第9章 第220話 傷つかない世界
「……誰も、怪我をしていない……」
セレスの声は、穏やかだった。
胸元の心律晶だけが、彼女の状態とは正反対に激しく震えている。
「セレス!」
俺は肩を掴んだ。
だが瞳は開いたまま、何も見ていない。
【対象:セレス】
【状態:神格干渉・進行中】
【精神接続:深度上昇】
【外部神力:侵入中】
【心律晶による侵入遅延:短時間】
【強制解除:精神損傷の危険あり】
「無理に引き戻せない」
「ですが、心律晶は機能しました」
エリシアが結晶を見る。
「完全に取り込まれる直前、セレスは異常を認識できたはずです」
俺はセレスの手を握った。
「聞こえてるか分からないけど……俺たちはここにいる」
返事はない。
その頬を、一筋の涙だけが伝った。
◇
セレスは朝の光で目を覚ました。
「……よく眠りました」
窓の外では、小鳥が鳴いている。
急患を知らせる鐘は鳴っていない。
夜中に起こされることもなかった。
台所へ行く。
いつもなら薬草を煎じる時間だ。
だが、薬棚は空だった。
「ああ……そうでしたね」
必要ないのだ。
病人がいないから。
朝食を作っていると、フィーナが駆け込んできた。
「セレスお姉ちゃん、おはよう!」
「おはようございます」
「今日もみんな元気だよ!」
アイリスも傷一つない。
エリシアは魔力疲労もなく本を読んでいる。
レティシアの手に火傷はない。
ユウトも。
無茶な魔法を使って倒れていない。
誰も傷ついていない。
誰も苦しんでいない。
その日。
セレスは何もしなかった。
治療院を訪れる患者は一人もいない。
二日目も。
三日目も。
十日経っても。
救いを求める声はなかった。
「……こんなに静かな毎日があるんですね」
最初は落ち着かなかった。
けれど次第に、身体から力が抜けていった。
誰かを救えなかったらどうしよう。
薬が間に合わなかったら。
治療法を間違えたら。
自分の判断が遅れたら。
そんな不安を抱えなくていい。
『疲れていたのだろう』
ヴォイドの声が響いた。
「……そうかもしれません」
『もう、誰かを救えなかったことで苦しまなくていい』
その言葉に。
セレスは返事をしなかった。
代わりに町へ出た。
そこには、見覚えのある顔がいた。
かつて治療院へ運ばれてきた人。
毒が回りすぎて救えなかった冒険者。
病が重すぎて、回復魔法でも助けられなかった老人。
間に合わなかった人々。
皆、生きている。
「セレス先生!」
何人もの人が手を振る。
「……よかった」
涙が溢れた。
「本当に……よかった……」
『これが、お前の望んだ世界だ』
「はい」
今度は素直に答えた。
生きている方がいい。
苦しまない方がいい。
助からないより、助かる方がいい。
そこに迷いはない。
『ならば、ここにいればいい』
セレスは涙を拭った。
「……そうですね」
そう思った。
本当に。
◇
さらに時間が流れた。
ある日。
セレスは広場で、一人の子どもへ尋ねた。
「今日は何をして遊ぶんですか?」
「幸せに過ごします!」
「何をして?」
「幸せなことです!」
別の子へ聞く。
「将来、何になりたいですか?」
「幸せになりたいです!」
「どんな仕事を?」
「幸せな仕事です!」
セレスの笑みが、少しだけ薄れた。
大人にも尋ねる。
「今日はどこへ?」
「幸せな場所へ」
「何を食べたいですか?」
「幸せになれるものを」
誰も困ってはいない。
誰も泣いていない。
けれど。
誰も、自分のことを話さなかった。
「……どうしてですか?」
『何がだ』
「この人たちは、何をしたいんですか?」
『幸せでありたい』
「それ以外です」
『必要か?』
胸の奥が冷えた。
『人は間違える』
『危険な道を選ぶ』
『治療を拒む者もいる』
『正しい薬を嫌がる者もいる』
『お前が助かる方法を知っていても、本人が拒めば死ぬこともある』
セレスは黙った。
『それでも本人へ選ばせるのか?』
『その死を、自由だと言うのか?』
厳しい問いだった。
実際に、治療を怖がる人はいた。
薬を嫌がる子どももいた。
無茶をして傷を悪化させる冒険者もいた。
「……いいえ」
『ならば』
「命に関わる時は、止めます」
