第4章 第97話 文字を知らない新人冒険者
朝の冒険者ギルドは、いつも以上に混み合っていた。
依頼へ向かう者、受付へ報告をする者、買い取ってもらう素材を抱えた者。広い建物の中には話し声と足音が絶えず響き、壁一面の掲示板の前にも多くの冒険者が集まっている。
その中で、ユウトは一人の少年に目を留めた。
十六歳ほどだろうか。
腰には新品に近い短剣。革鎧にもほとんど傷がない。首から下げている冒険者カードにはFランクと記されていた。
「……新人かな」
「誰のことでござる?」
アイリスがユウトの視線を追う。
「あそこにいる人」
少年は一枚の依頼書を手にしていた。
薬草の絵が大きく描かれた依頼書だ。
ただし、先ほどから何度も紙を顔へ近づけたり離したりしている。
「何してるんだろ?」
フィーナが白い耳をぴくりと動かす。
「依頼を受けるか悩んでいるのでしょうか」
セレスがそう言った直後、少年が依頼書を掲示板から剥がした。
「よし……これなら俺にもできる」
小さな声だったが、フィーナの耳には届いたらしい。
「受けるみたい!」
少年は受付には向かわなかった。
依頼書を持ったまま、直接出口へ向かおうとする。
何となく気になったユウトは、少年の持つ依頼書へ【鑑定】を使った。
【薬草採取依頼】
【採取対象:リーネ草】
【採取場所:西部丘陵】
【必要数:二十束】
【報酬:大銅貨三枚】
【注意事項:北部森林への侵入禁止】
【理由:グレイウルフの群れが確認されています】
【推奨:二名以上での行動】
ユウトは眉を寄せた。
依頼そのものは新人向けだ。
問題は、少年がギルドを出た後に北へ向かおうとしていることだった。
「ちょっと待って!」
「ん?」
声を掛けると、少年が振り返る。
「なんだよ?」
「その薬草、どこへ採りに行くつもり?」
「北の森」
即答だった。
「北は立ち入り禁止だよ。採取場所は西の丘陵って書いてある」
「……は?」
少年の顔から笑みが消えた。
ユウトは依頼書の注意書きを指差す。
「ここ。北の森にはグレイウルフの群れがいるから入っちゃいけないって」
少年は指差された場所を見つめた。
しばらくして、依頼書を握る手に力が入る。
「そんなの……どこにも書いてねえだろ」
「書いてあるよ」
「俺には読めねえんだよ!」
思ったより大きな声が響き、近くにいた何人かが振り返った。
少年自身も声を荒らげたことに気付いたのか、気まずそうに顔を伏せる。
「……悪い」
ユウトは首を横に振った。
「こっちこそ、ごめん」
「別に謝らなくていい。俺が読めねえだけだから」
少年は依頼書に描かれた薬草を指差す。
「これ、俺の村にも生えてたんだ。だから薬草を採る依頼だってのは分かった」
次に、報酬欄を指で示す。
「数字も分かる。大銅貨三枚だろ?」
「うん」
「村を出る前に数字と金の数え方だけは親父に教えてもらった。でも文字は……自分の名前くらいしか書けねえ」
少年は唇を噛んだ。
「西とか北とか、そういうのも?」
「方角は分かるさ。字が分からねえんだ。北の森なら昔、村の大人と薬草を採りに入ったことがあったから、そこだと思った」
つまり少年は何も考えずに依頼を選んだわけではない。
読める数字。
見て分かる薬草の絵。
自分の経験。
手元にある情報だけを組み合わせ、本人なりに判断したのだ。
だからこそ怖い。
本人には、読み落としている情報があることすら分からない。
「受付で聞かなかったの?」
フィーナが尋ねる。
少年は受付前の長い列をちらりと見た。
「昨日も聞いたんだ。依頼書を一枚ずつ読んでもらってさ」
「なら今日も聞けばよいではござらぬか」
アイリスの言葉に、少年は悔しそうに拳を握る。
「いつまでも受付の人に全部読んでもらってたら、一人前になれねえ気がしたんだよ。俺より後に登録した奴が普通に依頼を選んでるのに、俺だけ毎回『読んでください』って……」
「分からないことを尋ねるのは、恥ではないでござる」
アイリスは少年を責めることなく言った。
「命を失えば、次に学ぶ機会すらなくなる。生き残るために人を頼るのも、冒険者に必要な技でござるよ」
「……分かってる」
少年の声は小さかった。
結局、少年は受付へ戻った。
職員へ事情を説明すると、同じ薬草採取を受ける別の新人と組んで西の丘陵へ向かうことになった。
