第4章 第98話 自分で確かめるために
基礎文字カルタの試作を始めてから、ユウトは街の文字が以前より目につくようになっていた。
店先の看板、宿屋の料金表、冒険者ギルドの依頼書。薬屋の棚には瓶ごとの効能や注意が書かれ、市場では値段や産地を示す札が並んでいる。
読める者にとっては、ただそこにあるものだ。
けれど読めない者には、その一つ一つが誰かへ尋ねなければ分からない情報になる。
「ユウトお兄ちゃん!」
少し先を歩いていたフィーナが振り返った。
「串焼き!」
「まだ朝ご飯を食べたばかりだよ」
「でも、いい匂いするよ!」
市場の一角から漂う焼けた肉の香りに、白い尻尾が正直に揺れている。
「フィーナ殿は腹が減るのが早すぎるでござる」
「アイリスは食べたくないの?」
「……一本くらいであれば」
「食べたいんじゃん!」
フィーナが笑った、その時だった。
「だったら最初に言っておくれよ!」
近くから女性の怒鳴り声が響いた。
通りの端に人が集まり始めている。
ユウトたちが顔を向けると、野菜の籠を抱えた年配の女性と、きちんとした上着を着た男が向かい合っていた。
「何かあったみたいですね」
セレスの言葉に、ユウトたちは足を止めた。
「契約通りです」
男は声を荒らげることもなく、一枚の紙を女性へ示していた。
「こちらは契約書に基づいて請求しているだけです」
「だから、その金の話は聞いてないって言ってるんだよ!」
「ですが、あなたはここへ印を押している」
男が紙の下部を指差す。
そこには確かに印があった。
「印を押した以上、契約内容へ同意されたと判断するのが普通でしょう」
「文字が読めないって、最初に言ったじゃないか!」
女性の声が震える。
「説明してくれって頼んだんだよ!」
「必要な内容は説明しました」
「一割払えば店先を使えるって、それしか聞いてない!」
人垣の中から、ひそひそと声が上がる。
ユウトはフィーナたちと顔を見合わせ、そのまま近づいた。
「何か困ってるんですか?」
女性がこちらを見る。
「あんたたち、冒険者かい?」
「はい」
答えると、男がわずかに顔をしかめた。
「こちらは商取引の話です。冒険者が口を挟むことではありませんよ」
「事情を聞くだけです」
男は小さく息を吐いた。
「この方は私が管理している露店の一角を使っています。売上の一割を使用料としていただく契約でした」
「だった、じゃないか!」
女性が声を挟む。
「今になって、店をやめるならさらに三割払えって!」
「契約終了時の設備利用料です」
男は紙を開いた。
「ここに記載されています」
ユウトはその部分へ目を向ける。
確かに、契約の末尾近くに小さな文字で追加料金について書かれている。
「本人は説明されていないと言っていますが」
セレスが言う。
「私は契約の要点を説明しました」
男の返答は変わらなかった。
「契約書そのものも本人へ渡しています。確認する機会は十分にありました」
「でも、この人は読めないって伝えてるんですよね?」
フィーナが眉を寄せる。
男はフィーナを見る。
「文字を読めるかどうかまで、こちらが責任を持つことではありません」
「むう……」
フィーナの耳が伏せた。
ユウトは契約書を見つめた。
男の言っていることだけを聞けば、完全に不自然とは言い切れない。
紙には条件が書いてある。
印もある。
口約束だけなら、どちらの言い分が正しいか証明できない。
「少し見せてもらってもいいですか?」
「何をです?」
「契約書を」
男は警戒したが、周囲の視線を気にしたのか、渋々紙を差し出した。
ユウトは受け取り、【鑑定】を使う。
【露店使用契約書】
【素材:植物紙】
【品質:一般】
【使用インク:三種類】
【保存状態:良好】
【備考:一部の文字に異なるインク成分を確認】
「三種類……」
ユウトは紙を傾けた。
肉眼ではほとんど分からない。
だが【鑑定】で示された箇所を意識して見ると、追加料金の部分だけ、わずかに黒の濃さが違って見える。
「エリシア、これ見てもらえる?」
「はい」
エリシアが隣へ寄る。
ユウトは小声で説明した。
「ここのインクだけ違う」
「……確かに」
エリシアは文字の並びをじっと見つめる。
「筆記具も違う可能性がありますね。線の太さが僅かに違います」
「紙への染み方も違うみたいだ」
ユウトは再び【鑑定】する。
【追加情報】
【本文インク:鉄胆系インク】
【設備利用料記載部:鉄胆系インク・配合差異あり】
【契約印周辺:一部文字が印の上層に存在】
ユウトの視線が止まった。
「印の上……?」
女性の印が押された部分へ目を凝らす。
設備利用料について書かれた文章の末尾。その一画が、印の端へわずかに重なっている。
もし印を押した後に文字を書いたなら、文字が印の上へ乗る。
逆なら、印が文字を覆うはずだ。
