最終章 第229話 新たな娯楽神
最初に戻ってきたのは、音だった。
すぐそばで、誰かが泣いている。
「ユウトお兄ちゃん……!」
目を開ける。
フィーナだった。
涙で頬を濡らしながら、俺の手を両手で握っている。
「……フィーナ?」
「よかった……! ほんとに、よかったぁ……!」
そのまま、家族へ縋るように胸へ飛び込んでくる。
受け止めようとして。
腕が、ほとんど動かなかった。
【現在MP:-2875】
【魔法使用不能】
【重度魔力欠乏】
【集中力:大幅低下】
【身体能力:大幅低下】
【反応速度:大幅低下】
「……ひどいな」
「自分で言います?」
横からセレスの声が飛んできた。
俺の脈を取り、瞳孔を確認しながら、容赦なく続ける。
「起きても動かないでください。今回は本当に駄目です」
「世界を救った直後でも?」
「世界を救ったからです」
「……はい」
逆らえない。
レティシアは少し離れた場所で、ひしゃげた俺の胸当てを見て顔をしかめていた。
「まったく……ここまで壊すかねぇ」
「ごめん」
「謝るくらいなら次は壊すな」
「努力はする」
「最初からそう言いな!」
いつもの声。
いつものやり取り。
それだけで、胸が少し軽くなる。
エリシアは崩れていく神域を見上げていた。
「神力の残留反応が、急速に消えています」
アイリスも刀を鞘へ納める。
「……終わったのでござるな」
「ああ」
俺はゆっくり息を吐いた。
ヴォイドは消えた。
自由意思を奪う権能も。
人々を一つの幸福へ押し込める力も。
もう戻らない。
その時。
崩れかけた神域の向こう側で、何かが揺れた。
地上の声が直接聞こえたわけじゃない。
ただ。
消えかけた神域を通して、無数の感情だけが一瞬、流れ込んできた。
恐怖。
安堵。
怒り。
悲しみ。
喜び。
泣きたい。
笑いたい。
誰かに会いたい。
家へ帰りたい。
全部が違う。
だからこそ。
「……戻った」
俺は呟いた。
人々の心が。
自分のものに。
◇
アルテシア王国の避難所では。
母親が子どもを抱き締めながら、声を震わせていた。
「怖かった……」
「お母さん、泣いてる」
「うん。泣いてる」
母親は涙を拭わなかった。
「怖かったからね」
その隣では、避難指示の木札を読んでいた少年が大人たちへ叫ぶ。
「東門は使えないって! 南の広場へ行くんだって書いてある!」
「読めるのか?」
「カルタで覚えた!」
「なら案内してくれ!」
「うん!」
魔法王国ルーンベルクでは、学院の教授が震える手で結界装置へ触れていた。
「怖い」
助手が振り返る。
「先生?」
「失敗したらどうなるか、考えたくもない」
一度、目を閉じる。
そして。
「だから確認する。第三回路、再計算だ」
「はい!」
鍛冶王国グランバルドでは、壁の亀裂を前に職人が怒鳴る。
「怖いなら下がれ!」
「親方は!?」
「俺も怖ぇよ!」
「じゃあ!」
「だから一緒に直すんだろうが!」
獣王国ガルディアでは、泣き出した子どもへ誰かが木製のコマを渡した。
「回してみるか?」
「……今?」
「嫌ならやらなくていい」
子どもは少し考えて。
「……やる」
自分で紐を巻いた。
世界中で。
人々が、また選び始めていた。
◇
地底最深部。
天井のないはずの神域へ、四つの光が降りてきた。
赤。
青。
金。
白。
「……神格反応?」
俺は霞む視界を無理やり合わせる。
一度。
情報が崩れる。
二度目も輪郭だけ。
息を整えて、もう一度【鑑定】した。
【神格反応】
【遊戯神】
【物語神】
【芸能神】
【祝祭神】
【状態:神力回復中】
「来ましたね」
エリシアが静かに呟く。
四つの光は、俺たちの前で止まった。
以前は断片しか届かなかった声が。
今度は、はっきり聞こえる。
『……ありがとう』
最初の声。
『かつての主を、止めてくれて』
別の声が続く。
『我らが救えなかった方を、終わらせてくれて』
胸の奥が少し痛んだ。
俺はヴォイドの最後の顔を思い出す。
「俺たちだけじゃありません」
四つの光が揺れた。
「地上の人たちも、自分で選んだからです」
逃げること。
残ること。
誰かを助けること。
怖いと口にすること。
それでも動くこと。
「俺たちは、その選択を守っただけです」
しばらく。
四柱は何も言わなかった。
やがて、世界中から淡い光が昇り始める。
リバーシを囲んで笑う家族。
避難所でカルタを広げる子どもたち。
壊れた楽器を直して一曲だけ奏でる男。
木片芝居を再開する語り手。
泣きながら歌う人。
勝ったと騒ぐ人。
一人で静かに本を開く人。
誰かに決められていない感情。
誰かに与えられていない楽しみ。
それが、神力となって集まってくる。
四つの光が、ゆっくり向き合った。
