第9章 第215話 知らない思い出
黒く塗り潰された【帰還経路】の文字を見つめながら、ユウトは小さく息を吐いた。
「……帰り道も、【鑑定】じゃ追えない」
「なら、別の方法で残しましょう」
エリシアが白墨を取り出し、壁へ印を付ける。
六人で十歩ほど進み、振り返った。
「あれ?」
フィーナが耳を立てた。
白い印がない。
レティシアが壁へ手を当て、しばらく感触を確かめる。
「消されたんじゃない。壁が動いてる」
「迷宮そのものが?」
「ああ。ほんの少しずつだがね」
エリシアも魔力を流し、眉を寄せた。
「通路を組み替えるための魔力が流れています。ただ……全部は追えません」
フィーナが床へ鼻を近づける。
「匂いなら残ってるよ。みんなのも、フィーナのも」
「なら三つ使おう」
ユウトは提案した。
「フィーナは匂い。エリシアは魔力の流れ。レティシアは石の動き。俺も覚えられる範囲で道を記憶する」
「いいと思います。ただし」
エリシアは杖を上げる。
「相手が神格です。三つとも同時に狂わされる可能性はあります」
「……絶対に帰れる方法じゃないんだね」
「はい」
セレスが静かに答えた。
「だからこそ、違和感があればすぐ止まりましょう」
「うん!」
フィーナが元気よく頷く。
六人はさらに奥へ進んだ。
やがて現れたのは、地下へ延々と続く螺旋階段だった。
一段ずつ降りていく。
しばらくすると。
「……あれ?」
フィーナが足を止めた。
「どうした?」
「お肉の匂いがする」
「肉?」
「うん。焼いたお肉。すっごくおいしそうなやつ」
ユウトには何も感じない。
代わりに。
「拙者には……茶の香りがするでござる」
アイリスが呟いた。
「私は古い魔導書の匂いですね」
エリシアまで続く。
「わたしは……煮込み料理です」
セレスが戸惑う。
「こっちは炉だ。鉄を打つ時の匂いがする」
レティシアの表情も険しくなる。
全員違う。
「……俺は」
ユウトの鼻をかすめたのは。
洗濯したばかりの布団と。
少し古い畳にも似た。
懐かしいような――けれど、ここには存在するはずのない生活の匂いだった。
「止まろう」
ユウトが言った。
だが。
一歩遅かった。
頭の奥へ、温かい何かが染み込んでくる。
「セレス!」
「はい、皆さん――」
声が遠ざかる。
視界が白く染まった。
◇
目を開けると。
見慣れた天井があった。
「……え?」
ユウトはゆっくり起き上がる。
狭い部屋。
古い壁紙。
安い机。
ベッドの横には読みかけの小説。
孤児院を出てから借りた、自分の部屋。
窓の外から車の音がする。
遠くを電車が走っている。
胸が締め付けられた。
「日本……?」
机の上の端末が震えた。
『採用のお知らせ』
画面を見た瞬間。
記憶が自然につながった。
高校を卒業した。
孤児院を出た。
一人暮らしを始めた。
就職先も決まった。
事故には遭っていない。
異世界へも行っていない。
「……そう、だった?」
疑問に思ったはずなのに。
次の瞬間には、その疑問さえ薄れていく。
コンコン。
玄関が鳴った。
「ユウト?」
女性の声。
聞いたことなどないはずだった。
それなのに胸の奥が、勝手に理解する。
――母さんだ。
ユウトは扉を開けた。
写真の中でしか知らない男女が立っていた。
少し年を重ねている。
それでも分かる。
「……父さん、なのか?」
男が笑った。
「何を言ってるんだ?」
隣の女性も微笑む。
「誕生日のお祝い、ちゃんとしてなかったでしょう?」
母親が紙袋を持ち上げる。
「今日は何が食べたい?」
「何が……」
「あなたが食べたいものでいいのよ」
その言葉に。
ユウトの口が反射的に動いた。
「……何でもいいよ」
母親は困ったように笑う。
「またそれ?」
「え?」
「小さい頃からそうだったでしょう。何を食べたいって聞いても、何でもいいって」
心臓が跳ねた。
父親が笑う。
「でもカレーの日は分かりやすかったな。鍋の匂いがすると、台所の周りをうろうろして」
「あと、ピーマンは苦手だったわね」
「それは六歳くらいまでだろ」
「八歳よ」
「そうだったか?」
二人が笑う。
あまりにも自然だった。
ユウトは何も言えない。
自分には確かめようがない。
両親と過ごした幼い記憶など、ほとんど残っていないのだから。
もしかしたら。
本当に、こんな会話をしていたのかもしれない。
「さあ、何が食べたい?」
もう一度聞かれる。
「……カレー」
気付けば答えていた。
「じゃあ決まり」
母親が嬉しそうに笑った。
その笑顔を。
もっと見ていたいと思った。
◇
三人で食卓を囲んだ。
カレーは美味しかった。
父親は仕事の話をした。
母親は新しい部屋に必要なものを聞いてきた。
「冷蔵庫、小さいままで大丈夫?」
「うん」
