たり前だ」
そこでようやく咲妃は「じゃあ、お言葉に甘えて」と肩を竦めた。
○
学校を出てしばらくは、まだ祭りの余熱の中に居るような感じだった。
同じ方向に帰る生徒も多い。保護者らしき人や一般客の姿もある。完全に夜の町へと切り替わるには、少しばかり時間がかかるらしい。
だからというわけでもないだろうが、最初のうちはほとんど会話らしい会話も無かった。
咲妃は咲妃で、最初の十分くらいは何だかんだと学祭のことを喋っていた。どこのクラスの展示がどうだったとか、後夜祭の最中に見かけた誰それがどうだったとか。
「そういえば、打ち上げの日程さぁ」
「ん?」
「ウチらもレンレンたちと同じ日なんだよね」
「あ、そうなの?」
俺としては普通に驚いた。学校祭期間中は自分のクラスのことで手一杯だったし、他所のクラスの予定まで把握する余裕なんてあるはずもない。
ということは来週の金曜日ということか。」
「へぇ……。じゃあ、案外どっかで鉢合わせしたりすんのか」
「しそうだねぇ」
「何でそんなに嬉しそうなんだ」
「そりゃあねえ?」
意味深に笑うな。疲れてるときにそういう笑い方をされると、対応に困る。
そんなことをしているうちに人通りはだいぶ減り、気付けば咲妃の家が近い。
さっきまでの「送る・送らない」の流れがあったから何となく察してはいたが、こうして実際に来てみると、たしかにここから先なら危険はそこまででもなさそうに見える。街灯もそれなりにあるし、住宅街としては明るい方だ。
だからと言って帰してしまう理由にはならないが。
「じゃあ、私はここで」
咲妃が立ち止まる。
「ホントにありがとうね」
「いや、別に」
「別にって言いながらちゃんと送ってくれるあたり、レンレンって感じ」
「どんなだよ」
「こういうとこよ。自分の胸にでも訊きなさい」
またそれだ。
今日だけで2回は聞いた気がするが、未だに正解が解らない。
「じゃ、菜那のことよろしく」
「おう」
「あら、素直」
「そもそもその予定だったしな」
菜那も咲妃もそれぞれで帰す理由は無かったし、どちらかだけを優先するなんて発想も持ちようが無い。
「送り狼ってこと?」
「そういうことじゃなくてだな」
「あっはは!」
思った以上に咲妃の笑い声が反響した。
「まぁまぁ、何にしても気を付けなさいよ?」
「……りょーかい」
「よろしい」
咲妃は満足そうに頷く。
菜那の方を見れば、菜那も何となく納得しているようだった。……いや、そう見えるだけかもしれないが。
「じゃあ、またね」
「おう。気をつけてな」
「うんうん。レンレンは変な気、起こさないようにね?」
「まだ言うか」
「冗談よ、冗談。半分くらいはね」
笑いながら言うあたり、本当にどこまでが冗談なのか解らない。
だが、菜那が「もう、咲妃」と軽く窘めたので、それで良しとする。
咲妃が手を振って、家の方へ入っていく。
門灯の明かりに一度だけ照らされて、その姿はすぐに見えなくなった。
残ったのは、俺と菜那のふたりだけ。
思った以上に、静かだった。
背後に学校祭のざわめきはもう無い。
前を向けば住宅街の夜だけが続いている。
さっきまであんなに喋っていた咲妃が居なくなっただけで、空気の密度そのものが変わってしまったみたいだった。
何か言おうかと思う。
でも、言葉は出てこない。
菜那も同じなのか、何も言わない。
それでも、居心地が悪いとは思わなかった。
無言のまま、ひとつ、角を曲がる。
そのくらいの時間が経ってからようやく、俺たちはどちらからともなく、また歩き出した。




