第10章 第225話 望まなくなる世界
心律晶が、六人分いっせいに悲鳴を上げた。
――迷う心そのものを、休ませてあげよう。
ヴォイドの言葉が響いた次の瞬間。
音が消えた。
黒い神域も。
崩壊した封印も。
ヴォイドの姿さえ消える。
「……ここは」
目の前にあったのは、見慣れた宿屋の食堂だった。
朝日が差し込み、焼きたてのパンと肉料理の匂いがする。
「ユウトお兄ちゃん、おはよー!」
フィーナが笑いながら手を振った。
「ずいぶん眠っておられたな」
アイリスは茶を飲んでいる。
「おはようございます」
エリシアは本を開き。
「朝食、できていますよ」
セレスが皿を並べ。
「早く座りな」
レティシアが椅子を引く。
全員がいる。
誰も傷ついていない。
その光景だけなら。
本当に幸せだった。
「……今日は、何をする?」
俺は聞いた。
フィーナが不思議そうに瞬きする。
「何かしないと駄目なの?」
「え?」
「ここにいれば幸せだよ?」
アイリスにも聞く。
「鍛錬は?」
「必要でござるか?」
いつもなら、休めと言っても剣を振りたがる。
なのに。
「今のままで十分幸せゆえ」
エリシアを見る。
手元の本には、びっしりと魔法理論が書かれている。
「何を読んでる?」
「分かりません」
「……分からない?」
「はい。でも、知らなくても困りませんから」
頁をめくる。
そこに答えはある。
それなのに。
目が何一つ追っていない。
「知りたくないのか?」
「知る必要がありますか?」
ぞっとした。
セレスは料理を置き、自分も席につく。
「治療院には行かないの?」
「誰も病気ではありませんから」
「じゃあ、今日は何をしたい?」
「何もしなくても幸せです」
「料理は?」
「作らなくても、皆さん幸せですよ?」
レティシアの前には槌が置かれている。
錆びてもいない。
だが、触れられた形跡もない。
「何か作らないのか?」
「必要な物は全部あるよ」
「必要なくても、作りたいものは?」
レティシアが首を傾げた。
「必要のない物を、どうして作るんだい?」
その言葉で。
はっきり分かった。
これは第223話で見た世界とは違う。
あの世界では、ヴォイドが幸福を選んでいた。
今は違う。
――選びたいという気持ちそのものが消されている。
『穏やかだろう?』
ヴォイドの声。
『欲しなければ、得られない苦しみもない』
『知りたがらなければ、答えに届かない焦りもない』
『作りたがらなければ、失敗して傷つくこともない』
『誰かを選ばなければ、別れを恐れることもない』
「……だから、望みそのものを消したのか」
『必要のない渇きを休ませただけだよ』
食堂の扉が開く。
町の人々が入ってきた。
冒険者。
商人。
職人。
子ども。
皆、満ち足りた笑顔だった。
『君も同じだ、ユウト』
『もう頑張らなくていい』
『考えなくていい』
『正しい答えを探さなくていい』
『君が何もしなくても、大切な者たちは幸福でいられる』
胸が揺れた。
そこだけは。
否定しづらかった。
誰も俺を必要としない。
それでも皆が幸せなら。
それ自体は、悪いことじゃない。
「……俺が必要ない世界なら、それでもいい」
ヴォイドが黙った。
「みんなが自分で生きて、それで幸せなら。俺の出番なんかなくていい」
『なら、ここに――』
「でも」
俺はフィーナを見る。
「フィーナ。俺と旅を続けたい?」
「旅をしなくても幸せだよ?」
「したくない?」
「したいって思う必要、あるの?」
その答えが。
何より怖かった。
俺の頭に、迷宮でフィーナ自身が選び取った言葉が蘇る。
――どっちにするかは、フィーナが決めたい。
「……違う」
『何が?』
「俺がいなくても幸せなのと」
フィーナを見つめる。
「何も望まなくなるのは、全然違う」
『望みは不足から生まれる』
『不足がなければ必要ない』
「そうじゃない」
