第9章 第216話 奪われなかった人生
石壁が、ゆっくりと迫ってくる。
「まずい……!」
ユウトは眠ったままの五人を見回した。
フィーナは涙を流しながら笑っている。
アイリスたちも目を閉じたまま動かない。
ユウトは急いで全員へ【鑑定】を向けた。
【フィーナ】
【神力干渉:中度】
【精神幻惑:進行中】
【自己判断力:低下】
【アイリス】
【神力干渉:軽度】
【精神幻惑:進行中】
【エリシア】
【神力干渉:軽度】
【セレス】
【神力干渉:軽度】
【レティシア】
【神力干渉:軽度】
「フィーナが一番深い……!」
まず彼女だ。
だが、壁も待ってはくれない。
ユウトは床へ視線を走らせた。
【古代迷宮可動壁】
【機能:通路再構成】
【動力:古代魔力機構】
【現在状態:神力干渉】
【封印中枢との直接接続:なし】
【局所駆動機構:床下】
【停止方法:――――】
肝心の手順だけが黒く潰れている。
それでも。
「中枢じゃないなら……!」
床の細い溝へ手を向ける。
「アイスウォール!」
床下へ流し込んだ冷気が、可動部の隙間で一気に凍り付く。
破壊するのではない。
氷を噛ませて、一時的に動きを止める。
ゴゴゴゴ――。
石壁の動きが鈍り。
やがて止まった。
だが床下から、ミシ、ミシ、と氷の軋む音が聞こえる。
「長くはもたないな……」
ユウトはフィーナの傍らへ膝をついた。
手を握る。
「フィーナ」
返事はない。
「無理やり引き戻したりしない」
以前、幸福を強制された町で学んだ。
心へ干渉されている者を、こちらの都合で乱暴に引き戻してはいけない。
「でも、帰りたいって思ったら――俺はここにいる」
フィーナの指が、ほんのわずかに動いた。
◇
朝。
目を覚ますと、焼いた肉の匂いがした。
「フィーナ、起きた?」
「……うん!」
柔らかな寝床から飛び起きる。
小さな家。
木の壁。
窓の向こうには森。
外では、白い尾を持つ子どもたちが走り回っている。
台所には、フィーナによく似た白狼族の女性。
少し離れた椅子には、大柄な男性が座っていた。
顔を見るだけで、胸が温かくなる。
家族なのだと。
説明されなくても思えた。
「ほら。冷める前に食べなさい」
「わぁ……!」
大皿に並んでいるのは肉料理。
フィーナは椅子へ飛び乗った。
「いただきます!」
「ゆっくり食べろよ」
「はーい!」
誰にも取られない。
急いで口へ詰め込まなくてもいい。
残したって怒鳴られない。
鎖もない。
命令もない。
食べ終われば、家の外へ飛び出す。
「フィーナ、今日は何する?」
同じくらいの年頃の子が聞く。
「森行こう!」
「じゃあ川まで競争!」
「負けないよ!」
走る。
笑う。
転ぶ。
「いたっ!」
膝を擦りむいた。
けれどすぐに家へ戻れば。
「もう。そんなに急いで走るから」
女性が傷を洗ってくれる。
「痛い?」
「ちょっと!」
「次は気をつけなさい」
「うん!」
それだけだった。
失敗しても怒鳴られない。
叩かれない。
命令もされない。
次の日も。
その次の日も。
フィーナは笑っていた。
町の祭りへ家族で行った。
好きなお菓子を一つ選んだ。
新しい服を買ってもらった。
友達と喧嘩した。
仲直りした。
森で迷って叱られた。
それでも翌朝には、いつもの食卓があった。
――こんな毎日だったら。
そう思った。
こんなふうに育てたなら。
怖い荷馬車にも。
冷たい鎖にも。
隷属印にも。
出会わなかった。
ある日の朝。
「今日は家にいましょうね」
女性が言った。
「え?」
「森の奥で魔物が出たらしいの」
「じゃあ、近くならいい?」
「今日はやめておきましょう」
「……うん」
その日は家にいた。
次の日。
「今日は町へ行きたい!」
「道で怪我をするかもしれないでしょう?」
「でも――」
「家で遊べるものを用意したから」
優しく頭を撫でられる。
フィーナは頷いた。
また次の日。
「川に――」
「危ないから、やめておきましょう」
また次の日。
「友達のところ――」
「今日は家族と一緒にいましょうね」
怒られない。
命令口調でもない。
ただ。
気付けば。
フィーナが何かを選ぶ前に、道が一つずつ閉じていた。
「……ねえ」
「どうしたの?」
「フィーナ、自分で決めてもいい?」
女性は笑った。
「もちろんよ」
優しい声だった。
「でも、危ないことを選んで後悔したら悲しいでしょう?」
「……うん」
