第2章 第22話 持ち帰るべき勝利
「来ます!」
ユウトが叫ぶのと、変異ジャイアントラットが石床を蹴るのはほぼ同時だった。
子牛ほどの巨体が、濁った水を跳ね上げながら迫る。左右の足場は人一人が歩ける程度しかない。三人が並んで避けられる幅ではなかった。
「反対側へ跳んでください!」
槍使いの青年と獣人族の女性が、中央の水路をまたいで向かいの足場へ飛ぶ。ユウトは元いた側へ残り、怪物の進路を引きつけた。
【突進軌道:直線】
【頭部皮膚:硬化】
【右前脚:成長不均衡】
【急停止時、体勢を崩す可能性あり】
【特徴:聴覚発達・高音への過敏反応】
「右前脚を狙います! 槍を低く固定してください!」
「承知した!」
青年は槍の石突きを壁際の溝へ押し当て、穂先を低く構えた。正確に突くのではなく、怪物自身を踏み込ませるつもりだ。
ユウトは掌を向けた。
「ライト!」
白い光が変異個体の正面で弾ける。
鋭い光を浴びた怪物が顔を背け、わずかに進路を乱した。その右前脚が、固定された槍の穂先へ勢いよく突っ込む。
肉を裂く音が響いた。
それでも巨体の勢いは止まらない。
「槍を離してください!」
青年が手を放した直後、変異個体は槍を前脚へ突き立てたまま壁へ激突した。石片が飛び散り、黒い毛が宙を舞う。
【状態変化:右前脚損傷】
【移動能力:低下】
【次行動:噛みつき】
痛覚が鈍っているためか、怪物はすぐに頭を持ち上げた。
ユウトは足元へ置いていた硬質木の棍棒を拾い直し、二人の前へ出る。
「下がってください」
「お前一人で戦う気か!」
「倒すためではありません。逃げる時間を作ります」
火魔法なら大きな傷を与えられる。
だが、下水路には腐敗した汚泥や可燃性の気体が溜まっている可能性がある。爆発や火災が起きれば、三人の退路まで失われる。
光だけでは足止めが短い。
ユウトは中央の水路へ視線を落とした。
使うのは、すでに習得している初級水魔法。その術式を新しく作り変えるのではなく、これまでの練習で覚えた魔力制御によって、着弾位置と破裂方向だけを調整する。
「ウォーターボール!」
拳ほどの水球が怪物の足元へ当たり、薄い水膜となって湿った石床へ広がった。
変異個体が飛びかかる。
損傷した右前脚が滑り、巨体が大きく傾いた。
「今です!」
獣人族の女性が緊急信号具の栓を抜き、怪物の前へ投げる。
甲高い音と赤い光が噴き上がった。
信号具は音と光だけでなく、冒険者ギルドに設置された受信器へ固有の魔力波を送る仕組みになっている。ただし地下では位置が曖昧になるため、救援を呼ぶと同時に、今は怪物の注意をそらすためにも使った。
高音へ反応した変異個体が顔を上げる。
ユウトは濡れた床を踏み込み、露出した腹部へ棍棒を振り抜いた。
鈍い衝撃が腕へ返る。
【腹部損傷:軽度】
【凶暴化:上昇】
仕留めるには足りない。
「走ってください!」
三人は一斉に後退した。
ユウトが最後尾に入り、何度も振り返る。変異個体は滑りながら起き上がり、濁った声を響かせた。
右前脚を傷つけても、人間より速い。
「左の横穴へ!」
獣人族の女性が、先ほど発見した細い通路を指した。
「図にない道です。行き止まりかもしれません!」
「奥から風が来てる! 水音の向こうに、人の声も聞こえる!」
石壁と濁流が音を遮る下水路では、遠くの気配までは拾えない。それでも横穴の入口へ近づいたことで、彼女の優れた聴覚が外へ続く空気の流れを捉えたのだ。
「入ります!」
三人は身を屈め、横穴へ飛び込んだ。
青年が入口脇の崩れた石を蹴り落とす。完全には塞げなかったが、変異個体の巨体がすぐ通れる隙間ではない。
背後から、石を削る音が響いた。
「もう壊し始めてる!」
「急ぎましょう!」
獣人族の女性を先頭に、傾斜した通路を駆け上がる。
ユウトは走りながら、彼女が【気配察知】を使った時の呼吸と意識の向け方を思い返した。
