第2章 第30話 自分で選ぶために
荷車の奥で、フィーナは膝を抱えていた。
白い耳は頭へ張りつくほど伏せられ、細い足首をつなぐ鎖が、震えに合わせて小さく鳴っている。逃げ場はない。それでもユウトがわずかに身じろぎするたび、少女はさらに背中を壁へ押しつけた。
ユウトは腰を落としたまま、距離を詰めなかった。腰の剣はすでに地面へ置いてある。両手も、何も持っていないと分かるよう膝の上へ載せた。
「俺はユウト。君を傷つけるつもりはないよ」
返事はなかった。
フィーナの瞳は、ユウトの顔よりも、その手と荷車の外に置かれた剣を何度も見ている。言葉ではなく、危険がないかを必死に確かめているのだろう。
「近づかない。ここにいるから、安心できるまで待つよ」
命令に聞こえないよう、ゆっくりと告げた時だった。
「ユウト! こっちの男を見てくれ!」
荷車の外からリーダーの声が飛んだ。
血に染まった上着の男は、浅い呼吸を繰り返している。放置すれば長くはもたない。
ユウトはフィーナへ視線を戻した。
「けがをした人を助けてくる。扉は開けておくから、外へ出るか、ここにいるかは君が決めていい」
少女の耳が、わずかに動いた。
ユウトは急に立ち上がらず、ゆっくり身体を起こしてから男のそばへ向かった。
【種族:人族】
【職業:奴隷商人】
【HP:5/68】
【状態:大量出血・意識混濁・肋骨骨折】
【致命危険:高】
【推奨処置:止血・傷口洗浄・回復魔法】
「奴隷商人です。まだ生きていますが、急がないと危険です」
「荷車の持ち主か」
リーダーは男の腰に下げられた商業カードと鍵束を確認した。弓使いは周囲を警戒したまま、倒れた護衛たちへ目を向けている。
ユウトは買っておいた清潔な布を傷口へ押し当てた。泥を洗い流し、折れた骨が内臓へ刺さっていないことを【鑑定】で確かめる。
回復魔法は、何も考えず使えばよいものではない。汚れや異物を残したまま傷だけを閉じれば、かえって悪化する可能性がある。
「ヒール」
淡い光が脇腹を包み、裂けた傷を内側から少しずつ塞いでいく。
【HP:17/68】
【状態:重傷・意識混濁】
【致命危険:低下】
「すぐに死ぬ状態からは抜けました。ただ、町へ運んで治療を受けさせる必要があります」
「初級回復魔法で、そこまで治したのか……」
リーダーは驚いたが、ユウトは答えずに荷車へ戻った。
フィーナは同じ場所にいた。
だが、先ほどよりも少しだけ顔を上げている。
「喉は渇いている?」
水筒を見せると、青みがかった瞳が揺れた。
欲しいとも、いらないとも言わない。言ってよいのか分からないようだった。
「ここに置くね。飲むかどうかは、君が決めていい」
ユウトは扉の内側へ水筒を置き、手を引いた。
長い沈黙の後、フィーナが鎖を引きずりながら近づく。水筒を両手で抱え、ほんの一口だけ水を含んだ。
すぐに奪われると思っているのかもしれない。
「その水は、君のために置いたものだよ」
許可を与えるのではなく、事実だけを伝える。
フィーナはユウトを見つめた後、今度は先ほどより長く水を飲んだ。
少しだけ呼吸が落ち着いたのを確認し、ユウトは首元の黒い紋様へ意識を向ける。
紋様そのものを対象に、【鑑定】を発動した。
【隷属印】
【分類:契約魔法】
【契約効果:
契約者の命令を強制
命令への抵抗を抑制
命令違反時に苦痛を付与
契約者への攻撃を禁止】
【契約者:荷車外の奴隷商人】
【解除方法:契約術式内の解除処理を正常に実行】
【警告:術式の強制破壊は対象の肉体および魂を損傷する可能性があります】
力任せに壊してはいけない。
黒い紋様はフィーナの魔力と魂へ結び付けられている。外側だけを消せば、契約の力が内側で暴走する危険があった。
ユウトは【解析上達】の補助を受けながら、術式を構成する魔力の流れを一つずつ読み取る。
対象を識別する部分。
契約者を登録する部分。
命令を伝える部分。
抵抗を封じ、苦痛を与える部分。
そして、契約を終わらせるための解除部分。
隷属魔法そのものを覚える必要はない。誰かを縛る術式など使うつもりもなかった。
必要なのは、すでに存在する解除処理だけだ。