「だったら、安心できる方を選びましょう」
フィーナは黙る。
正しいように聞こえる。
自分を心配してくれているだけにも見える。
だから。
余計に分からなくなる。
その時だった。
手のひらが。
ほんの少しだけ温かくなった。
誰かに握られているような感触。
同時に。
遠くから、声がした気がした。
『……帰りたいって思ったら――』
フィーナの耳が動く。
「ユウト……お兄ちゃん?」
女性の表情が変わらないまま尋ねる。
「誰?」
その瞬間。
記憶が戻る。
街道。
壊れた荷馬車。
鎖。
隷属印。
そして。
自由になった後。
初めて自分で料理を選んだ日のこと。
服を選ぶのに迷いすぎて、店員を困らせたこと。
宿を決められず、何軒も見て回ったこと。
それでもユウトは急かさなかった。
初めて自分で受けたい依頼を選んだ日。
失敗した日。
フィーナが見落とした痕跡を、仲間と一緒に探し直した日。
誰も。
「だから言ったのに」
とは言わなかった。
「……あ」
フィーナは気付いた。
目の前の人生は幸せだ。
きっと。
本当に。
こんなふうに育てたなら、すごく幸せだった。
「フィーナ?」
「……うん」
涙がこぼれた。
「こうだったらよかったなぁ」
それは嘘ではない。
こんな家族が欲しかった。
奪われなかった子ども時代が欲しかった。
普通に笑って、遊んで、叱られて。
そんな人生を歩きたかった。
「だったら、ここにいましょう」
女性が手を差し出す。
フィーナは、その手を見る。
そして。
笑った。
「でもね」
自分の手を見る。
剣だこ。
縄を扱ってできた小さな傷。
旅でついた痕。
「今のフィーナも、嫌いじゃないよ」
女性が止まった。
「怖いこともあった」
「なら忘れればいいわ」
「忘れたくないこともあるもん」
初めて自分で選んだ料理。
初めて自分で選んだ服。
フィーナが見つけた道。
救えた人。
仲間と笑った夜。
「この人生だったら、ユウトお兄ちゃんにも、アイリスにも、エリシアにも、セレスにも、レティシアにも会ってない」
「もっと幸せになれる」
「……そうかも」
フィーナは素直に認めた。
「こっちも、すっごく幸せだと思う」
だからといって。
今まで歩いた道が、間違いになるわけではない。
「フィーナ、自分で選んできたものを、なかったことにしたくない」
女性の輪郭が揺れる。
「失ったものを返しているだけだ」
家族の声ではない。
優しい声。
ヴォイド。
『奪われた人生を取り戻したくないのか?』
「欲しいよ」
フィーナは答えた。
「でも――それと、今のフィーナを捨てるのは別だよ」
世界に細い亀裂が走る。
「もし本当にやり直せるとしても」
フィーナは、自分で一歩後ろへ下がった。
「どっちにするかは、フィーナが決めたい」
家族の姿が崩れていく。
最後まで。
女性は優しく笑っていた。
フィーナは泣きながら。
それでも、自分で背を向けた。
◇
「――っ!」
フィーナの目が開いた。
「フィーナ!」
「ユウトお兄ちゃん……」
握られた手を見る。
幻覚の中で感じた温かさ。
「これだったんだ……」
「え?」
「ううん」
フィーナは目元を拭った。
「ちょっとだけ、すっごく幸せな夢だった」
ユウトは何も否定しない。
「……そっか」
「うん」
少しだけ寂しそうに。
でも、笑う。
「夢でも、会えて嬉しかったよ」
その直後。
ガキン!
床下の氷に大きな亀裂が入った。
「まずい、壁がまた動く!」
ゴゴゴゴゴ――!
石壁が再び迫り始める。
「みんなを運ぶ!」
「待って!」
フィーナの耳が跳ねた。
鼻をひくつかせる。
「……変」
「何が?」
「匂い」
フィーナは眠るアイリスたちを見る。
そして。
迫ってくる石壁の向こうへ顔を向けた。
「アイリスたちの匂いが……向こうにもある」
「え?」
「ここにもいる。でも、向こうからもする」
ユウトは眠っているアイリスへ【鑑定】を向けた。
【生命反応:あり】
【魂反応:取得不能】
【肉体構造:本人記録と一部不一致】
【詳細:神格干渉により閲覧不能】
背筋が冷える。
「……これ、本当にアイリスなのか?」
次の瞬間。
壁の向こうから。
はっきりと声が響いた。
「ユウト殿! 聞こえるでござるか!」
今度は間違えようもない。
アイリスの声だった。
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