目だけに頼らない。
水音、振動、風、臭い。
すべてを拾おうとせず、必要な一つへ意識を絞る。
【探索上達】と【スキル上達】が、見た技術と実際の経験を結びつけていく。
【スキル:気配察知】
【習得状態:未完成】
【現在可能な範囲:意識を集中した一方向の大きな音や振動を判別可能】
実戦で自在に使える段階ではない。
それでもユウトは、背後の石が崩れる音を水音から切り分けた。
「追いつかれます!」
坂の先には、錆びた鉄格子があった。
青年が肩をぶつけても開かない。
「鍵が掛かっている!」
ユウトが【鑑定】する。
【旧排水路管理扉】
【状態:錆付き】
【施錠:地上側の掛け金】
【格子越しの操作:困難】
【破損箇所:右上蝶番】
「右上の蝶番を壊せば外れます!」
三人で蹴りつける。
一度目では軋むだけだった。
二度目で錆が剥がれ、三度目に蝶番が砕けた。
鉄格子が外側へ倒れ、眩しい日差しが差し込む。
三人が飛び出した先は、北西区の端にある旧排水路脇の空き地だった。近くを歩いていた住民たちが驚いて足を止める。
「排水口と下水路の入口から離れてください!」
ユウトは声を張った。
「南側の広場へ避難してください! 地下に大型の魔物がいます!」
槍使いの青年が住民を誘導し、獣人族の女性は予備の信号具を空へ打ち上げた。
赤い光が町の上空で弾ける。
間もなく、武装した冒険者とギルド職員が駆けつけた。地下で作動させた信号の魔力波を受信した時点で、北西区へ救援班が向かっていたらしい。先頭には、登録試験を担当したバルガスがいた。
「状況を報告しろ!」
「下水路内に、危険度D相当の変異ジャイアントラットが一体。外部からの魔力干渉によって異常成長しています。右前脚を負傷させましたが、討伐はしていません」
ユウトは簡易図を広げ、通常個体を倒した場所、変異個体を発見した地点、図にない横穴、脱出した旧排水路を順に示した。
「確認した通常個体は四匹です。変異個体は一体だけですが、深部は未調査なので、ほかにいないとは断定できません」
「それでいい」
バルガスは周囲へ素早く指示を出す。
「入口と旧排水口を封鎖! Dランク以上で討伐班を組め! 住民は南側広場へ誘導しろ!」
命令を受けた職員と冒険者が動き始める。
ユウトは、ようやく息を吐いた。
怪物を倒すことは選ばなかった。
その代わり、三人で生きて戻り、危険を伝えた。
「俺たちだけなら、最初の突進で終わっていたかもしれない」
槍使いが傷んだ槍を見つめる。
「俺一人でも、出口は見つけられませんでした」
ユウトが答えると、獣人族の女性が疲れた顔で笑った。
「一人で全部できなくても、三人なら戻れた。それでいいでしょ」
その言葉が胸へ残った。
強い魔法で敵を倒すことだけが、冒険者の仕事ではない。
仲間と戻り、正しい情報を持ち帰り、人々を危険から遠ざける。
それもまた、勝利なのだ。
バルガスが三人の前へ戻ってくる。
「調査依頼は達成扱いだ。報酬は一人につき大鉄貨四枚。変異個体の情報提供報酬は、確認後に別途支払われる」
報酬は三人全体ではなく、参加者ごとに設定されていたらしい。
「だが、受け取りは治療院へ行った後だ。汚水を浴びた装備も消毒してもらえ」
「分かりました」
「それと、ユウト」
呼び止められ、ユウトは振り返った。
「勝てるかどうかではなく、戻るべき時に戻る。その判断を忘れるな」
「はい」
ユウトが頷いた直後、足元から低い咆哮が響いた。
続いて、一つ、二つと鳴き声が重なる。
深部にいた個体が、変異ジャイアントラットの咆哮と信号具の音へ反応し、次々に目を覚ましたのだろう。
石畳の下から伝わる振動は、一体分ではなかった。
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