『主神の座を空けたままにはできません』
物語神。
『しかし』
芸能神。
『誰か一柱の価値だけを、娯楽の正解にもできない』
祝祭神が続く。
『祭りだけでも』
『物語だけでも』
『芸能だけでも』
最後に、遊戯神が静かに言った。
『遊びだけでも』
少し間が空く。
『人の楽しみは完成しない』
その声に迷いはなかった。
それでも、遊戯神自身は前へ出ようとしない。
『ならば』
物語神の光が近づいた。
『あなたへ託します』
『なぜ、私に?』
『あなたが司ってきたものは、勝敗だけではないからです』
芸能神が答える。
『人が「やってみたい」と手を伸ばす、その最初の一歩』
祝祭神も続く。
『一人で遊ぶことも』
『誰かと競うことも』
『協力することも』
『集まり、笑うことも』
『すべては「自分で楽しもうとする」意思から始まる』
遊戯神の光が揺れた。
『ですが、それは皆の領域でもある』
『だからこそ』
三柱の声が重なった。
『一柱で持つのではなく』
『我らの権能を奪うのでもなく』
『我らを束ねる上位の役目として』
『娯楽そのものを守る主神となってください』
長い沈黙。
やがて。
『……分かりました』
遊戯神の光が前へ出る。
『ならば、受け取ります』
『ただし』
声が強くなる。
『我が楽しみを決める神にはならない』
三柱の光が応える。
『それでこそ』
四つの光が重なった。
巨大な光柱が、地底から神界へ伸びる。
俺は眩しさに目を細めながら、かろうじて【鑑定】を通す。
【神格昇華確認】
【遊戯神】
【→ 主神《娯楽神》】
それだけだった。
けれど。
十分だった。
新たな声が、世界へ響く。
『我は誓います』
『楽しむことを強制しません』
『一つの幸福だけを正解とはしません』
『何を楽しいと思うか』
『誰と楽しむか』
『一人で楽しむか』
『皆で楽しむか』
『あるいは』
『今日は、何も楽しみたくないか』
『それすらも、人が自ら選ぶもの』
ヴォイドとは違う。
幸福を与える神じゃない。
幸福を選べる世界を守る神。
『そして』
新たな娯楽神が告げる。
『人々が、自ら新しい楽しみを生み出すことを妨げません』
その瞬間。
世界のどこか。
一人の木工職人が、作業台の端材を並べていた。
「……待てよ」
隣の職人が振り返る。
「どうした?」
「駒を取り合うんじゃなくてさ」
木片を一本。
また一本。
線のように並べる。
「みんなで道をつないで、端から端まで届かせる遊びはどうだ?」
「勝ち負けは?」
「なくてもいい」
「……それ、遊びになるのか?」
「分からん」
職人は笑った。
「だから作ってみようぜ」
二人とも。
しばらく黙った。
「……今の」
「ああ」
「誰にも教わってないよな?」
「ああ」
別の町では、少女が童話集を閉じる。
「この続きじゃなくて……全然違う話を書いてみたい」
別の村では、子どもたちがコマを並べる。
「回すだけじゃなくて、当てずに囲めたら勝ちってどう?」
「じゃあ三人でもできる?」
「やってみよう!」
模倣ではない。
装飾の変更でもない。
新しい仕組み。
新しい物語。
新しい遊び。
世界が。
自分で続きを作り始めた。
「……よかった」
俺は小さく笑った。
もう。
俺が全部考えなくていい。
◇
迷宮を出た俺たちは、そのまま治療施設へ運ばれた。
俺に関しては、ほぼ強制だった。
「歩けるって」
「歩かせません」
「セレス……」
「駄目です」
結局、担架。
格好はつかなかった。
それでも。
世界連合の部隊が俺たちを見つけた瞬間。
「《アカシックレコード》だ!」
歓声が爆発した。
誰かが泣いた。
誰かが拳を突き上げた。
六か国の旗が、一斉に揺れる。
数日後。
各国政府。
冒険者ギルド。
神殿。
学院。
商業ギルド。
世界連合の主要組織すべてによる共同決議が発表された。
反対――なし。
《アカシックレコード》。
世界存亡の危機を退けた功績により。
冒険者ランク――SSS。
百年以上現れていないSSを飛ばしての認定について、本部長グレイグは記者たちを前に言い放った。
「SSは複数国家規模の危機を退ける者への称号だ」
一度、書類を見る。
「今回、救ったのは世界だ」
そして。
「世界を救った奴らを、今さら昇格試験に呼ぶ馬鹿がいるか」
反論する者はいなかった。
◇
それから。
少しだけ世界が落ち着いた夜。
俺は四人と向き合っていた。
アイリス。
エリシア。
セレス。
レティシア。
逃げたい。
ヴォイドと向き合った時より緊張する。
「……ユウト殿?」
「はい」
「なぜ正座を?」
「なんとなく」
レティシアが吹き出した。
「邪神の前より情けない顔してるよ」
「仕方ないだろ……」
