第1章 第8話 血痕の先
畑の向こうから、家畜の甲高い鳴き声が響いた。
「家畜小屋の方だ!」
鍬を直してもらった男が駆け出そうとしたが、グレンが腕を伸ばして止める。
「暗闇へ飛び出すな」
「だが、襲われているかもしれない!」
「お前まで襲われれば、守る相手が増えるだけだ。村長、門を閉めろ。家ごとに子どもの数を確認させろ」
村長はすぐに頷いた。
「武器を扱える者は柵と門へ! それ以外は家へ入り、戸を閉めるんじゃ!」
先ほどまでユウトの修理を見守っていた村人たちが、慌ただしく散っていく。
ユウトは地面へ続く赤黒い滴を見た。森で逃げたホーンウルフの血だろう。点々と続く跡は、村の外周に沿って畑へ向かっていた。
「俺も行きます」
「腕に傷があるだろう」
「歩けます。それに、あの魔物の動きは一度見ています」
グレンはユウトの顔を見つめ、短く問う。
「俺の指示に従えるか?」
「従います」
「なら来い。だが、許可なく前へ出るな」
二人は村人から角灯を受け取り、門脇の小さな通用口から畑へ出た。
夜気は冷たく、昼間なら遠くまで見渡せる畑も、今は角灯の淡い光に切り取られている。グレンは灯りを低く掲げ、血痕の周囲へ視線を走らせた。
「次の跡を探せ」
「血なら、あそこにあります」
「血だけを見るな。あの個体は逃げている足取りではなかった。何かを追っている。追われた側の跡もあるはずだ」
ユウトは息を整えた。
大きな足跡には、深い爪痕が残っている。その横に、小さな蹄の跡が続いていた。歩幅は乱れ、土が後方へ激しく跳ねている。
「家畜です。小さな蹄の跡が走っています」
「角山羊の子だろう。柵から抜けたところを見つかったか」
グレンは頷くと、蹄跡が薄くなった草地を示した。
「どちらへ逃げた?」
ユウトは目立つ跡だけを追うのをやめた。
踏み倒された草。茎へ付着した泥。一定方向に揺れ続ける葉。森で教わったことを一つずつ思い出し、ばらばらの情報をつなぎ合わせる。
【探索上達により、追跡情報の整理が補助されます】
「右です。水路の方へ向かっています」
「合っている。足音を抑えろ」
二人は姿勢を低くして進んだ。
水路へ近づくにつれ、家畜の声が大きくなる。そこへ、かすかな泣き声が混じった。
「子どもがいる」
ユウトが足を速めかけると、グレンが肩を押さえた。
「走るな。魔物へ位置を知らせる」
声は落ち着いていたが、グレンの目にも焦りが宿っていた。
茂みの隙間から、水路脇を覗く。
昼間に片輪が外れ、修理を待つため置かれていた荷車が、地面へ傾いていた。その荷台と土の隙間へ、幼い男の子が身体を押し込んでいる。腕の中には、震える角山羊の子が抱かれていた。
荷車の周囲を、灰色のホーンウルフが歩いている。
森で逃げた個体だった。腹には森で負った傷が残り、再び開いた傷口から血が流れている。
ユウトは声を殺して【鑑定】した。
【種族:ホーンウルフ】
【危険度:F】
【状態:腹部裂傷・出血・興奮・強い空腹】
【身体への影響:持久力低下・右後肢の支持力低下】
【行動傾向:逃走する小型生物を優先】
【弱点:眼球・喉・腹部の傷】
グレンが矢をつがえた。
「俺が仕留める。お前はそこから動くな」
ユウトは頷き、周囲へ目を走らせた。
荷車の脇には、外れた側板が斜めに立て掛かっている。魔物と子どもの間へ入る必要が生じた場合、盾代わりには使えそうだった。
弦が張り詰める。
その瞬間、角山羊の子が男の子の腕の中で暴れた。
「待って!」
腕から抜け出した角山羊へ、男の子が手を伸ばす。
ホーンウルフが身をひねった。
同時に弦が鳴り、矢が飛ぶ。狙いは喉だったが、動いた魔物の肩へ突き刺さった。
