第10章 第223話 幸福しかない世界
「今度こそ――君たち全員を、幸福にしよう」
ヴォイドが両腕を広げた。
敵意はない。
怒りもない。
むしろ、長い旅を終えた俺たちを労うような、穏やかな微笑みだった。
「断る」
俺が答えると、ヴォイドは困った子どもを見るように目を細めた。
「まだ、そう言うのか」
ジャラリ。
黒く腐食した封印鎖が揺れる。
「構えるでござる!」
アイリスが剣を抜く。
レティシアが盾を構え、エリシアが杖へ魔力を集めた。
セレスは全員の状態を確認し、フィーナの耳がぴんと立つ。
俺もヴォイドへ【鑑定】を向ける。
【名称:ヴォイド】
【神格:主神級】
【状態:封印崩壊進行中】
【権能:――――】
【神力構造:解析妨害】
【精神干渉:発動――】
同時に、胸元の心律晶が激しく震えた。
「来る!」
数秒。
それだけの猶予だった。
「精神防御!」
セレスの声。
エリシアが結界を重ね、全員が意識を自分の内側へ引き戻す。
それでも。
主神の力は止まらない。
心律晶が悲鳴のような音を立てた。
次の瞬間。
世界から、音が消えた。
◇
「ユウトお兄ちゃん!」
目を開ける。
青空。
草原。
俺へ飛びついてきたフィーナを、反射的に受け止めた。
「こんなところで寝てたの?」
「……フィーナ?」
「うん?」
白い耳が元気に揺れている。
傷一つない。
丘の下には王都。
瘴気も。
避難する人々も。
戦う兵士もいない。
「ユウト殿」
アイリスが歩いてくる。
鎧ではなく普段着。
「昼食の時間でござる」
「また研究しながら寝たんですか?」
エリシアもいる。
「無理は駄目ですよ」
セレスがいつもの笑顔を浮かべる。
「腹減っただろ?」
レティシアは大きな籠を持っていた。
あまりにも。
自然だった。
「……封印迷宮は?」
五人が顔を見合わせる。
「何それ?」
フィーナが首を傾げた。
「ヴォイドは?」
「ここにいるよ」
丘の上に。
白い服の男が立っていた。
鎖はない。
「幻覚か」
「そう呼びたければ」
ヴォイドは否定しない。
「だが、目の前の幸福が偽物なら、それは無価値なのか?」
景色が変わる。
街道。
商人の横を魔物が通り過ぎても、襲わない。
「この世界では、魔物は人を害さない」
治療院。
苦しむ人はいない。
「病気もない」
貧しい地区には、暖かな家と食事がある。
「飢えもない」
フィーナの腕には。
鎖の痕すらない。
「奴隷も存在しない」
「えへへ!」
フィーナが笑う。
「フィーナは最初から愛されて育った」
アイリスを見る。
「アイリスは、鍛えたいだけ鍛えられる。負けて命を失う必要はない」
「理想的でござるな」
「エリシアには知りたい答えがある。研究事故で誰かを傷つける必要もない」
「それなら助かります」
「セレスの治療を必要とする者はいない」
「その方がいいです」
セレスは迷わず言った。
「誰も病気にならないなら、治療師なんて必要ない方がいいですから」
「レティシアの武具も壊れない」
「仲間が守れるなら文句はないね」
どれも。
間違っていない。
少なくとも。
苦しみがないこと自体は。
「そして、ユウト」
広場が現れた。
子どもたちが遊んでいる。
リバーシ。
カルタ。
木片芝居。
知らない盤上遊戯まである。
「君が何もしなくても、皆は幸福だ」
胸が少し痛んだ。
「君はいつも、力を使い切った後に仲間を見る」
ヴォイドが静かに言う。
「自分の選択で、彼らを傷つけたのではないかと」
俺は黙る。
心を読んだわけじゃない。
今までの俺を見ていたんだ。
「もう選ばなくていい」
「……」
「君が間違えても誰も死なない、ではない」
ヴォイドは微笑む。
「君が間違える必要そのものをなくす」
食卓が現れる。
フィーナが肉を頬張り。
アイリスが甘味を見つけ。
エリシアが本を開き。
セレスが茶を淹れ。
レティシアが酒を注ぐ。
俺がずっと守りたかった光景。
「座るといい」
ヴォイドが椅子を引く。
「もう、誰かの命を背負わなくていい」
足が。
一瞬だけ動きかけた。
ここなら。
俺が何もしなくても。
誰も死なない。
「ユウトお兄ちゃん?」
フィーナが手を差し出した。
「一緒に食べよ?」
その笑顔は。
本物と見分けがつかなかった。
俺は聞いた。
「フィーナ。今日も肉?」
「うん! お肉!」
「じゃあ、食べたくない日が来たら?」
フィーナが笑う。
「そんな日は来ないよ?」
「どうして?」
「だって、お肉は美味しいもん」
自然な答えに聞こえる。
でも。
次にアイリスを見る。
「今日は鍛錬する?」
「当然でござる」
「休みたくなったら?」
「そのような日は来ぬでござるよ」
「エリシア。今ある答えを疑うことは?」
