第2章 第31話 自由になった、そのあとで
隷属印が消えた後も、フィーナはすぐには動かなかった。
首元へ何度も指を当て、黒い紋様が本当に消えていることを確かめている。手首へ巻かれていた鎖は荷車の床へ落ちたままで、白い耳もまだ伏せられていた。
ユウトは入口の外でしゃがみ、急かさず待った。
「立てそう?」
フィーナは恐る恐る足へ力を入れたが、身体がふらつき、すぐに膝をついた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
反射的に出た言葉なのだろう。
うまくできなければ謝る。迷惑をかければ謝る。そうしなければ何をされるか分からない生活をしていたのかもしれない。
ユウトは手を差し出しかけ、途中で止めた。
「肩を貸した方がいい? それとも、もう少し休む?」
フィーナは困ったように視線を揺らした。
「どっちを……選べば、怒られない?」
「どっちでも怒らないよ」
「……分からない」
その一言に、ユウトは胸の奥が重くなるのを感じた。
自由になったからといって、すぐ自由に生きられるわけではない。
選ぶことを奪われ続けた人にとって、選択そのものが怖いのだ。
「じゃあ、今は少し休もう。動けそうになってから、また考えればいい」
フィーナは小さく頷いた。
自分で決める練習が必要だからといって、今すぐ何もかも選ばせればいいわけではない。決められない時は、決められるようになるまで支えればいい。
ユウトはそう考え、荷車の外へ戻った。
リーダーたちは、襲撃された荷車の処理について相談していた。
死亡した護衛は三人。奴隷商人は重傷だが生存。馬は一頭が脚を傷めており、横倒しになった荷車も車軸が折れている。
「こいつはもう動かせないな」
リーダーが荷車を見て言う。
「俺たちが護衛していた二台だけなら集落まで進めるが、この状況を放置するわけにもいかん」
依頼主の雑貨商は少し考えた後、すぐに頷いた。
「町へ戻ろう。商品なら遅れても運べる。死人と重傷者が出ているなら、ギルドへ報告する方が先だ」
「依頼は途中になります」
「構わない。俺から事情を説明する」
依頼主自身が判断したことで、方針は決まった。
奴隷商人は雑貨商の荷車へ寝かせる。死亡した護衛たちは布で覆い、場所が分かるよう目印を残して、ギルドへ回収を依頼することになった。
壊れた荷車からは、書類や身元確認に必要そうな物だけを回収する。
フィーナをどうするかという話になり、ユウトは再び荷車へ戻った。
「町へ戻ることになったよ」
フィーナが顔を上げる。
「歩くのはつらいと思うから、荷車に乗れる。でも、あの奴隷商人とは別の荷車にする」
「同じところに……戻されない?」
「戻さないよ」
即答すると、フィーナの肩からほんの少し力が抜けた。
「町に着いたら、ギルドへ事情を話す。そこまでは俺も一緒に行く」
「ユウトも?」
「うん。ギルドまでは一緒」
フィーナは少し考えた後、小さく頷いた。
「……乗る」
「分かった」
荷車へ毛布を敷き、フィーナは端へ身体を寄せるように座った。
帰路は静かだった。
車輪が石を踏んで大きな音を立てるたび、フィーナの耳が震える。人が近づけば身体を固くする。それでも、街道を進むにつれて少しずつ表情から緊張が抜けていった。
途中、雑貨商が保存食を差し出した。
「食べられそうなら、これを」
フィーナは手を伸ばさず、ユウトを見る。
「食べても……いい?」
許可を求めている。
ユウトは頷く代わりに、自分の保存食を取り出した。
「俺はこれを食べる」
それからフィーナの前にある包みを指す。
「そっちはフィーナの分だから、食べるかどうかは自分で決めていいよ」
しばらく迷った後、小さな手が保存食へ伸びた。
一口。
続いて、もう一口。
肉の干し物を噛んだ瞬間、白い尻尾がほんの少しだけ揺れる。
ユウトは気付かないふりをした。
城壁都市へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
門衛へ事情を説明すると、すぐに冒険者ギルドと治療院へ連絡が送られた。
奴隷商人はそのまま治療院へ運ばれる。
フィーナも脱水と衰弱が残っていたため、簡単な診察を受けることになった。大きな怪我はなく、水分と食事を取りながら休めば回復するだろうと判断される。
その後、ユウトたちは冒険者ギルドへ向かった。
受付には依頼担当の職員だけでなく、奥から責任者らしい職員も出てきた。
リーダーが発見時の状況を順番に説明する。
「街道脇に新しい車輪跡がありました。林の奥で襲撃された荷車を発見。護衛三名は死亡、奴隷商人一名は重傷。白狼族の少女一名が拘束されていました」
「隷属印は?」
「解除されています」
職員の視線がユウトへ向く。
「誰が解除を?」
「俺です」
「どうやって?」
「【鑑定】で隷属印の術式を解析して、契約の中にあった解除部分だけを使って【契約解除】を構築しました」
受付周辺が妙に静かになった。
職員が何度か瞬きをする。
「……隷属印を、解析?」
「はい」
「解除部分だけを取り出して?」
「はい」
「その場で新しい魔法を?」
「そうです」
ユウトには、なぜそこまで驚かれているのか分からなかった。
隣でリーダーが額を押さえる。
「こいつ、こういう奴なんです」
「説明になっていません」
「俺にも説明できません」
重い空気が少しだけ緩んだ。
職員はため息をついた後、フィーナを見る。
「魔法の件は後で詳しく確認します。今はこの子の今夜の寝場所と食事をこちらで手配します」
フィーナの耳が伏せられた。
「……ここに、いないとだめ?」
「無理に決める必要はありません」
職員は声を柔らかくした。
「今日は安全に休める場所を用意します。これからどうするかは、落ち着いてから考えればいい」
「どうするか……」
フィーナはまたユウトを見る。
「ユウトは……どこに行くの?」
「俺は宿へ戻るよ」
「じゃあ、フィーナも……」
そこまで言って、言葉が止まる。
ユウトはすぐに頷かなかった。
「俺と同じ宿へ行きたいなら、それも後で相談できる。でも、今日はギルドが手配した場所で休むこともできる」
「……どっち?」
「今すぐ決められないなら、今日のことだけ決めよう」
フィーナの表情に、少しだけ戸惑いが薄れる。
「今日は、安全な場所で休む。明日になったら、また考える。それでもいいんだよ」
「ユウトは……明日も来る?」
「来るよ」
「ほんとうに?」
「約束する」
フィーナは胸元で両手を握り、長い間考えた。
やがて、ゆっくり口を開く。
「……じゃあ、今日は……ここで用意してくれるところに行く」
「分かった」
その答えを聞いても、ユウトは褒めなかった。
正しい選択をしたから認める、という形にしたくなかった。
フィーナが選んだ。
それだけでいい。
職員に案内され、フィーナは数歩進む。
その途中で足を止め、振り返った。
「ユウト」
「うん?」
「……明日、来てね」
「もちろん」
白い耳が、ほんの少しだけ持ち上がる。
フィーナは前を向き、今度は自分の足で歩き出した。
ユウトは、その小さな背中が廊下の向こうへ消えるまで、黙って見送った。
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