第3章 第85話 逃げてきた魔物たち
坑道の奥から流れてくる風は、妙に冷たかった。
地下だから冷えている――それだけなら、不思議ではない。
けれど、その風を受けたフィーナの白い耳は、さっきから伏せられたままだった。
「……やっぱり、変な匂いがする」
救出した三人の鉱夫を入口側へ送り出したあと、《アカシックレコード》の六人は崩落地点の奥に残っていた。
セレスは最後まで負傷者に付き添い、足を痛めた鉱夫へ固定した布の扱いを説明していた。
「町へ戻るまでは、できるだけ足へ体重をかけないでください。痛みや腫れがひどくなったら、無理をせず休んでくださいね」
「ああ。本当に助かったよ」
三人の鉱夫は何度も頭を下げ、付き添いの仲間とともに坑道を戻っていった。
魔道灯の明かりの向こうへ、その背中が消えていく。
完全に姿が見えなくなってから、ユウトは奥へ向き直った。
岩壁には無数の爪痕が残っている。
地面にも大小さまざまな足跡があった。
どれも、坑道の奥から入口へ向かっている。
「もう一度確認してみる」
ユウトはしゃがみ、足跡へ【鑑定】を使った。
【足跡群】
【ケイブハウンド】
【ロックラット】
【グレイクローラー】
【マインリザード】
【移動方向:坑道深部から地上方向】
【推定状態:逃走】
「やっぱりだ」
「何が分かったのでござる?」
「少なくとも四種類。全部、奥から逃げてる」
アイリスが足元へ視線を落とした。
「互いに争った形跡は?」
「ほとんどない」
「妙でござるな」
魔物だからといって、すべての種族が協力するわけではない。
獲物として狙う相手もいれば、縄張りを争う相手もいる。
それなのに、この場所では複数種の魔物が同じ方向へ移動していた。
「奥に強い魔物でもいるのか?」
レティシアが岩壁に残る傷を確かめる。
「それなら、こいつらが一斉に逃げてきた説明はつくが」
「可能性はあると思う」
ユウトは答えながらも、少し引っ掛かっていた。
強い魔物が縄張りへ入り込めば、弱い魔物が逃げることはある。
だが、それだけなのだろうか。
「……魔力も少し妙ですね」
エリシアが呟いた。
「分かる?」
「ほんのわずかですが」
エリシアは目を閉じ、周囲の魔力を探る。
「流れが乱れています。自然な揺らぎとは少し違いますね」
ユウトも魔力感知へ意識を集中した。
坑道には、地中を流れる微かな魔力がある。
普段なら一定方向へ緩やかに流れているはずなのに、奥から来る魔力だけが小さく揺れていた。
水面へ別方向から波がぶつかっているような、不自然な流れだ。
ユウトは【鑑定】を使う。
【周辺魔力】
【状態:軽度乱流】
【原因:不明】
【詳細解析:情報不足】
「原因までは分からない」
「ユウトお兄ちゃんの【鑑定】でも?」
「うん」
フィーナが少し驚いた顔をする。
以前なら、ユウト自身も同じ反応をしていたかもしれない。
【鑑定】を使えば、たいていのことは分かる。
けれど旅を続けるうちに、それがすべてではないと知った。
情報が足りなければ、答えは出ない。
ならば、情報を集めればいい。
「確認できる範囲まで進んでみよう」
「無理に深追いはしない、ということでよろしいですね?」
セレスが念を押す。
「もちろん」
「なら賛成です」
「フィーナが先に行く!」
フィーナが胸を張る。
「危ないと思ったら、すぐ教えて」
「任せて!」
六人は装備を確認し、坑道の奥へ進み始めた。
先頭はフィーナ。
その少し後ろにアイリス。
中央にユウトとエリシア。
後方をセレスとレティシアが守る。
誰かが指示したわけではない。
最近では、自然とこの形になるようになっていた。
以前のユウトなら、自分が先頭を歩いていただろう。
敵を見つける。
罠を見つける。
敵を倒す。
何か起これば、自分が対処する。
その方が早いと思っていた。
だが、今はフィーナの背中を見ながら歩いている。
白い耳が左右へ動く。
鼻が僅かな匂いを拾う。
その感覚は、ユウトには真似できない。
「止まって」
フィーナが小さく手を上げた。
六人が同時に足を止める。