俺は一度、息を吐く。
「戦いが終わったら、答えるって言ったから」
四人が静かになる。
「俺も、みんなのことが大切だ」
そこで止める。
違う。
それだけじゃ足りない。
「……仲間としてだけじゃなく」
一人ずつ見る。
「一人の女性として、みんなのことを意識してる」
アイリスの顔が一気に赤くなった。
セレスは目を丸くする。
レティシアは一瞬固まり。
エリシアだけが瞬きを二度した。
「でも」
俺は続ける。
「今すぐ形だけ決めたくない」
結婚。
婚約。
そういう言葉だけを先に置きたくない。
「これからも一緒に生きて、もっと話して」
「その中で、自分の気持ちにもちゃんと答えを出したい」
しばらく沈黙。
最初に笑ったのはセレスだった。
「はい」
優しい笑顔。
「それで十分です」
アイリスも深く頷く。
「拙者も、急かすつもりはござらぬ」
レティシアは腕を組んだ。
「まあ、そのくらいは自分で悩みな」
エリシアが胸元へ手を置く。
「……興味深いですね」
皆の視線が集まる。
「自分のことなのに、こんなに心臓が速くなるものなんですね」
「そこを観察するのでござるか……」
アイリスが困った顔をした。
思わず笑ってしまう。
少し離れたところで。
「じゃあ!」
フィーナが元気よく手を上げた。
「フィーナも、これからずっと一緒だよね?」
「もちろん」
俺は迷わず答える。
「フィーナは大事な家族だから」
「えへへ!」
白い尻尾が大きく揺れた。
今は。
それでいい。
これから先。
彼女が大人になって。
何を思い。
何を選ぶのか。
それは、その時のフィーナ自身が決めることだ。
◇
その夜。
一人になった部屋へ。
淡い光が降りた。
『ユウト』
「ソフィエル様」
久しぶりに聞く声。
この世界へ来る前。
何もない白い場所で聞いた声。
『最初に、あなたへお伝えしたことを覚えていますか?』
俺は少し考える。
「……世界を救え、とは言わなかった」
『ええ』
ソフィエルが笑う。
『あなたが何を選び、得た知識をどう使うか』
『それは、あなた自身に委ねると伝えました』
「覚えてます」
『あなたは、多くのものを見ました』
『理解しました』
『試しました』
『失敗しました』
『応用しました』
『仲間と共有しました』
『そして、社会へ渡しました』
俺が歩いてきた道。
『最後には』
光が少し強くなる。
『知識をどう使うべきか、その責任まで自ら選びました』
胸の奥が熱くなる。
『だからこそ』
ソフィエルの声が少しだけ柔らかくなった。
『いつか、あなたが望むのであれば』
『私のもとで、中級神《解析神》として世界を見守る道もあります』
「……俺が、神に?」
『ええ』
俺はしばらく言葉を失った。
その時。
反射的に自分へ【鑑定】を向ける。
【神格適性:発現】
【昇神候補:《解析神》】
【現在:未選択】
未選択。
その表示を見て。
なぜか少し安心した。
『ただし』
ソフィエルが続ける。
『今すぐである必要はありません』
「え?」
『あなたは、まだ十八歳ですから』
あまりにも普通の言い方で。
思わず笑ってしまった。
『人として旅を続けることも』
『誰かを好きになることも』
『家族を作ることも』
『年を重ねることも』
『すべて経験した後で、改めて選べます』
選べる。
その言葉が。
今は何より嬉しい。
「じゃあ」
もう答えは決まっていた。
「今は、人として生きます」
『理由を聞いても?』
俺は窓の外を見る。
庭では。
フィーナが、見たことのない遊びをしている子どもたちへ混ざっていた。
アイリスは真剣な顔でルールを聞き。
エリシアは横で記録を取り。
セレスは飲み物を配り。
レティシアは駒の出来へ文句を言っている。
いつもの五人。
でも。
これから何をするかは。
まだ何も決まっていない。
「まだ、みんなとやりたいことがいっぱいあるので」
ソフィエルは静かに笑った。
『良い答えだと思います』
そして。
『もちろん』
少しだけ楽しそうに続ける。
『それを良いと決めるのも、あなた自身ですが』
「はい」
俺も笑った。
ふと。
これから先の自分たちを【鑑定】してみようかと思った。
どこへ行くのか。
誰と生きるのか。
いつ神になるのか。
何を作るのか。
どんな幸福を選ぶのか。
けれど。
そんなものが表示されないことは、もう分かっている。
【確定していない未来】
【対象自身が決めていない選択】
【鑑定不能】
「……そりゃそうだ」
俺は窓の外を見る。
まだ知らない未来。
まだ決めていない人生。
だからこそ。
少しだけ。
楽しみだった。
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