「今度、三人で見に行こう」
「……三人で?」
「嫌なの?」
「違う」
ユウトは首を振る。
「行きたい」
その言葉を口にしただけで、胸が熱くなった。
欲しいと言っていい。
行きたいと言っていい。
誰かが、それを聞いてくれる。
孤児院では、年下の子へ譲ることが普通になっていた。
欲しい物があっても。
食べたい物があっても。
どこかへ行きたくても。
言わない方が楽だった。
「これからは我慢しなくていいのよ」
母親が言った。
ユウトの手が止まった。
「……我慢しなくて?」
「そう」
「欲しいものがあれば言えばいい」
父親も続ける。
「失敗したって、俺たちがいる」
欲しかった。
ずっと。
こんな言葉を。
幼い頃に聞きたかった。
高校を卒業した時にも。
一人で部屋を借りた時にも。
誰かに言ってほしかった。
だから。
「……もう少しだけ」
ユウトは小さく呟いた。
「ん?」
「何でもない」
偽物かもしれない。
そう思う自分はいた。
でも。
たとえ偽物でも。
もう少しだけ、この食卓にいたかった。
◇
夜。
ユウトはベッドへ寝転がり、小説を開いた。
「……あれ?」
内容が違う。
知らない物語だった。
それなのに。
なぜか最後まで知っている気がする。
主人公は失敗しない。
誰にも嫌われない。
欲しい物は必ず手に入る。
最後まで、一度も悩まない。
ページをめくる手が止まった。
「面白い?」
母親が扉から顔を出す。
「……分からない」
「なら、面白い物語にしてもらえばいいじゃない」
「してもらう?」
「あなたが悲しくならないお話に」
ユウトは本を閉じた。
何かが。
ほんの少しだけ、ずれた。
「母さん」
「なあに?」
「この本、俺が選んだの?」
沈黙。
ほんの一瞬だった。
母親はいつもの笑顔に戻る。
「あなたが好きな本よ」
「俺が?」
「ええ」
「いつ選んだ?」
「そんなこと、気にしなくていいでしょう?」
優しい。
怒っていない。
「ここには、あなたが欲しいものしかないんだから」
ユウトは立ち上がった。
嫌な予感がする。
なのに。
母親の顔を見ると、離れたくないと思ってしまう。
「……父さんと母さんが生きてたらって、思ったことはある」
母親は微笑む。
「なら、ここにいればいいわ」
「うん」
ユウトは一度、頷いた。
そのまま目を伏せる。
「……そうしたい」
本心だった。
父親と母親がいる。
帰る家がある。
選んだことを聞いてくれる人がいる。
これを捨てたくない。
けれど。
「でもさ」
ユウトは顔を上げた。
「俺、本当に二人がこういう人だったのか知らないんだ」
母親の笑顔は変わらない。
「知らなくてもいいのよ」
「……やっぱり、それは違う」
何が正しいのか。
まだ全部は説明できない。
この幸福を否定したいわけでもない。
欲しかった。
今でも欲しい。
だからこそ。
「これは……俺の思い出じゃない」
母親の笑顔が、初めて止まった。
『それでも幸福だ』
声が変わる。
部屋中から響く。
『望んでいたものだろう?』
「……うん」
ユウトは否定しなかった。
「欲しかったよ」
胸が痛む。
「だから迷う」
写真でしか知らなかった両親を見る。
「でも、ここに残るかどうかまで決められたくない」
『なぜ苦しむ方を選ぶ?』
「分からない」
ユウトは正直に答えた。
「まだ、うまく言えない」
それでも。
「ここにいるか、帰るか。それくらいは俺に選ばせてくれ」
しばらく。
何も起きなかった。
母親が手を伸ばす。
「ユウト」
その声は。
あまりにも優しかった。
ユウトは一瞬だけ、手を伸ばしかけた。
そして。
拳を握る。
「……帰る」
世界に亀裂が入った。
母親も。
父親も。
部屋も。
夕食の残った食卓も。
すべてが音もなく崩れていく。
最後まで。
二人は優しい顔をしていた。
◇
「――っ!」
ユウトは螺旋階段の途中で目を覚ました。
身体が冷たい。
額には汗。
周囲を見る。
「みんな……?」
返事はない。
アイリスは壁際で目を閉じている。
エリシアも。
セレスも。
レティシアも。
全員、生きている。
だが眠ったままだ。
そして。
少し離れた場所に座り込んだフィーナが、小さく笑っていた。
「えへへ……」
涙を流しながら。
幸せそうに。
「今日も、一緒にご飯食べようね……」
誰かへ話しかけている。
ここにはいない誰かへ。
ユウトが立ち上がる。
その瞬間。
背後の石壁が。
音もなく、ゆっくりと動き始めた。
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そして本日はここまで明日も5話投稿します。
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