フィーナは右側へ顔を向けた。
「壁の向こう。何かいる」
ユウトが【鑑定】を使う。
厚い岩壁の向こうに、小さな横穴がある。
【ロックラット 3体】
「ロックラットが三体いる」
「こちらを狙っているのでござるか?」
「待って」
さらに確認する。
【状態:恐慌】
【行動傾向:隠伏】
「いや。隠れてる」
「魔物が?」
フィーナが壁際へ近づいた。
細い亀裂へ耳を向ける。
キィ……キィ……。
小さな鳴き声が聞こえた。
威嚇ではない。
怯えたような声だった。
「奥へ逃げないのかな?」
「逆だと思う」
ユウトは足跡を確認した。
ロックラットたちも、深部からここまで逃げてきている。
だが、途中で横穴へ入り、そのまま動いていない。
【状態:重度疲労】
【外傷:軽微】
「かなり疲れてる。ずっと逃げてきたみたいだ」
戦った形跡はほとんどない。
何かに噛まれたわけでも、大きな傷を負ったわけでもない。
ただひたすら走り続けた。
そんな状態だった。
「追われたのであれば、そのまま外まで逃げそうなものでござるが」
アイリスの言葉に、エリシアが横穴を見つめる。
「ここなら隠れられると思ったのかもしれません」
「……何から?」
フィーナが呟いた。
誰も答えられなかった。
その時だった。
フィーナの耳が跳ね上がる。
「来る!」
ほぼ同時に、坑道の奥から激しい足音が響いた。
ドドドドドッ――!
「数が多い!」
「前からでござるな!」
アイリスが剣へ手を掛ける。
レティシアも盾を構えた。
ユウトは迫ってくる反応へ【鑑定】を使った。
【ケイブハウンド 6体】
【マインリザード 4体】
【グレイクローラー 2体】
十二体。
だが。
「待って! 攻撃しないで!」
「何?」
「こっちを狙ってない!」
ユウトの声を聞き、全員が壁際へ寄る。
アイリスとレティシアだけが念のため前へ立った。
次の瞬間。
魔物たちが姿を現した。
ケイブハウンド。
マインリザード。
グレイクローラー。
本来なら同じ場所に集まれば争ってもおかしくない魔物たちが、互いを見ることすらなく駆けてくる。
一番前のケイブハウンドが六人へ気付いた。
だが、牙を剥かなかった。
襲い掛かってもこない。
ただ一瞬だけこちらを見て、そのまま走り抜けた。
続く魔物も同じだった。
六人のすぐ横を、十二体もの魔物が駆け抜けていく。
足音が遠ざかる。
やがて、坑道へ静寂が戻った。
「……拙者たちを無視したでござる」
アイリスがゆっくり剣から手を離す。
「襲う余裕すらなかったように見えましたね」
セレスも表情を曇らせていた。
フィーナが鼻を動かす。
「やっぱり混じってる」
「さっき言ってた匂い?」
「うん」
「どんな匂いなんだ?」
レティシアに聞かれ、フィーナは困ったように眉を寄せた。
「分かんない」
「分からない?」
「知ってる匂いじゃないの。血でもないし、魔物でもないし、火でもない」
フィーナはもう一度、奥から流れてくる風を嗅ぐ。
「なんか……嫌な感じ」
それ以上は表現できないらしい。
だが、それで十分だった。
「進もう。ただし、少しでも危険だと思ったら戻る」
「承知いたした」
さらに坑道を進む。
しばらくすると、道が大きく開けた。
かつて採掘場として使われていた場所らしい。
天井は高く、周囲には掘削された跡が何層にも残っている。
床には使われなくなった台車。
折れたつるはし。
選別されなかった鉱石。
そして。
「あれ」
フィーナが足を止めた。
広場の中央に、一体の魔物が倒れていた。
ケイブハウンドだ。
「死んでるのか?」
レティシアが一歩出る。
「待って」
ユウトが先に【鑑定】を使った。
【ケイブハウンド】
【状態:死亡】
【外傷:軽微】
【異常:未知の魔力付着】
「……何だ、これ」
「どうしました?」
エリシアが覗き込む。
「身体に知らない魔力が付着してる」
「魔力?」
「うん。でも……」
ユウトはさらに解析する。
【未知の魔力】
【性質:解析不能】
【生体反応への影響:あり】
【詳細:情報不足】
それだけだった。
何の魔力なのか。
