第9章 第218話 答えのない頁
エリシアは、一冊の本を開いたまま動かなかった。
古代の書庫。
天井まで届く巨大な本棚。
無数の魔導書。
そして、その中央で立ち尽くすエリシアの身体から、淡い黒色の神力が細い糸のように伸びている。
「エリシア!」
呼び掛けても返事はない。
俺はすぐに【鑑定】を使った。
【状態:神格干渉による深度幻覚】
【身体状態:安定】
【外部神力接続:継続中】
【神力干渉への抵抗反応:微弱】
【解除方法:――解析妨害――】
【警告:外部からの強制解除は精神負荷を増大させる可能性あり】
「無理に引き戻せない」
「脈は安定しています」
セレスがエリシアの手首へ指を添える。
「ですが、少しずつ呼吸が浅くなっています。長く放置していい状態でもありません」
「ユウトお兄ちゃん」
フィーナが鼻をひくつかせた。
「黒い匂い、エリシアお姉ちゃんだけじゃないよ」
「どこだ?」
「本棚の奥。それと……床の下」
俺が視線を向けた、その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ――。
古代書庫全体が振動する。
左右の本棚の隙間から、石と金属で作られた人型が三体、ゆっくりと姿を現した。
【名称:――閲覧不能――】
【分類:古代封印守護機構】
【危険度:A相当以上】
【動力:古代魔力炉】
【追加干渉:――解析妨害――】
「来るぞ!」
「承知いたした!」
アイリスが前へ出る。
だが俺は、もう一度エリシアを見た。
今ここで俺たちが守るべきなのは、眠っている仲間だけじゃない。
彼女自身が、自分で戻るための時間だ。
◇
エリシアの目の前には、世界中の魔法があった。
失われた古代術式。
精霊魔法の完全理論。
空間魔法の深層構造。
帝級。
伝説級。
さらに、その先。
一冊開けば、一生を費やしても到達できない答えが記されている。
「……素晴らしいですね」
エリシアは呟いた。
心からそう思った。
百二十年生きてきた。
それでも知らないことばかりだった。
だから里を出た。
遺跡へ潜った。
危険な魔法陣を調べた。
分からないものを、分かるようになる瞬間が好きだった。
目の前の本には、それが全部ある。
まだ治せない病を治す魔法。
魔力炉の事故を完全に防ぐ術式。
瘴気汚染を安全に除去する方法。
そして――。
ユウトと何度も書き直した、未完成の複合魔法理論。
その完成形まで記されていた。
「……これを持ち帰れば」
何人救えるだろう。
どれだけ多くの事故を防げるだろう。
エリシアの指が頁をなぞる。
優しい声が響いた。
『望むだけ読めばいい』
ヴォイド。
『お前が生涯を費やしても知り得ぬものを、私は与えられる』
「便利ですね」
『そうだ』
「非常に便利です」
エリシアは次の本を開いた。
疑問が浮かぶ。
答えが書いてある。
別の疑問が浮かぶ。
その答えも、隣の頁にある。
さらに考える。
その先まで書いてある。
エリシアの手が止まった。
「……少し、嫌ですね」
『なぜ?』
「私が考えるより早いので」
『考える必要がない。それは幸福ではないのか』
新たな本が開く。
そこには、治療法の確立まであと十年必要な病について書かれていた。
『その十年で死ぬ者がいる』
エリシアの瞳が揺れる。
『お前が考える時間のために、人は死ぬ』
『失敗から学ぶと言う。その失敗で傷つく者はどうなる』
『正解があるのに、なぜ遠回りを望む?』
エリシアは黙った。
それは正しい。
分かるなら、早い方がいい。
失敗しなくて済むなら、その方がいい。
苦しむ必要などない。
「……そうですね」
『ならば受け取ればいい』
「はい。答えを教えてもらうこと自体は、嫌ではありません」
エリシアは本を閉じた。
「楽に分かるなら、その方がいいです」
一瞬、ヴォイドの気配が緩む。
「でも」
エリシアは周囲を見渡した。
「ここには、私がいません」
『いる』
「身体の話ではありません」
古代魔法陣を前に、ユウトと朝まで議論したことがある。
ユウトの【鑑定】で構造は見えた。
だが、意味までは分からなかった。
だから二人で考えた。
エリシアが古代文字を読み。
ユウトが魔力の流れを追い。
互いに仮説を出し。
何度も間違えた。
そして、最後に二人で答えへ辿り着いた。
「あの時間、私は好きでしたよ」
ヴォイドの声が返る。
『必要ない』
『私ならば、最初から正しい答えを与えられる』
エリシアは少しだけ目を細めた。
「……それが一番嫌ですね」
『なぜ?』
「ユウトが必要ないからではありません」
近くの本を一冊抜き取る。
完成された魔法式が並んでいる。
その最後の頁。
下半分だけが空いていた。
エリシアは指先へ魔力を集め、その余白へ小さな魔法陣を書き始めた。
『その術式の完成形は、三つ隣の本にある』
「知っています」
『ならば、なぜ書く?』