大事にはならなかった。
けれど。
ユウトは少年が出ていった扉を見たまま、しばらく動けなかった。
「ユウトお兄ちゃん?」
「……文字が読めないって、結構危ないんだね」
「そうですね」
セレスが頷く。
「町では看板や依頼書が多いので忘れがちですが、農村では文字を使わずに暮らしている方も少なくありません。学ぶにも、お金と時間が必要ですから」
「学校みたいな場所は?」
「貴族や裕福な商人の子どもなら通えます。神殿で教えている場所もありますが、誰でも毎日学べるわけではありません」
ユウトは何気なくフィーナを見る。
「フィーナは?」
「え?」
「文字、どのくらい読める?」
「読めるよ!」
フィーナは胸を張った。
「宿屋の名前! お肉! 串焼き! 甘い! 安い! あと数字!」
「食べ物ばっかりだね……」
「大事だよ!」
フィーナは自信満々に答えたものの、少しして耳が垂れた。
「……長いのは分かんないけど」
「依頼書は?」
「難しいところはエリシアに聞いてる」
「そうだったんだ」
「だって困ってないもん。ユウトお兄ちゃんたちがいるし!」
フィーナは笑った。
けれどユウトは、その言葉が少しだけ気になった。
仲間なのだから、できないことを補い合うのは悪くない。
それでもフィーナは、少しずつ自分で物事を選べるようになってきた。
食べたいもの。
着たい服。
受けたい依頼。
行きたい場所。
もし文字が読めなければ、そこに何が書かれているのかを誰かから教えてもらわなければ、選択することすらできない時がある。
「文字か……」
覚えるには時間が掛かる。
毎日働く人が、長時間机へ向かうのは難しい。
子どもだって、勉強しろと言われるだけでは嫌になるかもしれない。
もっと楽しく。
何度でも繰り返したくなる方法があれば――。
その時、ユウトの頭に前世の記憶が浮かんだ。
何枚もの札。
読み上げられる言葉。
対応する札を誰より早く取ろうと、皆で競う遊び。
「……あ」
「思いつきましたね」
エリシアが即座に言った。
「まだ何も言ってないよ?」
「その顔をする時は、大抵何かを作り始めます」
「確かにそうだね」
レティシアまで頷く。
「ユウトお兄ちゃん、何するの?」
「フィーナ」
「うん?」
「文字を覚えてみない?」
「えー……」
白い耳が一瞬で垂れた。
「勉強、眠くなるよ」
「じゃあ、勉強じゃなくて遊びだったら?」
「遊び?」
耳が跳ね上がる。
「遊びながら文字を覚えるんだ」
「そんなことできるの?」
「たぶん」
ユウトは近くの机に置かれていた紙へ簡単な四角を描く。
「片方の札には文字を書く。もう片方には、その文字から始まる言葉と絵を描くんだ。読み上げた札に合うものを、みんなで早く取る」
「勝った人は?」
「一番たくさん取った人の勝ち」
「やる!」
即答だった。
「それならやる!」
「フィーナ向けとしては成功しそうですね」
セレスがくすりと笑う。
「問題は札だな」
レティシアが紙を覗き込む。
「紙で大量に作ると高くつくよ」
「やっぱり?」
「薄い木なら作れる。何枚必要なんだ?」
「この世界の文字に合わせたいから、そこから考えないと」
「ならエリシアの出番だな」
「記録と文章ですね。興味深いです」
仲間たちが自然と机の周りへ集まってくる。
ユウトは自分が描いた四角を見つめた。
まだ、ただの線にすぎない。
名前すら決めていない。
それでも、依頼書を読めずに俯いていた新人の顔を思い出す。
「難しい勉強じゃなくても、最初の文字くらいなら覚えられるものを作りたいな」
「それならフィーナが試す!」
「お願いします」
「任せて!」
フィーナは元気よく胸を張った。
その隣で、レティシアはすでに木札の厚みについて考え始め、エリシアは使う文字の順番を紙へ書き出している。
偶然目にした一枚の依頼書から始まった、小さな思いつき。
それがどこまで広がるのか、今のユウトにはまだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
文字を学ぶことが苦痛でしかない人にも、思わず次の一枚へ手を伸ばしたくなるようなものを作る。
ユウトは机の上の四角へ、新たな一文字を書き込んだ。
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