どこから来たのか。
何を引き起こすのか。
分からない。
「毒でしょうか?」
セレスが少し離れた場所から死骸を観察する。
「分からない。少なくとも【鑑定】では毒とは出てない」
「魔石は?」
エリシアに聞かれ、ユウトは魔石へ対象を絞った。
【魔石】
【状態:軽度変質】
【原因:不明】
「魔石にも影響が出てる」
ユウトは死骸へ触れずに立ち上がった。
「持ち帰って調べた方がいいと思う」
「なら、これを使え」
レティシアが荷物から小さな金属箱を取り出す。
「鉱石の試料を持ち帰るための箱だ。内側に魔力を遮断する加工がしてある」
「助かる」
ユウトは直接触れないよう、土魔法で薄い板を作った。
それを使って魔石を取り出し、金属箱へ入れる。
レティシアがすぐに蓋を閉じた。
「これでいい」
その直後。
フィーナがゆっくり奥を向いた。
「……濃くなってる」
「匂い?」
「うん」
白い尻尾が下がる。
フィーナはいつもの明るい表情を消していた。
「この先から来てる」
広い採掘場の奥。
崩れた岩の隙間に、さらに深部へ続く坑道があった。
古い支柱。
錆びた金具。
半分崩れた標識。
長い間、誰も使っていないことが一目で分かる。
エリシアが目を閉じた。
「魔力の乱れも強くなっています」
「この先が原因か?」
「少なくとも、乱れはあちらから流れてきています」
ユウトは旧坑道へ【鑑定】を使った。
【旧坑道】
【使用停止:47年前】
【崩落危険:中】
【周辺魔力:異常】
【異常原因:不明】
【詳細解析:情報不足】
そこまでは、予想の範囲だった。
だが。
【警告】
【未知の干渉を検出】
ユウトの表情が変わった。
「ユウト?」
セレスが気付く。
「警告が出た」
「【鑑定】からですか?」
「うん。未知の干渉を検出したって」
エリシアの表情も険しくなる。
「それ以上は?」
「出てない」
ユウトは旧坑道を見つめた。
魔物たちは、ここから逃げてきた。
周辺の魔力も乱れている。
死んだケイブハウンドには、正体不明の魔力が付着していた。
そして【鑑定】からの警告。
確認できる範囲まで調べる。
最初にそう決めていた。
ならば。
「戻ろう」
ユウトははっきり告げた。
誰も反対しなかった。
「賛成です」
エリシアが頷く。
「今ある情報だけで先へ進む理由はありません」
「依頼は坑道の調査と鉱夫の救助だしな」
レティシアが金属箱を軽く叩く。
「変な魔石も確保した。十分だろ」
「ギルドへ報告してから、必要なら改めて調査でござるな」
「うん」
セレスも安堵したように息を吐く。
フィーナだけは、しばらく旧坑道を見つめていた。
「フィーナ?」
「……ううん。何でもない」
「何か聞こえた?」
「聞こえない」
フィーナは小さく首を振る。
「だから、変なの」
「え?」
「さっきまで魔物がいっぱいいたのに、この先……何にも聞こえない」
六人が旧坑道を見る。
確かに静かだった。
水滴の音さえしない。
「戻ろう」
今度はアイリスが言った。
六人は来た道を引き返す。
ユウトも仲間たちについて歩き出した。
十歩ほど進んだところで。
なぜか、もう一度だけ振り返った。
旧坑道は暗い。
魔道灯の光は途中まで届いている。
その先は、ただの闇だった。
何かが見えたわけではない。
音がしたわけでもない。
それでも。
ユウトは反射的に【鑑定】を使った。
普段なら、視界に入った岩壁や坑道そのものが対象になる。
だが。
表示されたのは、たった一行だった。
【鑑定対象を特定できません】
「……え?」
ユウトは目を凝らす。
そこには何もいない。
もう一度【鑑定】を使おうとして――やめた。
「ユウトお兄ちゃん?」
少し先からフィーナが呼んでいる。
「今行く」
ユウトは旧坑道へ背を向けた。
六人の足音が遠ざかっていく。
誰もいなくなった採掘場には、再び静寂だけが残った。
そして、その奥。
長い間閉ざされていた旧坑道から、冷たい風が一度だけ吹き抜けた。
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