ホーンウルフが吠え、荷車へ突進する。
「ユウト、下がれ!」
子どもへ届くまで、わずかしかない。
ユウトは荷車脇の側板を着地点に定め、地面を蹴った。
森で使った【跳躍】を思い出す。力を込めすぎず、着地点から目を離さない。膝を曲げて衝撃を逃がしながら、側板の前へ降りた。
【跳躍の身体操作が改善されました】
着地と同時に板を持ち上げ、荷車の枠へ斜めに押し当てる。
ホーンウルフの角が板へ突き刺さった。
衝撃が腕から肩まで突き抜けたが、力を正面から受け止めたわけではない。板の端を荷車の枠へ掛けたため、魔物の突進は斜めへ逸れた。
【名称:荷車の側板】
【状態:劣化・亀裂拡大】
【耐衝撃限界:残りわずか】
一度しか使えない。
ホーンウルフが角を抜こうと首を振る。板が軋み、荷車の枠も揺れた。
「そのまま一瞬だけ押さえろ!」
グレンの声が飛ぶ。
ユウトは板を押し返すのではなく、魔物の頭を傷ついた右後肢側へねじるように力を掛けた。
踏ん張ろうとした右脚が震える。
【身体への影響:右後肢の支持力低下】
傷と姿勢から弱い場所を判断しただけで、未来を見たわけではない。
ホーンウルフの右脚が崩れ、重い身体が横倒しになる。
次の瞬間、グレンの二本目の矢が喉へ深く突き刺さった。
魔物は数度痙攣し、動かなくなった。
「ユウト!」
グレンが駆け寄る。
「怪我は?」
「腕が痺れています。でも、新しい傷はありません」
「動くなと言ったはずだ」
「すみません。けど、あのままだと子どもが――」
グレンは怒鳴りかけたが、言葉を飲み込んだ。すぐに周囲へ視線を走らせ、弓へ新しい矢をつがえたまま気配を探る。
他の魔物がいないと確かめてから、荷車の下へ声を掛けた。
「もう大丈夫だ。出てこい」
男の子は角山羊を抱き直し、泣きながら這い出してきた。
「夕方にこの子が柵から逃げて……みんなが作業場に集まってる間に、僕が連れ戻そうと思って……」
「一人で村の外へ出たのか?」
男の子が震えながら頷く。
「家畜は大事だ。だが、お前の命より大事な家畜はいない。次は必ず大人を呼べ」
「ごめんなさい……」
男の子は壊れかけた側板を見て、さらに顔を歪めた。
「荷車まで壊れちゃった……」
「今は気にしなくていい」
ユウトは板の亀裂を確認した。
「村へ戻ってから、直せるか見てみるよ」
男の子は涙を拭い、小さく頷いた。
グレンは倒れたホーンウルフへ近づき、背中の毛をかき分ける。
「やはり、おかしい」
腹の傷とは別に、背には三本の深い裂傷が残っていた。矢や枝でついたものではない。
「これは俺たちがつけた傷じゃない」
ユウトも【鑑定】する。
【外傷:大型の爪、または同等の攻撃器官による裂傷】
【受傷時期:半日以内】
【加害対象:判別不能】
【推定:ホーンウルフを上回る攻撃力を持つ対象】
このホーンウルフは、森の奥で何かに襲われた。
そこから浅い場所まで逃げ、空腹のあまり角山羊の子を見つけて追ったのだろう。
「大きな魔物から逃げた後、今度は自分が獲物を追っていたんですね」
「ああ。森の奥で何かが動いている」
その時、遠くから重い咆哮が響いた。
ホーンウルフの遠吠えとは違う。空気を震わせ、夜の森にいた鳥たちを一斉に飛び立たせるほど低い声だった。
さらに奥から、複数の獣が枝を折りながら走る音が続いた。
腕の中の角山羊が暴れ、男の子が再び身を縮める。
グレンは暗い森を見つめ、弓を握り締めた。
「ホーンウルフを追い出した何かがいる。しかも、逃げている魔物は一種類だけじゃない」
夜の森から響く足音は、少しずつ村へ近づいていた。
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