「確かな答えなら、疑う必要はありません」
「もし疑いたくなったら?」
「疑いたくなる理由がありませんから」
セレス。
「最善の治療を、患者が断りたいと言ったら?」
「断りたくなる不安も苦痛もないようにすればいいんです」
ヴォイドが俺を見る。
「分かっただろう?」
「選択肢を奪っているのではない」
「苦しい選択を、必要なくしているんだ」
「嫌いになる理由を消す」
「諦めたくなる理由を消す」
「間違った道を選びたくなる理由を消す」
「そうすれば、人は自ら幸福を選び続けられる」
……強い。
理屈だけなら。
本当に。
「それを誰が決める?」
「私だ」
即答だった。
「私は彼らより多くを知り、長く見てきた」
「では、幸福になる道が分かる者が導くべきだろう?」
「子どもが毒を選ぼうとした時、止めるだろう?」
「病人が錯乱して治療を拒めば、救おうとするだろう?」
「なぜ人生だけは、本人が誤った幸福を選ぶのを放置する?」
言葉に詰まった。
ヴォイドは優しく続ける。
「君も同じだよ、ユウト」
「危険を知れば止める」
「間違いを知れば教える」
「救える命があれば手を伸ばす」
「私との違いは、途中で手を離すことだけだ」
「……」
「その先で相手が間違え、苦しみ、死んでも」
「それを自由と呼ぶのか?」
痛いところを突く。
でも。
「違う」
俺は五人を見る。
「病気はない方がいい」
「争いもない方がいい」
「奴隷なんて、絶対にない方がいい」
「怪我もしない方がいいし、失敗で誰かが死ななくて済むなら、その方がいい」
そこは変わらない。
「俺だって止めることはある」
「危険だって言う」
「助ける」
「意識がない人なら、本人に聞けなくても命を救うことだってある」
「なら――」
「でも」
俺はヴォイドを見た。
「助けることと、その人の人生を全部決めることは違う」
ヴォイドの微笑みがわずかに薄れる。
「フィーナが明日、肉より魚を食べたくなるかもしれない」
「アイリスが剣を置く日が来るかもしれない」
「エリシアが今までの研究を間違いだったと思うかもしれない」
「セレスが治療師じゃない生き方を選ぶかもしれない」
「レティシアが武器じゃなく、誰も傷つけない物だけを作りたいと思う日だってある」
レティシアの目が、ほんの少し揺れた。
「その未来まで」
俺は言う。
「お前が先に消すな」
ヴォイドの目が細くなる。
「その結果、彼らが傷ついたら?」
「その時は助ける」
「失ったら?」
「一緒に考える」
「助けられなかったら?」
息が詰まる。
怖い。
その可能性はなくならない。
「……それでも」
まだ全部は、言葉にならない。
「俺が『お前はこれが幸せだから』って、勝手に人生を決める側にはなりたくない」
世界に亀裂が走った。
ヴォイドが悲しそうに俺を見る。
「君はまだ、救えなかった時の重さを知らない」
「知りたくなんてないよ」
俺は答える。
「でも、だからって全部奪っていい理由にはならない」
バキン。
空が砕けた。
◇
「――ユウト!」
目を開ける。
封印最深部。
心律晶が熱を持っている。
五人も倒れてはいなかった。
アイリスは剣を床へ突き立て、片膝をついている。
「……今度は、分かっていたでござる」
フィーナも頭を押さえながら立っている。
「フィーナの夢より、ずっと大きかったけど……騙されないよ」
エリシアも荒い呼吸で杖を握り。
セレスは自分へ精神安定術式をかけ。
レティシアは盾へ身体を預けている。
これまでの幻覚。
心律晶。
全部が。
ほんの少しだけ、主神の干渉へ耐える力になっていた。
その時。
封印鎖が軋んだ。
「まずい!」
エリシアが叫ぶ。
「さっきの神域展開で、封印側の魔力が大量に消費されています!」
ヴォイド自身も見る。
【封印維持力:急速低下】
【原因:主神級権能行使による封印内外圧逆転】
最後の幻覚。
あれほど大きな権能を使ったことで。
限界だった封印が耐えられなくなった。
一本。
二本。
三本。
鎖が弾け飛ぶ。
「私は」
ヴォイドが静かに宙へ浮かぶ。
「誰も苦しまない世界を作りたいだけなのに」
最後の鎖が砕けた。
【封印状態:崩壊】
【主神級存在:拘束解除】
黒い神力が天井を貫く。
大地を通り。
世界へ広がっていく。
【鑑定】に表示が浮かぶ。
【神域展開】
【干渉対象:アルテシア全域】
【権能:幸福――――】
【作用:意思決定への強制干渉】
【侵食:開始】
ヴォイドは、世界そのものを抱きしめるように両腕を広げた。
「大丈夫だよ」
その顔には。
最後まで悪意がなかった。
「今度は――世界中を救ってあげる」
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