第3章 第74話 任せるということ
フィーナが木々の奥へ消えてから、ユウトは一度もそちらを振り返らなかった。
気にならないわけではない。
この森では行方不明になった薬草採取人がまだ見つかっておらず、その近くには明らかに通常より大型化したブラッドエイプがいる。フィーナ一人を向かわせた以上、心配が消えるはずもなかった。
けれど、それでも追わない。
「右前方、来ます!」
エリシアの声に、ユウトは思考を切り替えた。
太い樹木を押し退けるように、赤黒い毛並みの巨体が飛び出してくる。
ブラッドエイプ。
通常個体より二回り近く大きい。両腕は成人男性の胴ほども太く、隆起した筋肉が毛皮の下で縄のように動いていた。
ユウトはすぐに【鑑定】を使う。
【種族:ブラッドエイプ】
【危険度:D】
【状態:異常成長】
【特徴:高い腕力、樹上移動能力、強靭な握力】
【弱点:右肩部の筋組織損傷】
【推定原因:過去の戦闘による負傷】
先ほど確認した情報と変化はない。
「右肩が弱点。ただし、無理に狙わなくていい! まず動きを止めよう!」
「承知いたした!」
最初に踏み込んだのはアイリスだった。
ブラッドエイプが右腕を振り下ろす。
轟音とともに地面が砕けた。
アイリスは紙一重で横へかわし、その勢いを殺さず懐へ潜り込む。
「はあっ!」
斬撃が右肩を浅く裂く。
巨体が怒りの咆哮を上げた。
「来るぞ!」
「任せな!」
振り回された左腕の前へレティシアが滑り込む。
盾と拳が衝突し、重い音が森に響いた。
「ぐっ……!」
レティシアの足が土を削りながら後退する。
だが、倒れない。
「こんなもんかい!」
挑発するように笑いながら、もう一度盾を構える。
ブラッドエイプの注意が完全にレティシアへ向いた。
「今です」
エリシアが杖を上げた。
「ウィンドバインド」
細く圧縮された風が幾重にも絡みつき、ブラッドエイプの両脚を締め付ける。
完全に拘束できるほどではない。
それでも一瞬、巨体の動きが鈍った。
「アイリス!」
「承知!」
アイリスが再び踏み込む。
今度の斬撃は、先ほど自分で付けた右肩の傷へ正確に重なった。
血が散る。
ブラッドエイプの右腕がわずかに下がった。
【右上肢出力低下】
【右肩筋損傷拡大】
「効いてる!」
ユウトが叫ぶ。
その瞬間、ブラッドエイプが低く身を沈めた。
嫌な予感がした。
「レティシア、下がって!」
巨体が跳ねる。
地面を蹴り砕きながら、一気に距離を詰めてきた。
傷ついた右腕ではなく、無事な左腕による横薙ぎ。
「ちっ!」
レティシアは盾を合わせたが、今までより踏み込みが深い。
衝撃を受け切れず、身体が横へ弾かれる。
「レティシア!」
セレスが動いた。
転がったレティシアへ駆け寄るより早く、杖を向ける。
「ヒール!」
淡い光がレティシアの左腕を包む。
盾越しに受けた衝撃で筋肉と関節へ負担が掛かっている。
ユウトにも【鑑定】で分かっていたが、セレスはそれを見るまでもなく判断していた。
「左腕に負担が集中しています! 骨折はしていません。でも、同じ受け方を続けないでください!」
「分かった!」
「レティシア、次は受け止めなくていい! 流して!」
「了解!」
指示を変えながら、ユウトは少しだけ笑った。
以前なら、自分が前に出ていた。
レティシアが弾かれた瞬間に身体強化を使い、ブラッドエイプへ飛び込み、そのまま倒していたかもしれない。
今でも、それはできる。
おそらく一人でも勝てる。
だからこそ、今までの自分はそうしてきた。
けれど――それでは駄目なのだ。
「ユウト!」
セレスの声で意識を戻す。
ブラッドエイプがエリシアを狙っていた。
「分かってる!」
ユウトは地面を蹴った。
剣で攻撃を受けるのではなく、横からブラッドエイプの手首を蹴り上げる。
軌道だけを逸らす。
拳がエリシアの横を抜け、太い木の幹を殴り砕いた。
「助かりました」
「次、いける?」
「もちろんです」
エリシアの周囲へ魔力が集まる。
「アイスランス」
氷の槍が放たれた。
狙いはブラッドエイプではない。
足元だった。
突き刺さった氷が地面を凍結させる。
踏み込もうとした巨体の足が滑った。
「アイリス!」
「いざ!」
すでに走っていたアイリスが跳ぶ。
一閃。
右肩へ三度目の斬撃が入った。
ブラッドエイプの右腕が完全に垂れ下がる。
【右上肢:運動能力大幅低下】
それでも魔物は止まらない。
残った左腕だけでアイリスを掴もうとする。
「させるか!」
ユウトが割り込み、その手首へ剣を叩きつけた。