セレスが答える。
「意識がなくて本人に聞けないなら、助けるために治療します」
『ならば私と同じだ』
「違います」
『何が違う』
セレスは少し考えた。
難しい言葉ではなく。
これまで自分がしてきたことを思い出す。
「治療が怖い人には、何をするのか説明しました」
「薬が苦いと泣く子には、飲めたらお菓子を用意しました」
「無茶をする冒険者には、治るまで寝てくださいって怒りました」
『お前も相手の選択を変えている』
「はい」
セレスは認めた。
「助かってほしいから、説得します」
「でも」
広場を見渡す。
「治ったあとに、何を食べるかまでは決めません」
「誰を好きになるかも」
「どんな仕事をするかも」
「どこへ行くかも」
「私が代わりに決めることではありません」
『間違えて不幸になっても?』
「それを防げるなら、手伝います」
『それでも失敗したら?』
「一緒に考えます」
ヴォイドが沈黙する。
「苦しまなくていいなら、その方がいいです」
セレスの声は柔らかい。
「病気なんて、ない方がいい」
「怪我だってしない方がいい」
「死ななくて済むなら、その方が絶対にいいです」
だから。
この世界を嫌いにはなれなかった。
「ここで生きている人たちを見られたことは……嬉しかったです」
救えなかった人々を見る。
「ずっと、こうだったらよかったのにって思います」
『ならば残れ』
「でも」
セレスは首を振った。
「この人たちは、元気になったんじゃありません」
「自分で生きることまで、止められている」
『苦しませないためだ』
「治療は、その人を消すことではありません」
セレスは胸へ手を当てた。
「私がしたいのは――」
目を閉じる。
思い浮かべたのは、治療を終えた人が自分の足で帰っていく背中だった。
「その人が、自分で明日を選べるところまで連れて帰ることです」
白い世界へ亀裂が走った。
『その先で、また傷つく』
「その時は」
セレスは微笑む。
「また治します」
世界が砕けた。
◇
「――っ!」
セレスが大きく息を吸った。
「セレス!」
「……戻りました」
膝をつきながら、自分で床へ手をつく。
しばらく俯いたあと。
目元を拭った。
「あの世界を……嫌いにはなれませんでした」
誰も何も言わない。
「救えなかった人たちが生きていて……嬉しかったです」
それでも。
セレスは顔を上げる。
「でも、残りたいとは思いません」
俺は頷いた。
「おかえり」
「はい。ただいまです」
セレスは胸元の心律晶を見る。
「これ、ちゃんと役に立ちました」
エリシアが確認する。
「侵入直前に異常を認識できましたか?」
「はい。ほんの数秒でしたけど」
「十分です」
セレスは小さく笑った。
「数秒あれば、仲間へ危険を伝えられます」
その瞬間。
フィーナの耳が跳ねた。
「来る!」
ゴゴゴゴゴ――!
床。
壁。
天井。
無数の魔力反応が一斉に動き出す。
「前だけじゃない! 壁の中にもいるよ!」
石像兵が壁を突き破って現れる。
その奥から、巨大な四足の守護獣が姿を見せた。
口内に凄まじい魔力が収束していく。
【発動魔法:アースジャッジメント】
【属性:土】
【階級:帝級】
【範囲:前方局所圧縮】
【発動まで:約6秒】
「帝級……!」
エリシアが周囲を見る。
「この区画の封印壁なら、局所使用には耐えられます」
レティシアが床を踏む。
「支持柱も生きてる! 広げすぎなきゃ問題ない!」
「なら」
俺は杖を握った。
アイリスが前へ出る。
「前衛は拙者にお任せを!」
「フィーナ、側面!」
「任せて!」
「セレスは後方!」
「はい!」
俺は息を吸う。
帝級以上は、ずっと必要な時だけ使ってきた。
でも。
ここは世界最高難度の封印迷宮。
この先にいるのは神だ。
「もう、上級で様子を見る段階じゃない」
魔力を解放する。
床の古代魔法陣が震えた。
守護獣の口内で帝級魔法が完成する。
俺も。
初めてこの迷宮で、帝級魔法を真正面から構築した。
「来い」
次の瞬間。
二つの帝級魔法が、同時に放たれた。
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