まだ、全部を言葉にはできない。
でも。
これは分かる。
「腹が減ったから食べたいだけじゃない」
「強くないから鍛えたいだけじゃない」
「知らないから調べたいだけじゃない」
アイリス。
エリシア。
セレス。
レティシアを見る。
「好きだから、やりたいことだってある」
食堂が僅かに揺れた。
ヴォイドの声が低くなる。
『好きだから選び』
『選ぶから失う』
『失うから苦しむ』
『その連鎖を断って、何が悪い?』
「苦しみを減らすことは悪くない」
そこは譲らない。
「怪我もしない方がいい」
「病気もない方がいい」
「失敗だって減らせるなら減らしたい」
『なら――』
「でも、望むことまで病気扱いするな」
空間に亀裂が走った。
『望みは争いを生む』
「だからって、全部なくすのか?」
『毒を飲む自由を残すことに価値があるのか?』
強い反論だった。
『崖から飛び降りる選択肢を守るのか?』
「止めるよ」
『ほら』
「でも、それと人生全部を決めるのは違う」
俺は一歩前へ出る。
「危険だから止めることはある」
「助けるために、本人の意思より先に動くことだってある」
「それでも」
ここから先は。
まだ、俺自身がもっと考えなければならない。
だから、全部を言い切らない。
「その人が何を好きになるかまで、俺が決めていいとは思わない」
パキン。
胸元の心律晶に亀裂が入った。
同時に。
どこからともなく、ほんの微かな神力が触れる。
『……選……』
『……自ら……』
四柱の残した、ごく弱い抵抗。
そして。
五人が迷宮の中で、自分自身の意思で拒絶した記憶。
それらが重なった。
フィーナの耳が、ぴくりと動く。
「……お肉」
「フィーナ?」
「フィーナ……今日は、お肉が食べたい」
笑顔が。
初めて揺れた。
「幸せだからじゃなくて」
ぎゅっと拳を握る。
「フィーナが食べたいから!」
アイリスが立ち上がる。
「拙者は剣を振りたい」
エリシアが本を見る。
「……これ、読んでみたいですね」
セレスが料理皿へ目を落とす。
「食べてもらいたいです。私が作ったものを」
レティシアが槌を掴んだ。
「必要なくても、作りたい物くらいあるさ」
幻の食堂が崩れる。
俺たちがヴォイドを打ち破ったんじゃない。
五人が。
自分で取り戻したんだ。
◇
現実へ戻る。
同時に。
胸元の心律晶が砕け散った。
「ユウト!」
レティシアが破片を見る。
「もう一発は受けられないよ!」
「分かってる!」
「セレス、代わりになるか!」
「完全には無理です! でも、精神安定魔法と正常波形の記録は残っています!」
「なら使える!」
レティシアが即座に破片を拾う。
「捨てるな! あとで繋ぐ!」
その時。
黒い神力が足元から噴き上がった。
【意思決定干渉:第二段階・深化】
【作用:個別意思と選択形成の接続阻害】
【警告:対象は自身の判断を形成しにくくなります】
全身から力が抜ける。
思考が。
薄くなる。
何をするべきか。
分かっているはずなのに。
選べない。
「……ユウト、お兄ちゃん……」
隣でフィーナが膝をつく。
それでも。
倒れながら。
フィーナの手が俺の袖を掴んだ。
「……フィーナは」
震える指に力が入る。
「……離したく、ない」
まだ。
選べている。
ヴォイドが、悲しそうに俺たちを見つめた。
「まだ選ぶのか」
その声には怒りすらなかった。
「そんなに苦しいのに」
黒い神力がさらに濃くなる。
「なら次は――」
ヴォイドがゆっくりと手を伸ばした。
「選ぶための声を、一人ずつ静かにしてあげよう」
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そして本日はここまで。
明日は最終話までの5話を投稿します。
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