刃を深く入れない。
狙いは握力を削ぐための腱だ。
【鑑定】で構造を見ながら、最小限の斬撃を入れる。
ブラッドエイプの指がわずかに開いた。
「レティシア!」
「任せな!」
今度のレティシアは正面から受けなかった。
盾を斜めに構え、残った腕を横へ滑らせる。
体勢を崩した巨体の側頭部へ、盾の縁を叩き込んだ。
「今です!」
セレスが叫んだ。
「呼吸が乱れています! 出血も増えています! 長くはもちません!」
治療役だからこそ分かる身体の変化。
ユウトはその判断を疑わなかった。
「決めよう!」
「承知!」
エリシアが風で巨体の足を止める。
レティシアが退路を塞ぐ。
ユウトは正面から注意を引きつける。
そして――アイリスが踏み込んだ。
「これで、終わりでござる!」
剣閃が走る。
深々と入った一撃に、ブラッドエイプの巨体が揺らいだ。
数歩よろめき、やがて地響きを立てて倒れる。
森に静けさが戻った。
「終わった……」
ユウトは剣を下ろした。
自分だけで倒すより時間は掛かった。
けれど、誰も大きな怪我をしていない。
周囲の木々も必要以上に壊していない。
魔法で森ごと吹き飛ばす必要もなかった。
何より、五人がそれぞれの役割で動いていた。
「ユウト」
セレスが近づいてくる。
「どこか怪我していますか?」
「俺は大丈夫」
「では、レティシアさんを診ます」
「頼む」
それだけでいい。
自分で全員を確認する必要はない。
治療はセレスがいる。
「ユウトお兄ちゃーん!」
遠くから声がした。
次の瞬間、茂みの向こうからフィーナが飛び出してくる。
その後ろには、肩を貸されながら歩く一人の男性がいた。
「見つけたよ!」
「よかった……!」
ユウトはようやく肩の力を抜いた。
「倒木の下に隠れてたの。足を怪我してて動けなかったみたい。でも匂いが残ってたから追えたよ!」
得意げに胸を張るフィーナの尻尾が大きく揺れている。
「よく見つけたな」
「えへへ! フィーナに任せて!」
その笑顔を見ながら、ユウトは思う。
戦っている間、何度かフィーナの様子を確認したくなった。
【索敵】を使えば位置くらいは分かっただろうし、自分で探しに行くことだってできた。
けれど、しなかった。
フィーナなら見つけられる。
そう信じて任せた。
任せたのなら、最後まで任せる。
それも仲間を信じるということなのだろう。
「ユウト、こっちも終わったよ」
セレスが振り返る。
「レティシアさんの腕は問題ありません。少し休めば大丈夫です」
「ありがと」
「私は当然のことをしただけですよ」
その言葉に、ユウトは首を振った。
「当然じゃないよ。セレスがいたから、俺は戦うことに集中できた」
セレスが少しだけ目を丸くして、それから柔らかく微笑んだ。
「では、そういうことにしておきます」
「おいおい、あたしにも何かないのか?」
座ったままレティシアが笑う。
「もちろん。助かった」
「拙者もでござる」
「私も働きましたよ」
「わ、フィーナも!」
「分かってるって」
思わず笑いが漏れた。
一人でやる必要はなかった。
強いから全部やるのではなく、できることを仲間へ任せ、自分は必要な場所を補う。
それが六人で戦うということなのだ。
ユウトは倒れたブラッドエイプへ【鑑定】を向けた。
【状態:死亡】
【異常成長:確認】
【推定要因:高濃度魔力の継続摂取】
【詳細原因:特定不能】
解体された魔石にも、ごくわずかな魔力配列の乱れが残っていた。
だが、それ以上の情報は表示されない。
「……変だな」
「どうしました?」
エリシアが横から覗き込む。
「普通より大きくなった理由が、はっきり分からない」
「魔力の濃い場所で長く生きた可能性は?」
「それなら、もう少し情報が出ると思うんだけど……」
ユウトは魔石を掌の上で転がした。
ただの異常個体なら、それでいい。
けれど【鑑定】で原因を特定できないという事実だけが、妙に引っ掛かった。
「ギルドに持ち帰ろう」
今は、それ以上考えても答えは出ない。
ユウトは魔石を収納し、仲間たちを見る。
「帰ろうか」
「うん!」
六人と、無事に救助した依頼人。
森を抜けるため歩き出したユウトは、もう一度だけ収納した魔石のことを考えた。
【鑑定】が示さなかった答え。
それが単なる情報不足なのか。
それとも――今の自分には、まだ見えない何かなのか。
答えは、まだ分からなかった。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