契約の結び目を見つけ、命令と罰則を停止し、魂との接続を安全な順番でほどいていく。その理論を、これまでに解析した魔力制御の術式と組み合わせる。
【解析結果】
【解除処理の分離:可能】
【必要工程:
契約対象識別
契約核停止
命令系統遮断
苦痛術式停止
魂との接続解除
残留魔力排出】
【新規構築可能魔法:【契約解除】】
新しいスキルを創造したわけではない。
隷属契約の中へ最初から存在した解除術式を読み取り、人を縛る部分を取り除いて、一つの魔法として組み直したのだ。
「解除できます」
ユウトの声を聞き、リーダーが荷車へ近づいた。
「待て。奴隷契約を第三者が勝手に解いてよいのか、俺には判断できん」
「このまま連れて帰れば、確認してもらえるのでは?」
「ああ。普通なら町へ戻して、ギルドや役人へ引き渡すべきだ」
慎重な意見だった。
だがユウトは、もう一度隷属印を確認する。
【状態:不安定】
【原因:契約者の瀕死状態】
【予測される影響:契約者死亡時、苦痛術式が誤作動する可能性あり】
「待てません」
「何?」
「奴隷商人が死ねば、契約が誤作動する可能性があります。フィーナに強い苦痛が発生するかもしれません」
治療によって男の死は遠ざけた。それでも重傷であることに変わりはない。移送中に容体が悪化する可能性もある。
リーダーは倒れた男とフィーナを交互に見た。
「安全に解けるのか?」
「契約に元からある解除手順を使います。無理に壊すわけではありません」
「……なら、少女本人へ確かめろ。俺たちが決めることじゃない」
その言葉に、ユウトは頷いた。
荷車の入口へ戻り、フィーナと目線の高さを合わせる。
「フィーナ」
初めて名前を呼ぶと、白い耳がぴくりと動いた。
「首にある紋様を消せると思う。命令されたり、逆らった時に痛みを与えられたりする契約も解除できる」
フィーナの指が、首元の紋様へ触れた。
「……ご主人さまの、命令?」
「違う。俺は君の主人じゃない」
少女は信じられないものを見るように目を見開いた。
「魔法を使うかどうかは、君が決めていい。嫌なら使わない。今すぐ決められないなら、待つよ」
「フィーナが……決めるの?」
「うん」
「消したら……あなたの命令を聞くの?」
「聞かなくていい。俺だけじゃない。誰の命令にも従う必要はない」
「怒らない?」
「怒らないよ」
「痛く、しない?」
「しない」
フィーナは俯いた。
鎖でつながれた両手を見つめ、何度も唇を開きかける。それでも言葉が出てこない。
自分で決めるという行為そのものが、彼女には難しいのだ。
ユウトは急かさなかった。
やがて、フィーナが顔を上げた。
「……消して、ほしい」
小さく、震えた声だった。
それでも確かに、彼女自身が選んだ言葉だった。
「分かった」
ユウトは荷車へ入る前に、もう一度伝える。
「首の近くへ手をかざす。怖くなったら、止めてと言って」
フィーナが頷く。
ユウトは直接触れず、黒い紋様の前へ手をかざした。
契約対象を確認する。
契約核を停止する。
命令と苦痛の術式を切り離し、魂へ負担がかからないよう、外側から順番に接続をほどいていく。
「命令を止め、罰を退け、その結びを解き放て――【契約解除】」
淡い光がフィーナの首元を包んだ。
黒い紋様が細い線へ分かれ、ほどけるように薄れていく。最後の一線が消えると、手足の鎖へ流れていた魔力も途切れた。
【隷属契約:解除完了】
【強制命令・抵抗抑制・苦痛付与・攻撃禁止:消失】
【魔法【契約解除】を習得しました】
フィーナは両手で首元を押さえた。
身体を固くし、痛みが訪れるのを待っている。
しかし、何も起こらない。
「……命令、こない」
「もう来ないよ」
「ほんとうに?」
「本当だ」
フィーナの瞳から、大粒の涙がこぼれた。
泣き声は上げなかった。泣くことさえ許されるのか分からないように、ただ静かに涙を流している。
ユウトは手を伸ばさず、彼女が自分で動くのを待った。
やがてフィーナは、手首へ巻かれていた鎖を自ら持ち上げた。
そして、誰かに命じられたのではなく、自分の意思で、鎖を床へ落とした。
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