「これ……」
ユウトは紙を男へ向ける。
「この部分、後から書いたんじゃないですか?」
男の表情が初めて動いた。
「何を馬鹿なことを」
「本文とインクが少し違う。それに、ここの文字が契約印の上へ重なってる」
周囲がざわめく。
男は紙を取り返そうと手を伸ばした。
「素人判断でしょう!」
「なら、商業ギルドへ持っていけばよいでござる」
アイリスがユウトの横へ立った。
静かな声だったが、男の手が止まる。
「正しい契約であるなら、確認されても何も困ることはありますまい」
「これは私とこの女の契約です!」
「だからこそ、正式な場所で確かめればいいんじゃないか?」
レティシアが腕を組む。
「後ろ暗いことがないならな」
男はしばらく黙っていた。
その沈黙だけで、周囲の空気が変わった。
結局、契約書は女性とともに商業ギルドへ持ち込まれた。
ユウトたちも発見した点を説明するため同行した。
商業ギルドでは、契約書の確認を専門にする職員が呼ばれた。
インクの違い。
筆跡の位置。
印との重なり。
さらに保管記録まで調べた結果、設備利用料の項目が契約成立後に追記された可能性が高いと判断された。
その後、男が関わった別の露店契約も調査されることになった。
女性への追加請求は保留となり、男は別室へ連れていかれた。
商業ギルドを出たところで、女性が深く頭を下げた。
「本当に助かったよ」
「まだ最終的な判断はギルドがするそうですけど」
「それでも十分さ」
女性は手元に戻ってきた契約書の写しを見た。
「私はね、字が読めないってのが恥ずかしくてね」
先ほどまでの怒りは薄れ、代わりに疲れが滲んでいた。
「昔から、必要な時は誰かに読んでもらえばいいって思ってた。畑仕事には困らなかったし」
紙を持つ手が少し強くなる。
「でも、読んでもらったことが本当かどうかまで、自分じゃ確かめられないんだね」
ユウトは何も言わなかった。
その言葉の方が、さっきから自分の中で考えていたことをずっと正確に表している気がしたからだ。
「私もだよ!」
フィーナが突然声を上げた。
女性が目を丸くする。
「フィーナも難しい字はまだ読めないの。でも、昨日からちょっとずつ覚えてる!」
「昨日から?」
「うん! 遊びながら覚える札を作るんだよ!」
「まだ完成してないけどね」
ユウトが付け加える。
「でも、フィーナは勝つつもり!」
「勉強じゃなく勝負になっているでござるな」
「勝った方が楽しいもん!」
女性が思わず笑った。
「遊びながら字をねえ」
「できたら、一緒にやろうよ!」
フィーナはごく自然に言った。
「子どもじゃなくてもいいのかい?」
「なんで駄目なの?」
フィーナは本気で分からないという顔をした。
女性はしばらく黙ったあと、ふっと表情を緩める。
「そうだね。覚えたいって思った時に覚えたって、誰にも怒られやしないね」
「うん!」
フィーナの尻尾が大きく揺れた。
ユウトは二人の会話を聞きながら、試作中の木札について考える。
最初は文字そのものを覚えることだけを考えていた。
けれど、実際に必要とされる文字は人によって違う。
食べ物の名前。
店の名前。
危険を知らせる言葉。
薬の注意。
契約書に出てくる言葉。
全部を最初から詰め込めば、かえって難しくなる。
「まずは、毎日の生活でよく見る言葉からかな」
ユウトが呟く。
「その方がよいでしょうね」
エリシアが頷いた。
「覚えた直後から使えれば、続ける理由にもなります」
「文字だけじゃなくて、絵も欲しいよ!」
フィーナが言う。
「それは前から入れる予定だよ」
「じゃあ、お肉も入れて!」
「生活でよく見る言葉ではあるけど……」
「絶対いる!」
「フィーナの場合はな」
レティシアが笑う。
女性もまた笑っていた。
さっきまで握り締めていた契約書を、今は少し違う目で見ている。
「次に何かへ印を押す時は」
女性がぽつりと言った。
「せめて、自分で一度くらい読めたらいいね」
「じゃあ覚えよう!」
フィーナが即座に答えた。
「フィーナも一緒に覚えるから!」
女性は驚き、それからゆっくり頷いた。
「ああ。そうしてみようかね」
市場へ戻る道すがら、フィーナが思い出したように立ち止まる。
「あっ!」
「今度は何?」
「串焼き!」
「まだ諦めてなかったの?」
「文字も覚えるから、ご褒美!」
「まだ一文字も覚えてないでござるぞ」
「これから覚えるもん!」
笑いながら走り出すフィーナを見て、ユウトもつられて笑う。
頭の中では、薄い木札に書く最初の言葉が少しずつ形になり始めていた。
難しいものからではなく、毎日見るものから。
誰かに読んでもらうためではなく、自分の目で確かめるために。
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