「私が、書きたいからです」
線を一本。
考える。
消す。
もう一度引く。
「答えを知ることは好きです」
もう一本。
「間違えなくて済むなら、それも嬉しいです」
さらに一本。
「でも、何を疑うか」
円を加える。
「何を調べるか」
術式を繋ぐ。
「どの答えを使うか」
最後の線を引く。
「それくらいは、私に選ばせてください」
未完成の魔法陣だった。
効率も悪い。
三つ隣の本を開けば、もっと美しい完成形があるのだろう。
それでもエリシアは満足そうに笑った。
「考えるところまで奪わないでください」
黒い書庫へ亀裂が走る。
「そこは――私の楽しみですから」
◇
「はあっ!」
アイリスの剣が守護機構の腕を弾いた。
「硬いでござるな!」
「右肩の継ぎ目!」
俺が叫ぶ。
弱点表示は隠されている。
だが三度の攻撃で、右肩だけ動作がわずかに遅れるのを見た。
「承知いたした!」
斬撃が関節へ叩き込まれる。
同時にレティシアが床へ工具を突き立てた。
「こいつら、床下の魔力路から動力を取ってる! 壊すんじゃなくて切り替えるぞ!」
「フィーナ!」
「こっち!」
フィーナが本棚の陰に隠された点検口を見つける。
俺たちが戦っている間も、セレスはエリシアから離れなかった。
「ユウトさん!」
振り向く。
エリシアの指が動いた。
「戻ってきます!」
黒い神力の糸が弾ける。
「……っ」
エリシアが大きく息を吸った。
倒れかけた身体をセレスが支える。
「エリシア。私が分かりますか?」
「セレスです」
「ここは?」
「古代大迷宮の封印経路内。書庫区画です」
「目的は?」
「ヴォイドの封印最深部へ到達すること」
セレスが安堵の息を吐いた。
「大丈夫そうですね」
「頭は少し痛いですが」
エリシアは目を瞬いた。
「……最悪でした」
フィーナが守護機構の攻撃を避けながら叫ぶ。
「最高の本がいっぱいあったんじゃないの!?」
「はい。最高でした」
「じゃあなんで最悪なの!?」
「私が考える前に、全部答えられるんです」
エリシアの眉が珍しく深く寄った。
「非常に腹が立ちました」
「そこ!?」
俺は思わず笑いそうになった。
だがエリシアはすぐに立ち上がる。
そして、まだ動き続ける三体の守護機構ではなく――床を見た。
「ユウト」
「分かるのか?」
「ええ。この書庫、すべてが幻ではありません」
エリシアが杖を床へ向ける。
「幻覚に使われていた知識の中に、本物の古代術式が混ざっていました」
表情が変わる。
研究者の顔だ。
「この守護機構も、破壊する必要はありません」
「どうする?」
「本来の命令へ戻します」
杖先から細い魔力線が走る。
俺の【鑑定】では黒く潰されていた古代式。
だがエリシアは、実際に見て、考えていた。
「レティシア。床下の第三魔力路を残してください」
「了解!」
「ユウトは左側の干渉術式だけ切断を」
「分かった」
「アイリス、十秒お願いします」
「十秒でよいのか?」
アイリスが刀を構える。
「十分でござる!」
十秒後。
書庫を満たしていた黒い光が消えた。
三体の守護機構が、一斉に膝をつく。
【古代封印守護機構】
【状態:正常化】
【命令:封印区画防衛】
【外部神力干渉:解除】
「成功です」
エリシアが満足そうに頷いた。
俺は床へ落ちた一冊の古代魔導書を拾う。
【古代封印術式記録】
【内容:一部破損】
【記録項目:神格干渉、封印補強、――】
【追加記録:高位広域魔法術式】
【階級:伝説級】
【習得条件:――解析可能――】
息が止まる。
「……エリシア」
「見えましたか?」
「ああ」
ここには、幻覚だけじゃない。
本当に、神話時代の知識が残っている。
そして俺たちは今まで、その領域の魔法を実戦で使ったことがない。
エリシアが俺の手元を覗き込む。
眠そうだった瞳が、一瞬で輝いた。
「興味深いですね」
「休んでからな」
「ユウトに言われるとは思いませんでした」
「俺も今ちょっと思った」
セレスがにっこり笑う。
「お二人とも、あとでお説教です」
そんな声の向こうで。
カン――。
乾いた金属音がした。
レティシアが振り返る。
書庫の奥。
開いた壁の向こうに、一つの工房が現れていた。
中央の台座に置かれているのは、一振りの武器。
傷一つない。
欠けない。
歪まない。
壊れない。
【鑑定】を向けた瞬間、文字が黒く塗り潰された。
【名称:――】
【品質:――】
【耐久:――】
【製作者:レティシア】
「……違う」
レティシアが、低く呟く。
「あたしは、こんなもん打ってない」
その声に応えるように、工房の奥から笑い声が聞こえた。
仲間たちの声だった。
誰一人傷つかず。
誰一人武器を壊さず。
一度も守れなかったことのない世界から。
レティシアの顔から、笑みが消えた。
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